Freundschaft auf die offne Stirn, 額の上なら 友情のキス

mudan tensai genkin desu -yuki

フリーデリケ・ベーエがグレゴールと暮らし始めてから二年、彼女の暮らしは平穏そのものであった。
衣食に困ることもなく、それどころか充分な教育さえ受けることの出来る生活。
貴族の子女の如き日々は、彼女が悲劇に見舞われず元の家で育っていたなら到底手の届かぬものであったろう。
子供らしい伸び伸びとした所作を、少しずつ教師たちの飴と鞭によって整えられながら、フリーデリケは美しい少女へと成っていく。
その様をグレゴールは温かな目で見守り続けていた。
彼の視線を慈愛と取るか憧憬と取るかは、人それぞれである。
少なくとも彼は保護者として、申し分ない義務と充分な愛情を少女に注いでいるように見えた。






「風が冷たくない?」
庭先に置かれた揺り椅子で本を読んでいたグレゴールは、厚いショールを肩にかけられ振り返った。
見るとそこにはフリーデリケが立っていて、大人用のショールを上半身に何重にも巻きつかせている。
まるで絡まっているようなその姿は彼女が自分でやったものなのだろう。グレゴールは愛らしい様に微笑んだ。
「ありがとう。君は寒くないのかい?」
「今は平気」
言いながらフリーデリケは彼の前に回る。青い瞳が逡巡を湛えて上下した。
グレゴールは彼女の考えていることを察すると、本を閉じ両手を広げる。
「おいで」
迎え入れる言葉に、フリーデリケは喜んで彼の膝へと乗った。細い足を揃えて横に流しながら、グレゴールに微笑みかける。
拾われたばかりの頃は、黒縁の眼鏡に触りたがってよく彼を困らせたものだが、今の彼女はそのようなことはしない。
ただいつもは見上げている彼の目線を少し越え、フリーデリケは新鮮な気分を味わっていた。ついグレゴールの顔に伸ばしたくなる手を、膝の上で揃える。
少女は明るい青の瞳を、屋敷を囲む黒い森へと向けた。奥に行けば行くほど暗くなっていく木々の間は、まるでそのまま夜へと繋がっているようである。一年中変わらぬ様子の森はまた庭全体に影の幕を投げかけ、屋敷の窓に鋭い日の光が差し込むことを防いでいた。そしてその役目が果たされぬ時には、どの窓にも厚い布が引かれる。フリーデリケは薄暗い世界を眺め渡した。
「花を植えればいいのに」
「フリーデリケ?」
「庭に花を。ねぇ、そうしましょうよ、グレゴール」
今の庭は美しく整えられてはいるが、青草が敷き詰められているだけで何の赤い色もない。
そこに鮮やかな花々が加われば、淋しい景色も華やかに見えてくるだろう。少女は男の膝の上で破顔した。
「お日様が強くなくても育つ花はきっとあるわ。そういう花を選んで、庭に増やしていくの。きっと素敵よ」
「フリーデリケは花が好きかい?」
「……うん」
少女は小さな嘘をつく。
本当は、花は好きであるが育てて見たいと思う程ではないのだ。
ただ彼を探して庭に出る度、フリーデリケはこの景色を「淋しい」と思う。
黒い森に緑の庭。そこに座す男の姿は色がなく、何ものからも締め出されているように感じる。
勿論ここは彼の屋敷であるのだし、そのようなことはあるはずがない。
けれどそうと分かっていても、フリーデリケは胸に飛び込んでくる感覚を振り切ることが出来ないでいた。
だから彼女は、この庭に明るい色があればいいと願う。

グレゴールは穏やかな微笑で彼女を見る。青白い手が優しくフリーデリケの肩にショールをかけなおした。
「どのような花がいい? 離れに温室を作ろう」
「温室? なぜ?」
そのように大層なものでなくていいのだ。
ただ庭の隅に、小さな花を住まわせてくれるだけでいい。
しかしグレゴールは、少女の望みに違う形で応えようとしていた。
「夜は冷え込むから、温室に置いた方が花も長持ちするだろう。好きな花を選ぶといい。
 難しい品種であれば庭師が手助けしてくれるだろう」
「グレゴール、この庭はだめなの?」
思い切って尋ねてみると、グレゴールは困ったような顔になった。
思案の息が洩れ、フリーデリケの金髪を白い手が撫でる。
「駄目ではない、フリーデリケ。だがこの庭では、花が長く生きられないのだ」
「日陰だから?」
「それもある。それもあるが、それだけではないだろう。―――― おそらくこの庭は、『私』に近すぎるのだ」
翳の差す青い双眸が、眼鏡越しに広い庭を眺め渡す。
フリーデリケは肌寒さを感じて男に一層寄り添った。グレゴールの腕が少女の背を支える。
「花は咲き、だが枯れてしまう。私が望むと望まぬとにかかわらず、長くは持たない」
その時、彼がフリーデリケを見る目には、迷いのようなものがちらついていた。
少女はだが、その意味に気付かず、両の掌で男の頬に触れる。
「わたし、ちゃんと世話できるわ。大丈夫」
「フリーデリケ」
「大丈夫、グレゴール。グレゴールが出来ないことは、わたしがやるわ。うまくいくかもしれないでしょう?」
―――― 彼と自分は違う。
フリーデリケはそのことをもう知っている。だがそれは、彼女にとって差異以外の何物でもなかった。
ましてや絶望であるはずもない。幼い少女は、希望と期待を己が身に負って笑顔になる。
グレゴールはそんな彼女を眩しそうに見上げた。
「……フリーデリケ。町に下りてみるかい?」
「町?」
それはこの山を下りた先にあるという小さな町のことだろう。
少女は、話だけでしか聞いたことのない町に好奇心を覚えた。
「町に下りて、それでどうするの? 花を買うの?」
「好きなことをしていいのだよ。花を買ってもいい。友人を作っても。学校に通っても。日向を走り回ることだって出来る」
優しい声が語る風景は、フリーデリケに故郷での日々を呼び起こした。
年の近い子らと日が暮れるまで路地裏で遊んでいた記憶。夕日の作る長い影が今でも鮮明に思い出せる。
フリーデリケは目を輝かせて問うた。
「町って遠い? わたしで通えるかしら」
「君の足には遠いかもしれない。召使たちに送らせよう」
「いいの?」
少女の確認には、多くの意味が込められていた。
グレゴールはしかし、何も言うことなく微笑んで頷く。
―――― フリーデリケはその様子に小さな違和感を覚えた。

幼い彼女はその時、男の狙いを全て見抜いていたわけではない。
見抜いていたのなら彼に言葉を尽くして伝えていただろう。彼と暮らす今こそが幸福なのだと。
しかし彼女は、違和感の正体に首を傾げるばかりで、グレゴールの意図に気付かなかった。
ただ思いを込めて首を伸ばすと、男の額に口付ける。
「きっといい花を探してくるわ、グレゴール。二人目のともだちも」
「二人目?」
「一人目は、あなたよ」
フリーデリケは勢いをつけて男の上から飛び降りた。ショールを翻し青草の上で回ってみせる。薄白いスカートが空気を孕んで広がり、花弁のように景色に映えた。グレゴールは目を細める。






翌日、召使の男女らと共に麓の町を訪れたフリーデリケは、そこで何種類かの花の種や苗を手に入れた。
馬車へと戻る帰り道、彼女は道端で無邪気に遊び回る子供たちを見かけ、思わず足を止める。
フリーデリケと同じくらいの年に見える彼らは石蹴りに夢中になっていたが、ふとその中の一人、身なりのよい少年が彼女に気付いて顔を上げた。砂色の髪に琥珀色の目をした彼は、人懐く微笑むと彼女を手招く。
しかし少女は、その誘いに心引かれるものを覚えつつも、まずは花をということで彼に手を振ってその場を離れた。小さな馬車で山の上の屋敷に舞い戻る。
けれどそうして持ち帰った全ての花は、フリーデリケがどれほど手を尽くそうとも森に囲まれた庭で根付くことはない。三日も経てばみな萎れてしまう。
彼女は枯れてしまった花を森に埋める度、グレゴールがどのような顔をしてそれを見ているのか、胸が痛んで仕方なかった。
裏切られる期待を積み重ねるだけの日々。
やがてそれに疲れたフリーデリケは、庭に花を植えることも、また町に下りることも、徐々にしなくなっていったのである。