Arm und Nacken die Begierde, 腕と首なら 欲望のキス

mudan tensai genkin desu -yuki

フリーデリケ・ベーエが他の少女たちとは異なる十代を終えた時、彼女の精神はいささか病みつかれていた。
外からは誰も訪れることのない屋敷。薄暗く閉ざされた世界で、彼女は日に二度、屋敷の主人であるグレゴールのもとを訪れる。
今はもう私室から出ることのない彼は、やって来る彼女をおおむね歓迎してくれていたが、彼女が自身の血を彼に与えようとすると、ひどく険しい顔でそれを拒否した。
だがそれも数日のことで、与えられた血が足りなくなれば、彼はまた朦朧としたままフリーデリケの血に口をつける。
日によって異なる彼の精神と体調。
その揺らぎに二年もの間付き添ったフリーデリケは、自身も少しずつ傾いているのだと、自覚することさえままならないでいた。






「グレゴール」
穏やかな声を出したいと願う時、彼女はいつも幼い日の記憶を呼び起こす。
家族を喪い一人となった彼女にグレゴールがかけてくれた声。
かけがえのない響きは、年月が経った今、当時よりも強く彼女の心を支えていた。
フリーデリケは優美な足取りで彼の座す寝台へと歩み寄る。
グレゴールは曇天の如き目で彼女を見つめた。フリーデリケが寝台の上に腰をかけると、彼は少し体を引く。
「どうして来たのだい、フリーデリケ」
「いつも来ているわ」
「君は、私のところへ来るべきではないのだ」
この二年の間に幾度となく聞いた言葉。
しかしそれは、繰り返せば痛みに慣れるというわけでもない。フリーデリケは美しい眉を歪めて男を見つめた。
「そんなことを言わないで、グレゴール」
「屋敷を出なさい」
「グレゴール」
女は苛立ちを塗りこめるように唇を閉ざす。胸元から細いナイフを取り出すと、男の顔は戦慄に凍った。
震える声がか細く訴える。
「やめてくれ」
「少しでいいのよ」
「フリーデリケ」
男の懇願にもかまわずフリーデリケは袖を捲くった。
白く細い手首。そこには既に無数の傷痕がついている。フリーデリケはまだ生々しく赤い線が走る上に、ナイフの刃を押し当てた。
音もなく滲んでくる真紅。グレゴールは慄きつつも鮮やかな色から目を逸らすことが出来ない。
フリーデリケは用意してあった小さなゴブレットで滴る血を受ける。
黒い石のゴブレットに落ちていく血は、それ自体も黒く艶かしい光を放っているようだった。
女は器の底が見えなくなると、ハンカチで傷口を押さえる。
白い絹布がみるみる血で染まっていく様を、グレゴールは固唾を飲んで見つめた。

フリーデリケも、こうしてハンカチに吸い込まれる血を勿体無いと思わないわけではない。
だが彼は、どれほど衰弱の縁にいても、彼女の傷に直接口をつけることだけは嫌がった。
もしかしたら、開かれた血の流れを思うままに吸い出してしまうのではないかと、自身の本能を恐れているのかもしれない。
フリーデリケはそのように己を拒む彼の姿を見る度、焦げ付くような情動を覚えて仕方なかった。
「グレゴール、ほら、どうぞ」
ゴブレットを差し出すと、男はまるで意思のある彫像のように固まってしまう。
立ち昇るその香り。
彼女の血を退けたい理性と貪りたい本能の狭間で、人ならざる彼は縫いとめられた。

フリーデリケは寝台の上に乗り出し、男の口にゴブレットを近づける。
純粋な憐愛と憂慮から伸ばした手。
けれど、それを振り払うことも出来ず苦悩する彼と向かい合う時、彼女はぞっとするような悦びを覚えるのだ。
濁った青い瞳にちらつく欲望。
以前までであれば、どれほど彼女が縋り付こうとも見せなかった衝動を、今のグレゴールは苦渋と共に顕にする。
それは彼女の深奥に燻るような熱を灯し、束の間の快い酩酊をもたらした。
もう一歩、更にもう一歩を踏み込みたい欲が、頭をもたげる。
フリーデリケは陶然とした気分に駆られ、彼に体を寄せた。ゴブレットの縁を男の口に押し当てる。
ささやかな吐息までもが響き渡りそうな無言の間。微かに漂う血の匂い。
暗い部屋を揺らすものは何もない。誰も入ってくる者はいない。
かつて共に一つの道を来た二人は、今は閉ざされた部屋でお互いだけを見つめ沈黙する。
フリーデリケは残酷な欲情に溺れかける自分を予期して、左手で白いシーツをきつく握った。
伏せたくなる瞼の裏で、無数の薔薇が朽ち果てていく。



今見ているものが幻視であるのか現実であるのか、分からなくなるような倒錯。
ほんの数分にも数時間にも思える鬩ぎあいの果てに、男は小さく息をついた。
フリーデリケは優位を信じて嫣然と微笑む。
だがその時、枯れ枝のような腕があがり、女の手首を掴んだ。ゴブレットの中の血が揺れてさざなみだつ。
彼女はぎょっとして左手を添え、ゴブレットを支えた。
「グレゴール……?」
「私は、弱い」
自嘲の苦味さえない、ただ落ちていくだけの声。
フリーデリケは澄んだ目を見開いて、目の前の男を注視した。甘い希望と、それを打ち消す恐怖が彼女の内心を冷やす。
男は淡々と、すぐ鼻の先にある女の血を見下ろし言った。
「弱いから、君を犠牲にしたりするのだ……もう終わりにしようと思ったはずなのに」
「……犠牲になど」
声が震える。
血に飢え、弱りきっているはずの男の手。
しかしそれは、鉄の枷のように彼女の腕を中空に拘束していた。
フリーデリケの背筋を、強張った熱が走り抜ける。
―――― このようなところからして違う。
彼は人ではない。死に瀕してもなお、人間を捻じ伏せる力を持っているのだ。
本来ならば容易く彼女を蹂躙し、支配することの出来る存在。
フリーデリケは人ならざる男を前に、乾ききった喉を鳴らして囁く。
「私が、それを望んでいるのよ。あなたに生きていて欲しいの」
「だとして、いつまでこれを続ける? 君が弱りきって死ぬまでか? それまで私は君を蝕み続けるのか」
「どうしてそんなことを言うの? ―――― 生きることの何が悪いの」
素朴で真摯な問い。
その瞬間だけフリーデリケは、元の幼いフリーデリケのようであった。
グレゴールの瞳が乱れ、指が緩む。彼女はその隙にゴブレットを引き寄せると、自らそれを一飲みで煽った。
自身の血に濡れた唇を、引こうとする男の手首に押し当てる。



いつまで続けるのか、と。
その問いに対する答などとうに決まっている。永遠にだ。
フリーデリケは男の袖の下に指を伸ばす。
冷たく蒼白い皮膚。彼女を抱かぬ腕に焦がれるような口付けを散らし、顔を上げた。
息を飲むグレゴールを見て、無性に笑い出したくなってくる。
どのような紅よりも紅い唇。忌まわしくも美しい女の目で、フリーデリケは艶やかに微笑んだ。
白く柔らかな両腕が、蔓草のように男の首に絡みつく。
彼女はグレゴールの首筋に顔を埋めて笑った。
「あなたと共にいたいわ。ただそれだけなのよ」
「フリーデリケ」
「それだけの為に何でも出来るわ。生きている限り、私はやめない」

―――― だから、それが厭ならば殺して、と。
フリーデリケは心の中で呟く。
ゆっくりと下ろした瞼。閉ざした視界の中に、彼に貪られる自分が思い浮かんだ。
想像の中の女は、寝台の上だらりと四肢を伸ばし、冷え切った血の一滴まで彼の為に献じている。
肌をささげ、熱を流し、愛しい男と溶け合って眠る最後。
その充足はどれ程のものなのだろう。
フリーデリケは己の空想に恍惚となった。子供の真似事のように、歯を立てて彼の首に口付ける。
渇えた男の前に曝された血肉。
グレゴールは凍りついた目で、暗い部屋に映える女の首筋を見下ろした。
瑞々しい躰。重く甘い香りが、精神を緩やかに腐食させていく。
彼は冷たい指でフリーデリケの髪を梳いた。長い爪が嬲るように女の肌の上を蠢く。



落ちる時は一瞬だ。
そしてそれは、断たれる時もそうなのだろう。
グレゴールは短い嘆息を洩らし、女の体を押しのけた。
哀しみを湛えた目が、フリーデリケを見つめる。
「部屋に戻って手当をしなさい」
「グレゴール」
「行きなさい。私は……君を変えたくないのだ」
弱弱しい懇願。
その呟きを残して男は再び仰臥する。留める間もなく息のない深い眠りへと落ちていった。
冷えていく空気。
触れ合っていた時間は既にひどく遠い。
フリーデリケは途端襲ってくる虚脱感に打ちのめされ、寝台の上に縮こまった。傾いていく視界に耐え切れず、彼女は目を閉じる。
―――― 苦しいと。
思うことさえも苦しい幻想。
やがて女はのろのろと起き上がると、再び彼を訪ねる為、光のない部屋を出て行ったのである。