Aufs geschlosne Aug' die Sehnsucht, 閉じた瞼の上なら 憧憬のキス

mudan tensai genkin desu -yuki

フリーデリケ・ベーエが、己の残りの人生について考え始めた時、彼女はまだ十七歳であった。
美しく利発な少女が、大人へと羽化していくほんの数年。不安定なその時代に、彼女は同世代の少女たちとはまったく異なる環境に座していた。
人ではない男と向かい合い過ごす日々。
穏やかに停止した年月は、彼女の思考をいささか変わった方向へと逸らしていく。
少しずつ内へと閉じていくような、暗い部屋で咲き誇る花のような精神。
彼女を慈しむグレゴール自身がそれを歓迎せずとも、フリーデリケは自分が間違っているなどとは疑いもしなかった。






暗い森と青草の庭。くっきりと色が塗り分けられたその境界線上に、彼女の白い椅子は置かれている。
グレゴールのものより小さい揺り椅子。高い木々が日を遮るその場所で、フリーデリケは日中、一人で本を読むことを好んでいた。
肌触りのよい膝掛けの上に革張りの厚い本を乗せ、少女は吟味するようにゆっくりとページを捲る。
余計な物音はなく、慌しく視界を動くものもない。
この屋敷全体の空気を象徴するような寧日に、フリーデリケは静かな満足感を覚えていた。
だがその時間も、騒がしい来訪者によって終わりを告げる。
「フリーデリケ!」
青年が張り上げた声に、彼女は不快げに眉を上げた。手を振りながら庭をやって来る彼を睨む。
「何の用かしら、ヨハン。読書の邪魔をしないで欲しいと、前に言ったはずよ」
「邪魔をするつもりはないんだ。すぐ済むから。実は来週町で祭りがあるんだけど……」
日が差さない場所にもかかわらず、陽光を纏っているかのような声を上げる青年に、フリーデリケは溜息をついた。これでは文字に集中することも出来ないだろうと本を閉じる。
しかしそのような彼女の様子も気にせず、ヨハンは今日も「町に遊びに来ないか」と辛抱強く少女を誘ってきた。
もう三年近くもの間、形を変え機会を変え続いているやり取り。
これはやはり、彼の性格の為せる技なのであろう。この青年は子供の頃から誰にでも分け隔てなく接し、少々強引ではあるが優しく粘り強い性質を以って、フリーデリケにも声をかけてきていた。
彼にとって山上の屋敷に住む少女は、一人子供たちの輪から外れ、しゃがみ込んでいるような存在なのだろう。ヨハンはそのような彼女を懸命に日の下に連れて行こうと、繰り返し山道を越えやって来る。
しかしそれは、フリーデリケからすれば煩わしいことこの上なかった。
彼女は軽くかぶりを振って立ち上がる。
「もう結構。お誘いありがとう。けれど行く気はないわ」
「どうして? きっと楽しいよ」
―――― 『きっと楽しい』と、何の不安も迷いもなく言ってしまえる青年に、フリーデリケは苛立ちを覚える。
少女は冷ややかな目で、彼の琥珀色の瞳を見据えた。
「あなたが思うように私が思うとは限らないでしょう。そのことをそろそろ分かって頂きたいわ」
「フリーデリケ」
「失礼するわね」
そっけなく言って彼女は足早に屋敷へと戻る。
このようなところをグレゴールに見られれば、また「行ってみればいい」と言われてしまう。彼女はそれが嫌なのだ。
日の下へ彼女を連れ出そうとする青年と、それを後押ししようとする男。
二人の間で、フリーデリケだけが頑なに動くことを拒んでいる。
それはまるで見知った世界から出たくないと縮こまる雛のようで、だが彼女自身そう思われることをひどく嫌っていた。



フリーデリケは屋敷の中に戻ると廊下の窓から帰っていくヨハンの背を見やる。
僅かに消沈していることが分かる後姿。彼女の前では決して見せようとしないその翳りに、少女の胸は少し痛んだ。
だが、だからといって彼についていく気はない。彼女の世界は、この広い屋敷の中で全てなのだ。
胸に本を抱いてフリーデリケはグレゴールの書斎へと向かう。
二度ノックしたが、中からの返事はなかった。そっと扉を押し開けて見ると彼は不在である。
フリーデリケは本だけでも見せてもらおうと薄暗い部屋に足を踏み入れた。
天井までの高い本棚が壁三面を埋め尽くしている書斎。数千冊を擁しているというこの部屋の眺めは、圧巻の一言である。
子供の頃はじめて書斎の中を見せられた時、「本のお城?」と聞いてグレゴールの微笑を買ったことを、フリーデリケはまだ覚えていた。
彼女は詩集が多く収められた棚に近づき、顔を寄せて一冊一冊の背表紙を確認していく。
棚の端までを見終わった時、ふと彼女は薄い一冊が隅に押し込まれていることに気付いて、それに手を伸ばした。
抜き出してみるとその一冊は、まるで手帳と見まがうようなくたびれた装丁のものである。
赤茶色の皮が張られた本をまじまじと見つめた彼女は、それがかつてグレゴールの机の上にあったものと同じだと分かって、軽い緊張を覚えた。
彼の日記を盗み見てしまうような罪悪感をまず抱き、だがこれは棚に収められていた詩集だと思いなおす。
フリーデリケは元から持っていた本を棚の間に置いてしまうと、薄い詩集を捲った。
日に曝され傷んだ紙。中ほどを開くと、そこには硬質な字で一編の詩が綴られている。
フリーデリケは口の中でその詩を呟いた。
「わたしは 冷たい石の上に座し 貴女を待っている
 待っている 愛しき人よ 貴女の面影は遠く けれど色褪せることもない
 青澄の空には夜を見ぬ鳥たちが舞う 無常を謳う声は高く 永遠に貴女の不変を彩る
 乾いた血の混ざる土 死者の手は骨となってもなお わたしを冷たいうろへと招く その下には―――― 」
不意に喉元に沸き起こる息苦しさ。
フリーデリケは読むのをやめ、顔を上げる。
これは一体何の詩であるのか。恋の詩か、それとも死を謳った詩か。
グレゴールの言った通り、作者は無名の詩人であるのだろう。特に目を引く箇所などはなく、ただ少女はその全体から言いようのない違和感を覚えて仕方なかった。
彼女は開いていたページを閉じ、改めて最初から本を開きなおしてみる。
冒頭のページを見ると、そこには作者からの献辞がペン書きで記されていた。
フリーデリケは息を飲む。
『愛するズザンナへ 過ぎ去りし時を込めて』
その筆跡は、グレゴールのものと同じであるように見えた。



貪るように詩集を読んでいた少女は、部屋の主人が帰ってきたことに、すぐには気付かなかった。
グレゴールは集中している彼女を微笑んで見やると、重厚な書き物机の前へと戻る。
その音でフリーデリケは弾かれたように振り返った。
青い瞳が、判然とせぬ感情に波打つ。
「グレゴール……」
「新しい本を探しているのかね? 好きなものを持っていきなさい」
「グレゴール、あなたは……」
そこまで言って彼女は息を止めた。
聞きたいことがいくつもある。だが、聞いていいものなのか分からない。
彼女は後ろ手に隠した詩集を、本棚の隙間へと捻じ込んだ。
慎重に言葉を選びたいと思いつつ、けれど感情に突き動かされて問う。
「あなたは…………同族を作ろうとしたことが、ある?」
震える声は、口にした瞬間から「言うべきではなかった」という後悔を彼女にもたらした。
けれどそれ以上にフリーデリケは聞きたいと思う。それをずっと、彼女は知りたかったのだ。自分の残りの生を数えて。
グレゴールは突然の問いに眉を寄せる。彼は優美な仕草で黒縁の眼鏡を取り去ると、改めて少女を見直した。
「どうしてそのようなことを?」
「ただ気になって……。だってこの屋敷にいる人は皆、あなたと同じではないのでしょう?
 あなたは淋しくないの? いずれ皆死んでしまうのに」
フリーデリケは内心の動転を押し隠して言い繕う。
本当は召使たちよりも、詩の中に書かれていた女性が気になって仕方なかった。
―――― いつの時代のことなのか、彼の誘いを断り、短い生をまっとうした女。
グレゴールはおそらく、亡き彼女のことを想ってあの詩を書いたのだ。少女は乾いた喉の奥を鳴らす。
「ねえ、もし淋しいのなら言って。私は、私なら……」
「フリーデリケ」
彼女の言葉を遮る声は、冷たくはなかったが重く響いた。
越えられない河を示すように、そこから先を拒絶する声。
グレゴールはしかし、目だけは穏やかに彼女を見つめる。
「急にどうしたのだね? 私はそのようなことを気にしたことはない」
「嘘よ」
「フリーデリケ?」
彼女の中の残酷な少女が、「詩集を突きつけて過去のことを問え」と叫んでいる。
しかしフリーデリケはかぶりを振ってその愚かさを退けると、男に向かって歩を進めた。
胸が熱く痛い。それが恐怖であるのか嫉妬であるのか、彼女自身分からなかった。
少女はグレゴールの前に辿りつくと、坩堝のような感情を抱えて目を閉ざす。
暗闇の中に在るものは、ただ自分と彼だけだ。フリーデリケは男に向けて呟いた。
「私は淋しいわ。一人は嫌よ」
「安心しなさい。君は一人にはならない」
「あなたと同じにして欲しいの」
もう幾度も言おうと思って言えなかった願い。
それは言ってしまえば、全身に染み込むほどに己のものとして馴染んだ。
フリーデリケは空に似た目でグレゴールを見つめる。
「私も、あなたと同じになりたい。ずっとあなたと一緒がいいわ」
そして孤独を拭いたい。彼の隣を埋めていたいのだ。



グレゴールは何も言わなかった。
溜息を吐くことさえしなかった。ただ眼鏡を手に取ろうとする指が微かに震えて見えただけである。
男は長い時間をかけて手を上げると、目を伏せて幼子にするようにフリーデリケの髪を撫でた。
「私には……その気はない。フリーデリケ、人は人として生まれたというそれだけで、神に祝福されているのだよ。
 私はそのような生き物ではない。存在からして呪われているのだ」
「違うわ。そう気にしているのはあなただけよ。私はあなたのことをそんな風に思ってはいない」
フリーデリケは素早く顔を寄せると、男の瞼の上に口付ける。
それくらいで彼の負うものを拭えるとは思えなかったが、ただ信じて欲しかった。
少女は美しい指を彼の髪に差し込んで囁く。
「祝福など要らないわ。私は、あなたと同じがいい」
「……君は、人とは違うことに憧れを抱いているだけだ。若人のうちは誰しも一度はそのような考えに捕らわれる」
「人とは違う? グレゴール、私はそんな風には思っていないわ。
 私にはこれが普通なのよ。この屋敷が、あなたが、私の普通なの」
だから、人でなくなることに恐怖はない。
ただ怖いのはグレゴールに拒絶され、彼と異なる道を歩むことだけだ。
柔らかな指が彼の髪を撫で、耳の裏を通り首筋を辿る。
そうしてフリーデリケは彼の首に手を回すと、その肩に顔を埋めた。



返ってこない答。
沈黙が彼女の熱情を冷やしていく。フリーデリケは泣いてしまいそうになり、奥歯を噛んだ。
そのままどれほどの時間が経ったのだろう。男の手が少女の背を抱く。
今この場にあっても、グレゴールの声は静穏であった。十一年前から変わらぬ声が、フリーデリケの耳を打つ。
「フリーデリケ、私がもし君で在ったのなら、おそらく今の君と同じ望みを抱いただろう。
 人をやめ、君と共に生きたいと思ったはずだ」
「グレゴール」
「だが、今の私はこう思うのだよ。
 ―――― 人の生が羨ましいと。せめて君には人として生きて欲しいと」
男の声は乾いて砂塵を含んでいる。
いつかも聞いた諦観の声。死の都を思わせる響きに、フリーデリケはきつく目を瞑った。誰も添うことの出来ない彼の旅路を思う。
暗い空。ひび割れた道。朽ちていく亡骸。
黒衣の男は埃だらけの街路を一人、歩き続ける。
だがかつてその道行きを、彼に抱かれて共にした人間もいたのだ。
幼い憐れなフリーデリケ。あの時彼女は、純粋な安らぎを男の胸に覚えていた。
今は焼け付くような焦燥を覚えて、少女は彼に縋る。

フリーデリケは何も言わない。グレゴールはそれ以上答えない。
二人は決して一つにならぬ影となって、いつまでも沈黙していた。