Sel'ge Liebe auf den Mund; 唇の上なら 愛情のキス

mudan tensai genkin desu -yuki

フリーデリケ・ベーエは誕生から十五年の年月をかけ、美しい少女になった。
すらりと伸びやかな手足に人形のような面立ち。丁寧に櫛通された金髪と紅い唇は、額縁の中にあっても鮮やかさを以って人々の目を引きつけただろう。
だが現実の彼女は絵画に描かれることに興味などなく、ただただ己の世界を愛し、その中でゆっくりと大人に近づきつつあった。
九年前に拾われた時より彼女の家となった屋敷。その主人である男の向かいに、フリーデリケは当然のように座す。
そして変わらない席に着くグレゴールは、彼女をどのような宝石よりも大切にし、慈しんでいた。






白い大理石の花瓶は、フリーデリケが両手を回して何とか指先が触れ合うほどの大きなものである。
勿論厚みもかなりのもので、とてもではないが彼女の力で持ち上げられるような代物ではない。
その為フリーデリケはいつも召使たちに頼んで、数人がかりで花瓶を洗い中に水を入れてもらっていた。
定位置である玄関脇のテーブルに花瓶が戻されると、少女は用意された花を生けていく。
大輪の薔薇をはじめとして華やかな色を放つそれらの花々は、彼女が選んで用意してもらったもので、召使が食料品などと共に通いの商人から買い上げていた。
フリーデリケは小さな足台を使いながら、一輪一輪丁寧に花を飾っていく。
この屋敷ではどれほど美しく咲き誇る花でも三日も経てば萎れてしまうのだが、彼女はそれでも花を飾ることを欠かさなかった。
手に取った薔薇の茎を、深く深く水の中へと挿し込んでいく。
「痛……っ」
ちくりとした痛み。反射的に少女は手を放した。
僅かに傾いて止まった薔薇。その茎に、取り損ねた棘が残っていたのだろう。彼女は中指に滲み始めた血を軽く口で吸った。再び挿しかけの薔薇を手に取る。
薄暗い空間に咲き誇る花は、何処か沈黙する女と印象を同じくしていた。
白い手が挿す薄紅色の花弁が、翳りを帯びて美しくその存在を誇示する。
甘く重い香りは磨かれた床に沈殿して、彼女の細い足首に纏わりつき僅かな香りを残していった。
全ての花が花瓶の中に収まると、フリーデリケはまとめてあった髪をほどく。
金の長い睫毛を何度かしばたたかせ、彼女は様々な角度から己の飾った花を確かめた。やがて満足げに頷く。
「グレゴール」
最後の仕上げは、屋敷の主人に出来映えを見てもらうことだ。
フリーデリケは男の名を呼びながら暗い廊下の奥へと姿を消した。
残された花は灰色の空間で艶やかな姿を曝している。



グレゴールは一階の書斎にいた。
彼はフリーデリケが部屋に入ってくると、笑って手元の本を閉じる。
眼鏡越しに細められた瞳を、少女は沸き起こる胸の温かさと共に見つめた。
鼓動の中に走る少しの痛みとざわめき。彼女は机の脇を回って彼の横に立つ。
白い髪を後ろに撫でつけ、黒い礼服を着た男は、初めて出会った時よりもむしろ若々しく彼女の目には映った。
勿論それはグレゴールの外見が変わったということではない。ただ外見上の年の差は確かに縮まっているのだろう。
フリーデリケは言葉にならぬもどかしさを嚥下しつつ、男に微笑みかける。
「グレゴール、花を生けたの」
「ああ。ならば見に行こう」
「後でいいわ」
立ち上がろうとする男を、フリーデリケは慌てて留めた。
もう彼女も十五歳である。子供の時のように思うままに気紛れや癇癪を起こして彼を振り回したりは出来ない。
少女はあくまでも余裕を持った女性として振舞えるよう、男の前では特に注意を払っていた。
フリーデリケは彼の手元を覗き込むような真似をせず、代わりにその瞳に視線を向けて問う。
「何を読んでいたの?」
「古い詩集だ。書棚を整理していたら偶然見つけてね」
「誰の詩集?」
「名もない若き詩人だ。もう何処にもいない」
グレゴールはそう言って薄い詩集を机の上に置いた。赤茶色の皮が張られたその詩集は、色褪せ日に焼けて手垢がついている。
何でも丁寧に扱う彼の持ち物にしては珍しい本の様子に、フリーデリケは少女らしい好奇心をそそられた。
だが彼女は内心のさざなみを抑えて彼に向き合う。何を言おうかと考えている間に、男は僅かに眉を寄せた。
「怪我をしているのかい?」
「え? ああ……棘で少し」
「きちんと手当てしなさい。痕に残ったら困る」
物柔らかな語調は、いつもの彼のものと変わりがなく思える。
素直に頷きかけたフリーデリケは―――― だがその時、薔薇の棘よりもささやかなしこりに気付いた。後ろに回していた右手の中指を見つめる。
血の滲む指。けれど彼女はその傷を無意識に庇っていたのだ。だから彼が怪我に気付いた理由は、傷を「見た」為ではないのだろう。
フリーデリケはまるでとりつかれたかのように、うっすらと広がる己の血を眺む。
先程のものより低い男の声が響いた。
「手当てをしなさい」
「……平気よ、これくらい」
「フリーデリケ」
少女の名を呼ぶ声は、その時僅かな厳しさを含んで聞こえた。彼女ははっと顔をあげるとグレゴールを注視する。
男はだが彼女を見てはいない。青い双眸は机の上の詩集を捉えている。
「ヨハンからドレスが届いたそうだ。手当てをしたら見に行ってみなさい」
「要らないわ」
すげない即答。それが故に、もう一度名を呼んで貰えるかと思った。
だがグレゴールから洩れたものは窘める言葉ではなく溜息である。フリーデリケは内心落胆して唇を噛んだ。

ヨハンとは、山を下りた先の町に住む資産家の息子の名である。
フリーデリケより一つ年上の彼は、強い冒険心と人懐こい性格を持っており、ある日その冒険心の赴くまま山道を一人登って来た。
だが少年は途中で森に迷い込み、たまたま散歩をしていたフリーデリケに出くわしたのだ。
彼は人里離れた屋敷で暮らすグレゴールや少女を知って興味を抱き、月に二度程は屋敷を訪ねてくるのだが、フリーデリケは自分たちの生活を掻き回されるようで、それがあまり好きではなかった。
屋敷に自分が顔を出すと同様、機会さえあれば少女を町の行事に呼ぼうとするヨハンを、フリーデリケは煩わしげに思い返す。
「本当に要らないの。だって何処にも着ていくところなんてないのだもの」
「彼の招待を受ければいい。たまには君も他の人間に会ってみればいいのだ」
「要らないわ」
同じ言葉をフリーデリケは繰り返した。
「必要ない」と、ただそれだけでしかないのだ。
子供の頃とは違い、遊び相手が欲しいわけではない。おかしな詮索も好奇の目も、彼女にとっては疎ましいだけだった。
それよりもフリーデリケにはこの世界が全てである。
彼女は一歩を踏み出し、怪我をした右手を男に差し出した。
「グレゴール、お願い。おかしな気を回さないで。私は淋しいなんて思っていない。他の人間が必要なわけじゃないの」
「手当てをしなさい、フリーデリケ」
「あなたが、私のお願いを聞いてくれるなら」
血の匂いは、彼にとってはまるで毒のようなものなのかもしれない。
グレゴールは少女の手から顔を背けた。強張る指先が、眼鏡のつるを押さえる。
「……どのような願いを?」
「私を遠ざけないで」
それだけが彼女の望みである。無理に人の中に押しやろうとしないで欲しいと。
彼女にとって、人かそうでないかは些細な境界線だ。それよりも大事なことは、ある。
しかし男はその望みに即答はしなかった。苦い光を湛えた目が、痛みを堪えるように閉ざされる。
フリーデリケはそれを見て激しい焦燥を覚えた。怪我をした中指を見やり、一瞬の後に決断する。
彼女はスカートからハンカチを取り出すと、それを裂いて怪我をした部分に巻いた。
だが利き手に巻こうとしているということもあり、なかなかきつくは結べない。
それを見かねたのかグレゴールが手伝ってくれる。彼は綺麗に白い布の端と端を結ぶと、ほろ苦い微笑を零した。
フリーデリケの胸がささやかに痛む。
「ごめんなさい」
「いいのだよ、フリーデリケ。ただ自分を大事になさい」
温かな言葉。
それは見返りを求めぬ分、そして九年前から変わらずにいる分、より少女を苦しめた。
まるで自分が自分の背を突き飛ばしたかのような瞬間。
フリーデリケは細い両腕を伸ばす。軽い体を男の上に投げかけ、きつくその背を抱いて両眼を閉ざした。
血よりも淡い薔薇色の唇。
柔らかく甘やかな器官が、言葉ではなく熱を伝える。
吐かれる驚愕の溜息を飲み込んで、彼女は目の眩む衝動に打ち震えた。

得られたものは、自ら茨の中に両手を差し込むに似た罪悪感と高揚である。
フリーデリケは金の睫毛を上げ、男を見仰ぐ。
グレゴールはその時、初めて見る目で彼女を見ていた。



冷えた手が彼女の髪を撫で、やんわりと華奢な体を押しのける。
それだけの仕草にフリーデリケは恐怖を抱いて何も言えなくなってしまった。
硬直した少女に、彼は微苦笑を見せる。
「そのような顔をしなくてもいい。大人になりなさい、フリーデリケ。そうすれば多くが見えるようになる」
「待っていてくれるの?」
ぎこちない表情ながらも期待を浮かべようとするフリーデリケに、グレゴールは目を閉じて微笑む。
ほの暗い書斎の中には、薔薇とも血ともつかぬ淡い匂いがゆるやかに沈み始めていた。