mudan tensai genkin desu -yuki
フリーデリケ・ベーエがグレゴールと出会った時、彼は既に年老いていた。
正確には年老いていたというより、老人のように見えた。
実のところ、彼に限って言うなら、外見の年齢について語ることはさして意味がない。
ただグレゴールは幼いフリーデリケにとって、ひどく年上の存在に見えた。
※
フリーデリケは平凡な商家に生まれた娘だった。
食うには困らず、だが贅沢をするほどの余裕はない家。彼女はその家の末娘として生まれ育った。
商人である父は堅実で、母は優しかった。二人いる兄たちも勤勉であり、恵まれた家庭と言ってよかっただろう。
フリーデリケはそのような中で皆から愛され、少々大きめの好奇心と母譲りの優しさを持つ子供になった。
陽光を集めて染めたかのような美しい金髪、澄んだ青い瞳は、人の目と微笑を誘うに充分なものであり、彼女を見た大人たちは、将来さぞや美しい娘になるだろうと、その愛らしさを誉めそやした。
疑いもなく幸福な毎日。
温かな記憶は、それが過ぎ去った後も宝石のように彼女の記憶の中に残っている。
父や母、兄たちが流行り病で次々とこの世を去った時、フリーデリケは六歳の誕生日を三日過ぎたばかりだった。
その当時の町は、まるで灰色に塗りつぶされたかのようだった。
流行り病は勿論、フリーデリケの家だけを襲ったわけではなかったのだ。
次々と人が亡くなっていく町。他人の面倒を見る余裕を皆が失った中で、幼い彼女は途方にくれていた。
家族の埋葬はかろうじて近所に住む夫婦が手を貸してくれたものの、彼らもまもなく病に倒れたらしい。
フリーデリケは乾いて黴の生えたパンを齧りながら、自分にもまた病魔の手が伸びる日を待った。
死を間近に思うことに、恐怖や疑問を覚えぬ程、彼女の精神はその時疲弊しきっていたのだろう。
だがくたびれた彼女が出会ったものは―――― 待っていた病魔ではなく、年老いて見える男だった。
まず目に入ったものは、黒い外套の裾だ。
埃だらけの寝台に座り込み、汚れた窓から外を見ていたフリーデリケは、二つ先の角を曲がる黒い人影を目に留め飛び上がった。取るものも取らず家を駆け出す。
彼女は裸足で荒れた地面を蹴り、先程の外套を探して角を曲がった。
後から思えばろくに食事もしていない日々を経て、どこにそのような力が残っていたのだろう。
しかしその時のフリーデリケは、確かに必死であった。彼女は通りの先にようやく黒い外套を見つけると、その背に向かって走る。
死臭のたちこめる町。身寄りなき死体がそこかしこに転がる景色の中、その黒は彼女の目に鮮明に映った。
フリーデリケは痩せ細った手を伸ばす。転がる石が足の皮を切り、じくじくと血が滲んだ。
けれど彼女はそれにも構わず、ついに前を行く外套の男に縋った。黒い柔らかな布に飛び込み、枯枝のような十指でそれを掴む。
かつては小鳥のようと言われた声を震わせ、フリーデリケは彼を呼んだ。
「まって、しにがみさん」
男は振り返り、彼女を見下ろす。
フリーデリケが想像していたよりもずっと老いて、だが品のある貌。しわに包まれた青い目が、驚きと共に彼女を見つめた。
それがフリーデリケ・ベーエとグレゴールの出会いだった。
※
「グレゴール」
一時はろくな食事も取れずひび割れていた声。だがその声も今は、元のように愛らしいものへと戻っている。
フリーデリケは書斎に彼の姿がないことを確認すると、階段を下り庭先へと出た。
人里離れた場所にあるこの屋敷は、小高い山の上に建っており周囲は深い森に覆われている。
黒い木々に面した緑の庭で、フリーデリケは揺り椅子に座っている男を見つけた。
痩身に似合う薄灰の礼服。胸にかかる金の鎖は懐中時計に繋がっているのだろう。日陰の中でも僅かながら光を放っているように見える。白い髪は丁寧に後ろへと撫で付けられ、黒縁の眼鏡越しにしわのある目尻と青い瞳が窺えた。
グレゴールは彼女に気付くと顔を上げて微笑む。
「どうしたのかね、フリーデリケ」
「ごはんの時間なの」
「ああ」
分厚い本を開いていたグレゴールは得心したのか立ち上がった。小さなフリーデリケの手を取り、屋敷の中へと戻る。
彼の屋敷において食事等は使用人が用意しているが、フリーデリケは一人で取る食事を好まない。
その為食事を必要としないグレゴールも、彼女に付き合って食卓につくことが習慣となりつつあった。
男と手を繋ぎ薄暗い廊下を行きながら、幼いフリーデリケは問う。
「グレゴール、おなかはすかないの?」
「ああ」
「なぜ? ほんとうに食べなくてもいいの?」
「いいのだよ。私の体はそういう風に出来ているのだから」
それはフリーデリケが彼に拾われてすぐ聞いていたことではあるのだが、時間が経てば必ず空腹を覚える彼女にとって、なかなか理解しがたいことでもあった。
フリーデリケは無邪気な好奇心を持って口を開く。
「ねえ、グレゴール。にんげんの血っておいしいの?」
物知らぬ子供の稚い疑問。
その問いに彼は淋しそうに微笑って、答えなかった。
あの日フリーデリケは何故彼を追ったのか。
死した家族を返して欲しかったのかもしれない。或いは自分がその元に行きたいと考えたのかもしれない。
だがおそらくその両方を思っていた彼女は、彼に出会い、そして別の運命を手に入れたのだ。
黒い外套にくるまれたフリーデリケは、ひんやりとしたグレゴールの手にひどく安堵したことを記憶している。
その日から、彼は彼女の対面に座した。
食事が終わるとグレゴールは彼女に本を読んでくれた。
子供向けの童話は異国の海に棲む人魚について謳っている。
その話に陶然と聞き入っていたフリーデリケは、本が閉じられると目を輝かせてグレゴールを見上げた。
「すてきね」
「そうだね」
「あなたも」
「私が?」
目を丸くするグレゴールに、彼女は「そうよ」と飛びつく。
幼い娘は男の膝に体を預け、陽光のように鮮やかな笑顔を見せた。
「むずかしい本もよめて、すてき。わたしもそうなりたい」
「ならば教師をつけよう」
「グレゴールじゃなくて?」
てっきり彼が教えてくれるのかと思っていたフリーデリケは、落胆を隠さずに頬を膨らませる。
男は穏やかな笑みを浮かべ、彼女の頭を撫でた。
「私のようになりたいなど、言ってはいけない。フリーデリケ」
「どうして?」
「私は忌まれしものだからだよ」
「それは、どういういみ? わたしとどうちがうの?」
遠慮ない問いに男は苦笑しただけだ。
フリーデリケは更に問おうとしたが、ふと気を変えると彼の右手を取った。硬く冷たい甲に、目を閉じて唇を寄せる。
柔らかい、血の通う温もり。
命の息を吐き出して触れる肉に、男の体が震えた。
温度のない身体に、触れて熱を分け与える。
仕草によって思いを示す。
そこに潜むものは、親愛と、それ以外の何かだ。
幼い娘は祈りを捧ぐように乾いた手に口付ける。
無垢なる仕草に、まだ一つの曇りもない憧れと尊敬を込めて。
だがそれが「残酷」でもあると、彼女はまだ気づかない。
フリーデリケは顔を上げると、驚いている男を見て笑った。
「にいさんが言っていたのよ。すごい人にはうやまいをこめて、こうするんだって」
「フリーデリケ」
彼女はもっと何かを言おうとして、けれどすぐに顔を伏せた。
兄のことを口にしたことで、不意に涙が滲んで零れそうになったのだ。
フリーデリケは男の膝に顔を埋める。
虚脱に似た悲しみが彼女の心を揺り動かす間、グレゴールはずっとその手を握っていた。
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