mudan tensai genkin desu -yuki
フリーデリケ・ベーエの人生において、その終わりが安らかなものであったか、知る者は誰もいない。
彼女の向かいに座すグレゴールにさえ、それは不明瞭な事柄であったろう。いやむしろ向かいにいるからこそ、彼には分からなかったのかもしれない。
少なくともフリーデリケが彼と暮らし始めてから十六年。二十二歳になった彼女は、美しく穏やかな貌を彼に向けていた。
薔薇のような微笑を持つ女。
薄暗い屋敷で育った彼女は、翳りを纏い鮮やかに咲く。
だがこの閉ざされた場所では、どのような花もやがては早々に枯れ果ててしまうのだ。
※
その日の空は薄曇りであった。
一面の灰色が広がる天。雨を落とすには少し軽い雲を、フリーデリケは晴れ晴れとした表情で見仰ぐ。
彼女はテラスに置かれたテーブルの上に自らお茶の準備をすると、部屋に戻って寝台に座る男に手を差し伸べた。
老いた男は温かな目でその手を見やる。
「今日は外でお茶にしましょう、グレゴール」
「ああ……それは素敵だ。ありがとう」
彼は女の手を取り立ち上がった。綺麗に伸びた背筋。かつてのように静かな威はなくとも、その洗練された上品さには変わりがない。
フリーデリケは眩しそうに男の姿を見上げ、彼をテラスへと招いた。
二人は風のない外で、向かい合って座る。
整然と整えられたテーブル。彼女は男の為だけに細心の注意を払ってお茶を淹れた。
立ち昇るよい香りにグレゴールは目を細めて、黒い森を眺め渡す。
曇り空を映す彼の瞳は、慈愛を込めてフリーデリケを見つめた。彼女が髪に挿す薄紅の花が、色の乏しい世界で一際鮮やかに揺れる。
フリーデリケは澄んだ色を湛える紅茶を、男の前に置いた。
「調子はどう? グレゴール」
「大分いい。君のおかげだ」
グレゴールが彼女の血を定期的に採るようになってから、既に四年が経過している。
その間二人は幾度も食い違いとすれ違いを繰り返し、時には精神が擦り切れるような思いを味わっていた。
だがそれも、今では嘘のように遠い日の出来事に思える。
死の結末を望むグレゴールと、彼を生かしておきたいフリーデリケ。
噛みあわぬ彼らの望みは、いつからか「七日に一度だけ、フリーデリケが血を与えて眠っている彼を起こし、束の間を共にする」という習慣に落ち着いていた。
彼女とお茶を飲む時間を除いて深い眠りに落ちている男は、彼女が死ねばその後を追って目覚めぬまま生き絶えるのだろう。
一時期は頑強に彼女の血を飲むことを拒んでいた彼は、その終わりと彼女の慰めの為に、今の状況を受け入れたのだ。
それでも彼は、覚醒する度フリーデリケに、自由になるよう勧めることをやめなかったのではあるが。
屋敷を囲む黒い森は、十六年前のあの日から変わることがない。
グレゴールが言うには、何百年も前から同じままなのだという。フリーデリケは二階のテラスから麓の町がある方向を振り返った。
その様子を見て男は、優しい声をかける。
「たまには町に行ってみてはどうだい? ヨハンとももう何年も会っていないのだろう」
「ええ。たまに話を聞くくらい」
フリーデリケ自身は、町には下りない。
だが時折やって来る通いの商人から、人里の話を聞くことはあるのだ。
彼女は一年前に結婚したというかつての友人のことを思い出す。
懐かしく不器用であった思い出。フリーデリケは細いカップの持ち手に指をかけた。胸のすくような香りを楽しみ、肺の痛みを受け流す。
そのまま彼女は、熱いお茶を飲まぬままテーブルに戻した。
グレゴールは森を見ながら再度彼女に勧める。
「町へ下りてみたらどうだろう、フリーデリケ」
「無理よ」
「無理などということはない。君は人間だ。若く美しい。いくらでも新しい人生が選べるだろう」
「選べないわ。もう無理なの、グレゴール」
フリーデリケは安穏とした気分で、男に向けて笑った。
灰色の景色。人生の大半を過ごした愛する風景を前に、彼女は深く息を吸う。
目前の眺めに重なって見えるものは、乾いた道筋だ。
あの日彼に拾われた道。死体の上に砂塵の降り積もる幻視を、女は思い起こす。
そしてフリーデリケは、凄艶な笑みと共に、血の香の混ざる息を吐き出した。
「麓の町は滅んだわ。流行り病ですって。ヨハンも死んだそうよ」
静寂は、彼との間に流れる時はいつも、どこかしら甘い願いを孕んでいた気がする。
ささやかに吹き始める風。湿り気を帯び始めた空気に、フリーデリケは空を見上げた。
もう何年も日光を見た記憶がない。おそらく彼女の体も少しずつ綻びていたのだろう。
だからこのような遠い屋敷に住んでいるにもかかわらず―――― 病を受けてしまうのだ。
フリーデリケは柔らかな声音で、絶句しているグレゴールに告げた。
「私もそうなの。二日くらい前から咳に血が混じって……もう長くないわ」
今になって思えば、「もう来られない」と最後に告げに来た商人と、話をしたことが不味かったのかもしれない。
あの男もやたらと引っかかるような咳をしていた。フリーデリケは夜中に血を吐いて、そのことを思い出したのだ。
だが今更そうと分かっても意味はないだろう。
フリーデリケは少なくとも、死を恐れてはいなかった。
本来ならば彼女は十六年前、家族を追って死ぬはずだった子供なのだ。それが今に変わったとしても、運命の帳尻があったとしか思わない。
―――― ただ一つ、願うことが許されるならば。
陽光のようと湛えられた金髪を揺らめかせ、フリーデリケはグレゴールを見つめる。
何も言えぬ男に、彼女は愛情に満ちた目を向けた。テーブルの上に伸ばされた左手が、震える彼の手を取る。
「あなたが人間でなくてよかったと、今ほど思ったことはないわ。
だってあなたには病など関係ないのでしょう? 私はそれが嬉しい」
「……フリーデリケ、医者を呼ぼう。少し待っていなさい」
「いいえ。聞いて、グレゴール。
―― でも、そう思っても、私の後にあなたが死んでは厭なのよ。私はそんなことちっとも望んでやしない。
そんな風には大人になれなかったわ。私はまだ思ってる。あなたがずっと生きていてくれればいいと」
「フリーデリケ」
グレゴールは立ち上がる。
そのままテーブルを回って来ようとする男を、彼女は目だけで留めた。テーブルの下に隠し持っていたナイフを取り出す。
鈍く光る刃。よく磨かれたその切っ先を見て、男は不可解なものに対するように息を詰めた。
フリーデリケは消えなかった手首の傷痕を一瞥する。
「あの時、私を拾ってくれてありがとう。とてもとても幸せだったわ。
だからきっと、あなたはまた誰かに出会える。 今度こそ孤独を拭える相手に巡り会えるかもしれない。
生きてさえいれば、よ。あなたは人とは違う。望めばそれが叶うのよ」
出来るなら、自分がその相手になりたかった。
フリーデリケは目を閉じて微笑む。
強くなる風は、彼女の髪から薄紅の花を奪い去っていった。
散り散りになった花弁がテラスの石畳に散る。グレゴールは厳しい表情になると、彼女に向かって手を伸ばした。
その指先が触れる前に、フリーデリケは高々と謳う。
「あなたを愛している、グレゴール。私はあなたの全てを肯定するわ。
だから、死んだ私をどうするかはあなたが決めて。
このまま土に流すのか、もう一度拾ってくれるのか―――― どうか、お願いよ」
最後の一言は、笑顔での言葉ながら、まるで痛切な悲鳴のように響いた。
フリーデリケは両手でナイフを握りこむ。鋭い刃先を、己の胸目掛けて強く引いた。
白い胸元に銀の刃が潜り込む寸前。男の指が咄嗟にナイフの柄を掴み、刃の動きを留める。
しかしフリーデリケは次の瞬間、両手を広げて彼の胸に飛び込んだ。
命とも等しい情念を込めて、男の首に巻きつかせた腕。
フリーデリケは幸せそうに笑んで、彼の頬に唇を寄せた。
けれどその唇が届く前に、彼女の体は大きく痙攣する。
心臓の只中に深く刺さった刃。それだけを彼の手元に残し、フリーデリケの体は崩れ落ちた。
石畳に咲く花のような姿。
グレゴールは呆然と女の躰を見下ろす。
広がっていく血の染み。流れ出す紅い命は留めることが出来ない。
グレゴールは膝をつき、震える手で彼女の体をかき抱いた。
「フリーデリケ」
未だ温かい肌。彼女の残した声が、耳の奥でこだまする。
男はきつく目を閉じて彼女の頭を抱えた。指の隙間から金の髪が滑り落ちる。
「フリーデリケ、どうして君は」
彼女は答えない。嬉しそうな貌をして眠ったままだ。
その願いが如何なるものであったのか、この時になってようやくグレゴールは理解する。彼は重い息を吐いた。
分かれていく運命を思わせる数秒。
人が人として切望する道の終わり。
そして彼は、血の溢れ出す女の胸に顔を埋める。
※
※
あてどない旅の終わり、最後に立ち寄る場所はいつも決まっている。
人の踏み入らぬ深い森の向こう、鬱蒼とした木々の先にある小さな草原だ。
あの日と同じ薄曇りの日。
数年ぶりにその場所を訪れたグレゴールは、腕に白いドレスを着た女の体を抱いて、一歩一歩青草を踏みしめた。
規則的に並ぶ白い墓石を、男の目は哀惜を込めて見回す。数百にも及ぶそれらの全ては、彼が自ら立てたものだった。
グレゴールは静かな声で抱き上げた女に囁く。
「本当に、人になりたいと思っていたのだよ。人のように生きて死にたいと。
けれどそう思いつつも私は、弱く浅ましい生き物だった。いつも最後には、彼女たちの好意に甘えて命を繋いだ」
墓石に刻まれた女の名一つ一つを、彼は覚えている。
彼に惜しみない愛情を注ぎ、その命を繋ぎたいと言ってくれた女たち。
今は冷たい土の下で眠る彼女たちは、皆それぞれの充足を覚えて、彼に己の血を差し出したのだろう。
グレゴールはその感情を愛しいと思いつつも、芯では苦しくて仕方なかった。
「だからもう終わりにしようと思っていた。もうここに墓石を増やすことはすまいと決めた。
だが君は…………どうして私に辿りついてしまったのだろうな、フリーデリケ」
静謐を湛える墓地の中央には、石の祭壇が置かれている。
今まで多くの女の体が横たえられた祭壇。その上に、グレゴールは彼女の躰を仰臥させた。しわのない手が金の髪を愛しげに撫でる。
「どうして最後に、君のような女性に出会ったのだろう。
―――― 老いた私を愛した女は、長い生涯で君だけだった」
女の貌を見つめる男の顔は、若々しい美しさに満ちていた。
死の間際にいた姿とは異なる、彼本来の姿。グレゴールは青い目を伏せ、冷たい唇に口付ける。
その時微かな風が吹き、白いドレスをたおやかに揺らした。
長い旅の終わり。
永遠に続く贖罪の始まり。
細い指が、静かに男の銀髪を梳く。
「だって私は、あなたの白い髪も好きだったのよ」
艶のある声。
澄んだ空と同じ瞳が、ゆっくりと開かれる。
翳りを生む花。フリーデリケは愛らしい微笑を浮かべ、男を見上げた。体温のない掌が彼の頬に添えられる。
「グレゴール。会いたかったわ」
男はその声に微笑んで応える。
沈黙する墓所。冷たい石の居並ぶ中を、二人は共に歩いていく。
言葉ない道行き。子供の記憶を、フリーデリケはもう思い出さない。
彼女は隣の男に腕を絡め、甘い声で耳打ちした。
「ずっとその姿のままなの? どうして変わったの?」
「君の心臓の血を貰ったからだ。百年ほど血を断てば、また少しずつ老いていく。あちらの姿の方が好きかね?」
「どちらかと言えば、ね。今のあなたは私より綺麗なのだもの」
「君は美しい女性だよ」
てらいのない言葉を聞いて、フリーデリケは幸福そうにその身を寄せた。
草原を出て森の中へと戻る時、彼女は勝ち誇った目で墓石の列を振り返る。
しかし、グレゴールはそれには気付かない。彼は伴侶となった女を連れて、過ぎ去りし時を後にする。
あとには嘆く者も謳う者もなく、ただ渇いた風だけが吹いていた。
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