神の名 06

mudan tensai genkin desu -yuki

少しずつ、終わりに向っていたのだと独りになった後からなら分かる。
だが、あの時の彼はその変化を読み取ることができなかった。正確には読み取っていたが、分かりたくなかったのだろう。
彼女を愛していた。
その感情が強ければ強いほど、彼女は悲しそうな顔をするのだと気づいてしまえば、その先の結末が見えてしまう。
だから彼は気づかない振りをした。
そしてその結末はある日唐突に、彼の前に現れたのである。



その日、彼は五日間かかった砦の視察から予定通り夕方帰って来たところだった。
真っ先に彼女の部屋を訪ねたのは、ただ顔が見たかったからだ。彼女は鎧姿の彼を見てさすがに目を丸くした。
「どうしたんですか、オスカー」
「ああ。少し模擬戦をやっていたからな。すぐに着替えてくる」
「別にいいですよ。お手伝いしましょうか」
窓辺に座っていた彼女は床に飛び降りると彼の鎧をはずすのを手伝う。
その手に礼を言いながら、そう言えばもう窓の鉄格子をはずしてしまおうかなどと彼は考えていた。
もっとも今は彼女の部屋で夜を過ごすことの方がほとんどなのだ。ならば彼女を自分の部屋に置いた方が早いかもしれない。
鎧を脱ぎ、簡略着に着替えたオスカーは魔女を抱き上げる。彼女は彼の髪に指を通すと「埃っぽくなってますよ」と苦笑した。
「なら先に風呂か? 一緒に入るか?」
「嫌です。入るなら一人で入ってください」
髪だけなら洗ってあげますよ、という彼女の頭を笑いながらくしゃくしゃと撫でて、オスカーは部屋についている風呂を借りる。
そして彼が簡単に汗と埃を落として戻ってきた時―――― 部屋には彼女の姿はどこにも見当たらなかった。

「ティナーシャ?」
呼びかけに返ってくる声はなかった。
異常事態だと、彼が気づいたのは鎧と共にあったはずのアカーシアがないと気づいた時だ。
その意味するところを悟って彼は愕然とする。
今まで彼は、一度もこの部屋にアカーシアを持って入ったことはなかったのだ。彼女を害する力を帯びぬことで自分の意思を明らかにしていた。
けれど今日は違った。帰って来たその足でこの部屋に来た。
そして剣と彼女をこの部屋に置いたまま、彼は浴室に離れてしまったのだ。

理解すると同時にオスカーは部屋を飛び出す。
ちょうど廊下を歩いていたクムを捕まえると、驚く彼に問い質した。
「ティナーシャを見なかったか!」
「ま、魔女殿をでしょうか。いえ、生憎……」
「あいつは……」
アカーシアを持っている、と言いかけてオスカーは口を噤んだ。そんなことがばれれば彼女の立場は危うくなる。
元魔女であり、国宝を盗もうとした危険人物として王妃に取り立てることは叶わなくなるだろう。
だから、誰でもなく自分が彼女を捕まえなければならない。そう思った瞬間、窓の外で雷鳴が轟いた。
隣のクムが目を丸くして、空を窺う。
「夕立でも来るのでしょうか……。空は晴れておりますが……」
確かに昼まで晴天だったのだ、今も夕暮れの空は晴れており薄紫に染まっている。
しかし、雲一つない空に再び雷光が走った。轟音が追って鳴り響く。
その光が照らし出す先を見て、オスカーは絶句した。
クムも同様に気づいたのだろう。魔法着の下の腕を上げる。
「あれは……魔女殿でしょうか?」
城の中にある見張り塔の一つ。その屋上に女が立っている。
長い髪は風に揺れ、閃光に照らされて白く浮かび上がった。
女は細い腕を無造作に振っている。その度に空に雷が生まれ、城すれすれを走っていった。
「―――― あいつ……っ!」
彼女が雷光を生んでいるのだ。その圧倒的な力を以って。
―――― 何の為にか。そんなことは分かっている。
オスカーは唖然とするクムを置いて、塔に向って走り出す。
あの遺跡で出会った時のように、彼の訪れを待っている魔女の前に、再び立つ為に。



思い出したくない、と囁く。
もう目を覚ましたほうがいいと。
けれどそれも確かに、起こってしまったことだ。そして今はもうないこと。
思い出せるのは彼しかいない。
そこに込められた自戒は、永遠に彼を苛むだろう。



彼が塔の最上階にたどり着いた時、ティナーシャは縁によりかかって空を見上げていた。
そのすぐ傍にはアカーシアが石畳につきたてられている。おそらくは剣を包んでいたのであろう白い布が風になびいて塔の端に引っかかっていた。
「ティナーシャ、アカーシアを返せ」
言いながら一歩を踏み出した彼に返ってきたのは、小さな雷光である。
火花のように散る雷のほとんどを彼は咄嗟に右に避けたが、飛沫のような破片が腕にあたって痺れをもたらした。
白い指が真っ直ぐ彼を指す。
「動くな。動けば死ぬ」
「ティナーシャ。俺はお前を傷つけるつもりはない」
「私にはある」
指先から不可視の刃が放たれる。空気の刃はいくつもに分散すると彼の全身に降り注ぎ、一瞬でオスカーの体には細かい裂傷が無数に生まれた。
血の匂いが僅かに漂う。だがそれは彼を怯ませる程ではなかった。王はゆっくりと魔女に向って歩を進める。
「俺から逃げたかったのか?」
小さな光球が二つ、蛇行しながら彼へと向った。しかしオスカーはそれを避けない。
球の一つは彼の左腕に接触すると、容易く骨を折った。一瞬痛みに息が詰まる。
「―――― 俺を殺したいか」
闇色の瞳が彼を見ている。それは覗き込んでも先が見えない真の闇だ。
二つ目の球が後ろから彼の右足にぶつかった。肉が焼ける痛みにオスカーは膝をつきそうになる。
だが、それでも彼は女から目を逸らさなかった。
「……ここから去っていくんだな? ティナーシャ」
そしてもう戻ってこない。これが彼女の決別なのだ。
そうではないのかと思っていた。アカーシアと共に彼女の姿が部屋から消えたと知った時に。
彼女はもうこの檻の中に留まるのをやめた。この時が彼に与えられた最後の時間なのである。

ティナーシャは顔にかかる髪をかき上げる。
彼女はアカーシアを一瞥すると、オスカーに視線を戻した。
「オスカー……貴方の名は時代を変えた人間として歴史の上に残るでしょう」
それは半ば確定された事実である。三百年間続いた「魔女の時代」は終わるだろう。そしてそれは彼の手によるものなのだ。
しかし、死後も続くであろう名声も何も、オスカーには意味のないことだった。
痛む体を引き摺って彼はただ一人の女のもとへと向う。
「そんなものに興味はない。それよりも俺はお前が欲しかった」
「出会うはずのない人間、過去の亡霊に囚われて何の益がありますか」
「益不益の問題ではない。お前だからだ。そしてお前は生きている」
だから可能性を育てたかった。
そして彼女自身を愛するようになったのだ。それを無意味だとも罪だとも思わない。
だが…………彼女の方は共に過ごした時間を悔やんでいるのだろうか。
ティナーシャは氷に閉ざされた湖のように澄んだ目で彼を見ている。そこに一瞬哀惜が走った気がした。
「私は自国を滅ぼして魔女になった女―――― 王の対極に位置する者です」
魔女の手がアカーシアに伸ばされる。
彼女の白い指がしっかりと柄を掴んで……ティナーシャは剣を手元に引き抜いた。
魔法士殺しの剣。既にそれは二人の魔女の血を吸っている。
青き月の魔女は清冽な姿を夕闇の中に曝しながら、相反する男を見つめた。
「王よ。貴方は先に進みなさい。私は貴方から欲しかったものを受け取る。そして貴方には」
彼女は銀の刃に目を落とす。
「代わりのものを差し上げましょう」
ティナーシャがオスカーから欲しかったもの。
それはただ一つしかない。全てを理解した彼は慄然とすると共に石畳を蹴った。
怪我を負った体を揮って残りの距離を詰める。
痛みなど感じない。
そこにあるのはただの恐怖だ。
伸ばされた男の手。
ティナーシャはそれを見て微笑む。
嬉しそうな
悲しそうな
笑顔
愛しいと言っている
それは
変わらない
いつの時代も
何度繰り返しても
「さようなら、オスカー」
ティナーシャは穏やかに目を閉じる。
そして魔女の時代は、三百年の歴史に幕を下ろした。



手を伸ばす。
届いた体を抱き寄せる。
華奢な魔女の体は彼の腕の中で二度震えた。アカーシアの柄を握っていた両手が力なく落ちる。
「ティナーシャ!」
温かいものが彼の胸を濡らす。
胸から背へと斜めに突き出した剣。その切っ先に紅い命が滴って零れた。
オスカーは流れ出す彼女の血を留めようと傷口を押さえる。アカーシアの刃が彼の手をも傷つけたが気にはならなかった。
「ティナーシャ! 行くな!」
彼女はもう答えない。笑わない。
ぐんにゃりと力を失った体をオスカーはきつく抱く。
「ティナーシャ!」



死を求めた彼女に、彼が与えたのは愛情だった。
彼が欲したのは彼女の心だ。そして与えられたのは…………彼女の死と、歴史に残る名声だった。



「馬鹿か! お前は!」
アカーシアは抜けない。そんなことをしては彼女はますます死んでしまう。
たとえもう彼女の命がなくなってしまったのだとしても、この体はまだ温かいのだから。
「お前は! 俺がそんなものを喜ぶと思ったのか! 馬鹿だ!」
貴方は我儘ですよ、と記憶の中で彼女が苦笑する。
だがその笑顔はもう触れることの出来ない彼方だ。オスカーは叫んだ。
「俺を生かしたいなら、お前も生きろ! 過去を越えろ! 前を向け!」
王でなかったら、一番目の魔女は殺さなかっただろう。
三番目の魔女とは出会いもしなかったかもしれない。
そして、彼女とは―――― 果たしてそれでも共には生きられなかったのだろうか。
「ティナーシャ! お前がいてくれたなら」

『国さえも惜しくはなかった』



艶のある黒髪が血溜りに没する。
柔らかな体が徐々に温度を失っていく。
魂のない肉体を抱いて彼は慟哭する。
それは徐々に濃さを増す闇の中に染み入り、誰の耳にも届かぬまま消えていった。



相反する者として佇む二人は、最後に一度だけ交差する。
退ける者と退けられる者として。
女は去り、男は歴史の上に残る。
彼の名は永く語り継がれることになるだろう。三人の魔女を葬った王として、比類なき功績を称えられながら。