In die hohle Hand Verlangen, 掌の上なら 懇願のキス

mudan tensai genkin desu -yuki

フリーデリケ・ベーエが己の望みをグレゴールに告げてから数ヶ月が経った。
人ならざる男と、永遠の道行きを共にしたいという望み。
それは彼のやんわりとした拒絶にあって、二人の間で中空に浮く形となっていた。
十八歳になったフリーデリケは、大人のものとなりつつある美貌に憂いを乗せて、男との埋められぬ距離を思う。
自分の手がついには彼に届かないのではないかという焦燥。
それは、グレゴールの変化を案じる気持ちと複雑に絡み合い、丁度表裏のようになっていた。






屋敷の外は雨である。
フリーデリケは窓硝子につく水滴を内側から指でなぞった。厚い雲が覆う空を見上げる。
もう三日も雨が続いている。
この屋敷にあっては日光など大した意味もないが、外に出られないとなると、途端に気詰まりに思えてしまう。
これはもう人の傲慢なのだろう。幼い頃は雨を喜んで庭を走り回り、グレゴールを心配させたものだが、今の彼女はそのような真似をする気には到底なれなかった。
フリーデリケは窓から離れ、ドレスの裾を引いて自室を出る。
グレゴールを探そうと、特に理由もなく考え、彼女は屋敷の中を彷徨い歩いた。
書斎を見て、居間を見て、だが何処にも彼の姿はない。フリーデリケは最後にグレゴールの私室へと向かった。
広い彼の部屋の、更に寝室まで立ち入る許可を与えられている者は、召使の中でもほんの一握りだけである。
その中にフリーデリケは当然入っていなかったが、二週間前のある一件以来、グレゴールは彼女が入ってくることを黙認するようになった。
寝室へと続く厚い扉。その前で、フリーデリケは燭台に炎を灯す。
三度ノックして、何も返ってこないと分かると、彼女は音をさせないよう扉を押し開けた。足を忍ばせ、奥にある寝台へと進む。
「グレゴール……?」
返事はない。だが寝台には、誰かが眠っていると思しき影が見える。
フリーデリケはひやりとするような思いを味わい、足を速めた。嫌な予感が脳裏を過ぎる。
サイドテーブルに燭台を置くと、彼女は男の眠る枕元を覗き込んだ。震える手を伸ばし、彼の額に触れる。
「グレゴール」
彼に体温はない。眠っている時は息さえしない。
それはグレゴールが彼女に直接教えてくれたことで、だからこの時、フリーデリケは彼が生きているのかどうか、確かめる術を持たなかった。
彼女は声を強める。
「グレゴール、起きて頂戴」
恐怖がフリーデリケの足首を捕らえる。彼女は二週間前のこと、グレゴールが突然倒れた日のことを思い出していた。

それは、本当に唐突な変化だった。
出会った時から変わらずに見えた男。しかし彼はその日、詩を朗読するフリーデリケの前で何の前触れもなく崩れ落ちたのだ。
半狂乱になり、医者を呼ぶと騒いだフリーデリケを、一時間後目覚めた男は宥めた。
その時に彼は教えてくれたのだ―――― 寿命が近づいている、と。
老いた人間であれば、誰しもが迎えるであろう天運。
しかしフリーデリケは、それに納得することは出来なかった。
彼は人ではない。
グレゴールが自身の性質を詳しく教えてくれることはなかったが、書物に書かれたことを信じるならば、彼はおそらく不死者であるのだろう。
ならば何故寿命などがあり得るのか。
フリーデリケはそこに一つの推測を持っていた。

「グレゴール」
両手で彼の手を握る。
冷たい肌。しかし男はようやくうっすらと目を開けた。濁った青い瞳がフリーデリケを捉える。
彼女はほっと安堵して、表情を緩めた。
「グレゴール、具合はどう?」
「……平気だ。心配させてしまったね」
「衰弱が酷いのよ」
嘆息混じりの言葉に男は沈黙する。それは彼女の推論が正しいことを意味していた。
フリーデリケはドレスの中から小さなナイフを取り出す。グレゴールのひび割れた声が彼女を制止した。
「やめなさい」
「このままでは死んでしまうわ」
「私はもう寿命なのだよ」
彼女を留める枯れた声。フリーデリケは美しい顔を歪めてグレゴールを見下ろした。溜息よりも重い息が長い毛の絨毯に落ちる。
「違うでしょう……? あなたのそれは寿命ではないわ。
 私は、あなたが食事をしているところを一度も見たことがない。
 昔はそれを、本当に食事が要らないのだと思っていたわ。
 もっと大きくなってからは、私の見えないところで食事をしているのだと。
 でも違ったのでしょう? グレゴール」
フリーデリケはナイフの刃を自分の掌に押し当てた。グレゴールの目が僅かに見開く。
床についているとは思えぬ鋭い声が、男の口から放たれた。
「フリーデリケ、やめなさい」
「どうして? あなたを死なせたくないのよ」
「こうやって終わるのなら、私はそれで構わないのだ」
グレゴールは細い腕をついて寝台に体を起こした。
乱れた白髪。青い瞳が強い意志を以って彼女を見据える。
いつでも穏やかな優しさと慈愛を彼女に注いでくれた双眸。
しかし今、その瞳はある種の力を帯びてフリーデリケを見つめていた。彼女は思わずナイフを持つ手を緩める。
人と、人に非ざる者。
その違いがこれほどはっきりと目に見えたことはないだろう。フリーデリケは男の眼光に射すくめられ、言葉を失くした。
グレゴールは腕を伸ばして、彼女の手から刃物を取り上げる。
男の青白い掌がナイフの刃を握りこむ様を、フリーデリケは半ば自失して見やった。
「どうして?」
「私は既に充分生きた」
「まだ私がいるわ」
「君ももう大人になる」
積み重なる言葉は、重ねられた端から崩れていく。
フリーデリケは襲ってくる眩暈に顔を片手で覆った。嗚咽にならぬ息が喉元を滑り落ちる。
「ねえ、聞いて……」
「私が死んだらこの屋敷は君のものだ。好きに処分して町に下りなさい。不安ならばヨハンを頼るといい」
「グレゴール! やめて頂戴!」
彼女の悲鳴は、暗い部屋を雷光のように切り裂いた。
フリーデリケは肩で息をする。心が体を乗り越えてしまうと思ったことは、これが初めてだった。
彼女は寝台の傍に両膝をつくと、グレゴールの手を取る。
ナイフを握ったままの手。その指に、彼女は己の指を絡めて解いた。男が息を飲む気配が分かる。

目を閉じた先に浮かんでくるものは、無数の干からびた躯だ。
路傍の石のように道の脇々に転がる死骸。その中には、彼女の喪われた家族もいるのだろう。
フリーデリケの意識は、死者が飾る道を黒衣の男を追って走った。
彼女は男の掌の、刃の上に唇を触れさせる。
はじめに感じたものはひんやりとした鉄。ついで血の温かさが、彼女の唇を濡らした。
フリーデリケはそれに構わず、きつく男の手に口付ける。
彼の手を支える両手が、そして彼自身の手が、恐ろしいほどに震えていた。
「グレゴール」
吐いた息は、血の匂いがする。
それは彼にとって強い誘惑でもあるのだろう。男の顔が苦痛に歪んだ。フリーデリケは体を起こし、寝台の上に乗る。
「私は、あなたに生きていて欲しい」
傲慢を承知で願う。
そうでなければ彼には届かないだろう。
彼を留められるものがあるとしたら、それは彼が庇護して育てた自分以外にはないと、フリーデリケは気付いていた。
血塗れた唇を、白い指が拭う。
彼女は己の血が滴る指先を、男の口元に向けて伸ばした。
グレゴールはその赤に魅入られたかのように硬直していたが、我に返ったのか顔を背ける。
しかし彼女は僅かな抵抗に怯むことなく、血塗れた指を彼の口の中に割り込ませた。
気が遠くなるような感覚。冷たい口内で男の舌が彼女の指先を拭う。
フリーデリケは彼にもたれかかりたい虚脱感をかろうじて堪えた。傷がないはずの指先から、魂までもが吸い取られるような錯覚を抱く。
「生きて欲しいのよ……グレゴール」
呟きに、男は言葉で応えない。
ただ水を求める子のように胡乱な視線を向けられ、フリーデリケは己の血を彼に差し出した。



衰弱の縁にあって、僅かばかりの食物を採った男は、再び深い眠りの中へと沈んでしまった。
フリーデリケはその寝姿を見下ろし、幾許かの罪悪感を抱く。
次に目が覚めた時グレゴールは、おそらく彼女の血を飲んだことを後悔するだろう。
だがそうであっても彼女は、彼の命を繋げたかった。フリーデリケはナイフを拾い上げ男の部屋を出ると、召使の一人を呼ぶ。
彼は彼女がこの屋敷に来る以前からグレゴールに仕え続けていた男で、その男に、フリーデリケは自らの指を切って血を溜めた小瓶を渡した。
「これを。グレゴールに少しずつでも採らせて頂戴」
「かしこまりました」
男は丁寧に頭を下げて、血の小瓶を受け取る。
フリーデリケはひとまずの安堵を覚えて、その場を離れた。
―――― これでしばらくは、彼の命を繋げる。
だがそれも長くは続かないだろう。彼自身が進んで食事を採る気になるか、或いは彼の正気が薄れている間にもっと多量の血を与えでもしなければ。
フリーデリケは止まない溜息を吐き出しながら、磨かれた廊下を歩いた。
その時、背後から彼女の名を呼ぶ声がする。
「フリーデリケ、どうかしたのかい?」
振り返ってみると、そこにはいつから来ていたのかヨハンが立っていた。
来る途中で雨に濡れたのだろう。水の滴る服の裾を、彼は気まずそうに摘んでみせる。
「ごめん。廊下を濡らして」
「……何しに来たの?」
「最近グレゴールの具合が悪いみたいだろ? 君も心配だろうと思って、薬師からいくつか薬を貰ってきたんだ」
これは濡れてないから、と懐から取り出された紙袋を見て、フリーデリケは沈黙する。
耐水紙で何重にも包まれたそれを、彼は善意で持ってきてくれたのだろう。だがそれらがグレゴールを回復させることはないのだ。
彼に必要なものは、生きた人間の多量の血。今のフリーデリケはそれが欲しくて仕方ない。
彼女は健康そうな男の体を、冷えた目で見つめた。ヨハンは笑顔のまま、少しだけ不思議そうに首を傾げる。
フリーデリケは袖の中に仕舞ったままのナイフを指で探った。



この屋敷に日は差さない。
それはここでは当然のことなのだ。フリーデリケは押し殺した声で呟く。
「……って」
「え? 何て言ったの?」
「……帰って…………帰りなさい!」
突然の叫びにヨハンは目を丸くした。フリーデリケは近くのワゴンから乾いた布を取って彼に投げつける。
驚いて後ずさる青年に、彼女はありったけの布を投げつけ、怒声をぶつけた。
「もう二度と来ないで! この屋敷に近づかないで頂戴!」
「フリーデリケ」
「出て行って!」
困惑する彼を前に、フリーデリケは身を翻して駆け出す。
―――― もしもっと幼い頃に彼と出会っていたなら。
彼女は今とは違う道を選んでいたのかもしれない。たとえば花の種を買いに町に下りた日にでも、彼の手を取っていたのなら。
だが今の彼女にそのような選択肢はない。
フリーデリケは闇雲に長い廊下を走ると、自室へと戻った。全ての窓をカーテンで閉ざし、暗闇の中寝台に顔を埋める。

怖い夢はもう見ない。
その代わり現実が怖くて、眠れそうになかった。