mudan tensai genkin desu -yuki
フリーデリケ・ベーエが十歳になった時、グレゴールは相変わらず年老いた男のように見えた。
家族を喪い彼に拾われてから四年。
彼女は、少々変わってはいるが恵まれた暮らしによって、美しく可憐な少女へと成長していた。
波打つ金の髪は日の差さない屋敷にあって唯一の光であり、透きとおる青い瞳をグレゴールは「空のようだ」と称える。
もっとも彼女はその言葉に込められた感情を全て汲み取るには、まだ幼くあったのだが。
※
広い屋敷の廊下は、いつも塵一つ残さず磨かれている。
夜になれば燭台の火を受け、艶かしい輝きを放つ黒木の床。
それを見る度フリーデリケは、窓を覆う重い布を退け、日の光の下で美しい廊下を見てみたくなる。
だがその行いは、屋敷の住人にとってよくないことだとも、彼女はとうに理解していた。
「グレゴール」
昼なお薄暗い邸宅の中で、少女の声は鐘のように響く。
この屋敷で日の光を入れていい場所は、三階にあるフリーデリケの部屋だけだ。
だが彼女はもっぱらその部屋を出て、グレゴールと共に過ごすことを好んでいた。
少女は男を捜して屋敷の中を歩き回る。だが書斎にも、テラスにも彼の姿は見当たらなかった。
庭を探しながら不審を抱き始めた頃、フリーデリケは、屋敷の正門に向かい歩いている黒服の男を見つける。
それがグレゴールであることは疑うべくもない。彼女は青草の上を駆け出した。
「待って、グレゴール!」
少女の声は、男の黒い外套にあたって滑り落ちる。
彼は灰色の風景を背にゆっくりと振り返った。その胸にフリーデリケは飛び込む。
「どこへ行くの?」
それは質問と言うより、尋問に近いものだった。
答を知っていて詰るような少女の口振りに、グレゴールは苦笑する。
「少し、東の国の辺りを回ってくるよ」
「どれくらい?」
「一月くらいだろうか」
予想通りの返事にフリーデリケは失望を顕にした。
彼に拾われてからの四年間、今までにも何度かこういうことがあったのだ。
グレゴールは年に一、二度、何の前触れもなくこの屋敷を出て、何処か異国の地を旅してくる。
その間フリーデリケは、屋敷で使用人たちと暮らしながら彼の帰りを待たなければならない。
だが、彼女は彼のいない日々が厭で厭でたまらなかった。
それはただ淋しいという感情だけでは言い表すことが出来ない。
夜毎押し寄せる不安。黒い蜥蜴が窓の外に張り付いているような錯覚は、柔らかな寝台の中にいても少しも薄らぐことはない。
浅い眠りに落ちる度に、彼女は見知らぬ町を歩くグレゴールの姿を夢に見る。
その中で彼は、路傍にいくつも転がる干からびた死体の手に、足首や外套を掴まれ体を引き寄せられるのだ。
静寂に包まれた深夜。うなされる夢から、小さな悲鳴を上げて飛び起きることも決して少なくはない。
フリーデリケはそのような時、どの部屋に逃げ込むことも出来ず、ひたすら目を閉じて震えながら朝の訪れを待たなければならなかった。
「ねえ、グレゴール。わたしも一緒に行きたい」
それは、半年前から言おうと用意していた言葉だった。
前回彼が旅に出た時、ちょうどフリーデリケは修辞学の授業中であり、気づいた時にはもうグレゴールの姿は何処にも見えなかったのだ。
何も言わず旅に出てしまった彼をフリーデリケは憎たらしく思ったが、それを詰ってもグレゴールはきっと変わらない。
ならば次はせめて自分も連れて行って貰おうと、少女は決意していた。
フリーデリケはきつくグレゴールの外套を掴む。
初めて出会った時のことが自然と脳裏に甦った。
空は薄曇、風のない日である。
黒い外套を羽織る男は、驚きの目でフリーデリケを見つめていたが、ふっと表情を崩すと枯れた手で彼女の頭を撫でた。
明るい金髪を愛でるように、グレゴールは彼女の上に穏やかな視線を投げかける。
「フリーデリケ」
ゆっくりと、一音一音を惜しんでいるような響き。
それはグレゴールが、彼女に何かを諭そうとしている時特有のものだ。
フリーデリケは続く言葉を予感して身を固くした。男は彼女のその様子に気付いて、もう一度小さな頭を撫でる。
「フリーデリケ、楽な道ではないのだよ。
君の足では長くは歩けない。眠りも必要とするだろう。
疲れて擦り切れて、もし病を拾ったりでもしたら。私は、君にここに居て欲しい」
「グレゴール」
彼の言うことは正しい。
フリーデリケは体も小さく、体力もあまりない。
グレゴールと違い、食事も休息も取らなければ弱ってしまうのだ。
そのような少女を連れていては、彼の歩みも自然と鈍重なものになってしまうだろう。
フリーデリケは小さな唇を噛んだ。
「どうしても、行かなければならないの?」
彼の旅は誰かに会うというわけでも、何かを買い付けるというわけでもない。
ただその足で、いくつかの町を回る。
街道に沿って諸国を巡り、広げられたありのままを眺む。
フリーデリケは彼がそのような旅をしていることは知っているが、何故そうしているのかは知らなかった。
どちらかと言えば、理解出来ないと言った方がいいだろう。彼女は必死の思いで掴んだ外套を引く。
「どうして行かなければならないの?」
「フリーデリケ」
「何を見たいの? 何があるの? グレゴール、わたし……」
―――― さみしい、と。
言いかけた言葉をフリーデリケは飲み込んだ。それはいくらなんでも幼すぎる戯言に思えたのだ。
少女は黙って、きつく握った自分の両手を注視する。
指を放さなければと思いつつ、だが小さな手は、まるでこれが男との最後の絆ででもあるように、頑なに離れることを掴み続けていた。
きつく閉じた瞼の裏に、いつか見た悪夢が薄い影を過ぎらせる。
屋敷に使用人は数居れども、彼女にとってグレゴールはやはり誰よりも特別な存在なのだ。
孤独を拭い、不安を癒し、眠れぬ夜には手を握ってくれた相手。
父ではなく兄でもない。ただ名づけることの出来ぬ温もりを、フリーデリケは男との関係に感じていた。
風は吹かない。
グレゴールは共に暮らす少女を見つめる。
彼女の震えの奥に在るものに気付き、彼は身を屈めた。フリーデリケを逆に見上げる。
そうされると、彼女は外套から手を放さざるを得ない。
困惑する少女に男は柔らかな声で言った。
「どう言えば伝わるのだろう、フリーデリケ」
低い響き。
それは彼女が、初めて聞く類のものだった。
乾いた路地を舞う砂のような声。フリーデリケの脳裏にはその時、色のない町が浮かんだ。
崩れかけた建物。
薄暗い空の下には埃だらけの街路が伸びている。
石畳の上には干からびた子供の死体が眠っており、ひび割れた肌には薄く砂が積もっていた。
動く者はいない。顧みる者は誰もいない。
忘れ去られた町には誰も訪れはしないのだ。
ただ一人だけ、黒衣の男が崩れた道を歩いていく。
―――― そんな幻を、彼女は見た。
「フリーデリケ、私は見ておきたいのだよ」
男の声で、少女は我に返る。彼女は凍える内心を押し隠してグレゴールの瞳を見つめ返した。
彼はまなじりにしわを寄せ微苦笑する。
目に見えぬ距離。フリーデリケはそれに気付かぬ振りをして、男の頬に手を伸ばした。
「なにを見ておきたいの?」
「人の生きる世を、その姿を、見ておきたい。
遠く忘れ去ってしまいたくないのだ……。それをしては自分が、本当に石にでもなったような気がしてね」
彼の体は冷たい。
熱のない皮膚は、触れても触れてもフリーデリケの温もりを吸い込んで冷えていくようだ。
だが彼女は、彼を石のようだと思ったことなど一度もなかった。
フリーデリケは小さな両手で男の頬を包み込む。
「どうして? あなたはちゃんと生きてるのに」
「そうだろうか」
自嘲ぎみに細められた目にはその時、何が見えていたのだろう。
近くにいてもなお遠い。その空虚を、フリーデリケは感じてはいても理解出来ずにいた。
グレゴールは夜空を映す目で微笑む。
「家族もいない、友人もいない。人から離れて何世紀もの間、変わらぬまま暮らしている。
それを生きていると、本当に言えるのだろうか」
男の貌にはフリーデリケの人生の数百倍もの時が、刻まれて溶けている。
息を飲む彼女の手に、グレゴールはそっと己の手を重ねた。
「フリーデリケ。私は書物越しにではなく、この目で、この耳で、人の生に触れたい。
そうして少しでも彼らから生の切れ端を恵んでもらいたいのだよ。―――― 自分が、自分でいられるように」
ひんやりとした体。
フリーデリケの体温は、伝わる端から消えていく。
それはまるで空洞に涙を零すようなもので、どれ程泣いても暗い虚には何も満ちることはない。
とてもとても虚しい。すぐに枯れ行く草花よりもずっと。
だが少女は、まだそれを絶望とは思っていなかった。
空を映す瞳が、男の双眸を捉える。
「わたしがいるわ」
そして彼女は、瞼を閉じる。
男に顔を寄せ、左の頬にそっと口付けた。かつて母が、小さい彼女にそうしてくれたように。
「わたしがいる。グレゴール。わたしがあなたの家族。あなたの友達でしょう。
欲しいならわたしの命をあげる。だから」
「フリーデリケ」
右手を取られる。次は左手を。
寄り添っていた体が引き離され、彼女は叫び出したくなった。
だが幼い体はすぐに、男によって抱き締められる。
「フリーデリケ。小さなフリーデリケ。君は、そのようなことを言ってはいけない」
「どうして? 本当に、そう思っているのよ。そばに居て欲しいの。
ねえ、グレゴール。どうか『恵んでもらう』などと言わないで。
あなたはそんな必要などちっともないの。欲しがる必要などないのよ。だってあなたはわたしに与えてくれたでしょう?」
―――― 何と言えば届くのだろう。
ともすれば癇癪に変じてしまいそうな感情を制して、フリーデリケは訴えた。
伸ばした手が金の鎖に、その先の懐中時計に触れる。時を刻む針は、心臓の鼓動よりも慎ましやかに正確であった。
だがそれを冷たいなどとどうして言えるだろうか。少女は彼の服を爪を立てて掴む。
拙い語彙で多くを伝えようと足掻く彼女を、男は強く抱き締めた。
深い溜息が金の髪を伝い、震える背中を枯れた手が叩く。
この屋敷に連れられて来たばかりの頃、彼女はよくこうしてグレゴールの胸の中で眠った。
彼女にとってその安寧は、いつまでも塗り替えがたいものであったのだ。
そうして短くも長い時が流れた後、グレゴールはフリーデリケに囁く。
「……体が冷えてしまっている。中に入ろう、フリーデリケ」
「グレゴール」
「紅茶を淹れよう。林檎の蜂蜜煮を添えるといい。君はそれが好きだったろう?」
優しい声。少女は破顔すると何度も頷いた。温かな気持ちで彼の手を取る。
風のない庭から屋敷へと戻る間、フリーデリケはグレゴールの指をきつく握った。
瞼の裏に舞う砂塵を、少女は意識から締め出す。
共に温かな紅茶を飲み、久方ぶりに共に眠り、だがそうして目覚めた朝―――― グレゴールの姿は既に、屋敷の何処にもなかった。
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