神の名 05

mudan tensai genkin desu -yuki

敗者は血に横たわり、とろとろとした紅い血が草を塗らしている。
もはや動かないその体を見下ろしてオスカーは溜息をついた。
何とも言えない疲労感が全身を支配している。だが彼の体には傷一つない。それは明らかに異常なことだった。
彼女に拘束され、背後を取られたあの時、確かに彼は敗北と死を覚悟した。
だが、彼女の攻撃は彼に届くことはなかったのだ。
放たれた魔力はオスカーの背に当たる前に弾けて消え、魔女の顔は驚愕に歪んだ。
「あの小娘!!」
という怒りの声が何を意味するのか理解する前に、拘束を振り切ったオスカーはレオノーラの体を切り伏せたのである。
遠くで歓声が聞こえる。
戦場でも勝敗が明らかとなったのだろう。オスカーは魔女の死体から顔を上げると草原を眺めた。
戦が終わる。
それはもう誰の目にも明らかな事実だった。



「ティナーシャ」
名を呼ぶと、寝台に仰臥していた魔女は目を開けた。ゆるゆると上体を起こし、彼を視界にいれる。
「おかえりなさい」
「……腕輪を、していないのだな」
「貴方がはずしてくれました」
オスカーは何も言わぬまま彼女の傍へと歩み寄ると寝台に腰掛けた。細い体を膝の上に抱き上げる。
彼女は眠気が残っているのか男の胸によりかかって目を閉じた。
初めて会った時よりも伸びた髪をオスカーは指で梳いて流す。
「何故、俺を守った?」
誰も彼を傷つけることは出来ない。それだけの結界がいつの間にかかけられていた。
魔女の攻撃でさえ無効化するその結界は、同じ魔女でなければ為しえないものであろう。
―――― 関心の一片さえ向けようとしなかった相手を何故守ったのか。
それとも何かが、彼女の中で変化を見たのだろうか。
オスカーは白い額に口付ける。このまま永遠に傍に留めおきたいほど、この女が愛しかった。
「貴方が帰ってくるまで生きていると約束したので」
水滴に似た声が静寂の中滴る。それは何も混じらない清冽なものだ。
ティナーシャは男を見上げる。淋しそうな微笑が花弁の口元に見て取れた。
「だから、貴方が帰ってこないと私は死ねません」
何が伝わって、何が伝わらないのか。
伝わっても受け入れられないこともある。
だが、それでも彼女が自分を待っていてくれたのなら。
そこには何かしらの意味があると思っていたいのだ。
「なら、俺が死ぬまで死ぬな」
「我儘って言うんですよ、それ」
男の口付けを魔女は目を閉じて受ける。
何度目かの口付け。
だがそれは不思議と彼に初めての温もりを感じさせた。
もう彼女に何も残っていないというのなら、その空白は彼が自分で埋めればいい。
失ったものに代わる思いを注げばいいのだ。それがいつか彼女に安寧をもたらすように。
オスカーは柔らかな体を抱き寄せ、小さな手を取り指を絡める。
少しだけ握り返される指が、まるで絵空事のように幸福だった。



彼女は籠の鳥だった。
城に、生に、そして男に囚われた鳥。
いつも届かない空ばかりを見ている。
そして、彼女は籠の鳥ではなかった。
孤高を失わず、決して自分を譲ろうとはしなかった。
彼の手を離れる、最後の最後まで。



彼女は封飾を外されても城から消えてしまわなかった。
そして、たまにではあるが彼の名を呼ぶようになった。呼んで彼が返事をすると微笑む。
髪を梳けば気持ちがよさそうに目を閉じ、口付けると困ったように苦笑した。
贅沢に時間をかけてゆっくりと縮めていく距離は彼に心地よささえもたらす。彼女が自分を見てくれているのだという実感は彼に少なくない充足を与えた。
彼女を初めて抱いたのは十ヶ月が経過したかという頃だ。
自分が彼女の特別になっているのではないかという疑問をそのままに、彼は彼女を求めた。
即答で受け入れられたらやめようと思っていた。それは自分の体や彼に関心がないということと同義であると思えたからだ。
だがティナーシャは、長く戸惑い考えた後、彼の望みに了承を出した。
力を保つ為に純潔のままでいた魔女は、ほんの少女のように頑なさを漂わせながらも彼を受け入れたのだ。

「愛している」
白い肌に口付けながら囁くと、彼女は小さく鳴いた。息を整えるだけの間を開けて濡れた声が返ってくる。
「そんなことを言うのはよくありません」
「何故。嘘をついているわけではない」
「本当だったらなお悪いです」
溜息と共にしなやかな体が腕の中をすりぬけた。魔女は寝台の上に起き上がると沈痛な目で彼を見下ろす。
「私は魔女ですよ。貴方の飼っている鳥でしかない」
「そんなことは思ったことはない」
「ですが、人は皆そう思っています」
稀有なる美貌の女。王を慰める妖女。
だからこそ彼女は生かされていると人々は思っている。彼女一人が王の後宮に匹敵しているのだと。
彼が魔女に支配されているわけではない。既に二人の魔女を斃した剣士として彼の名声は大陸に通っているのだ。
殺されなかった魔女。その存在を知る者にとっては、彼女はあくまでも彼に「生かしてもらっている」存在でしかない。
夜伽をすることを条件として、彼女は彼の支配下に置かれ、所有されている存在なのだ。
何度忠言をしても魔女を遠ざけようとしない王に対し、ファルサスの重臣たちはそう整理することで彼女の存在を仕方なく許容している。
彼女のことを侮蔑的に謗ったり、穢らわしいものを見るように見やれば王の叱責を受けることを彼らは知っているが、 それも若い王の気まぐれとして片付けることにしていた。
オスカーは今のところ名君として歴史に残るであろう能力と性質を兼ね備えている。
その彼がまさか本気で魔女に傾倒しているなどとあっては、とんだ醜聞になるだろう。
だから、この関係はほんの戯れにすぎない。
そう周知されているからこそファルサスの城内は見かけ上の平穏を保っているのだ。
「ヤルダの姫君との縁談が持ち上がっているでしょう? ガンドナともそうです。そろそろ貴方は身を固めた方がいいのですよ」
力を封じられていない彼女は部屋にいながらして色々なことが分かるらしい。
だが、大臣と似たようなことを言う彼女の淡々とした態度は、オスカーの気分を害しただけだった。
彼は魔女の手を強く引くと自分の下に組み敷く。感情の読み取れぬ黒い瞳を間近から見据えた。
「お前がそれを言うのか?」
「私以外に誰が言っても聞かないのでしょう? 貴方はもっと自分の立場を知るべきです」
「俺の女はお前しかいない」
「貴方の意が全て通るわけではありません」
「そんなことは分かっている」
分かっているからこそ、訝しさを覚えながらも一人目の魔女を殺した。
彼が王とならないのであれば、子が得られないままでも構わなかったのだ。
そうやって色んなことを飲み込んでもきた。表に出ない苦労も努力もしてきた。
現に今、ファルサスは様々な危機に出会いながらもそれらを乗り越え、何の問題もなく大陸において栄えているではないか。
この平和に少しでも彼が貢献したと思ってくれるのなら、彼女のことくらいは自由にさせてくれと言いたい。
それが自分の我儘であるとは重々承知しているが、我儘を押し通したくなるほどには彼女は「特別」だったのだ。
「ティナーシャ」
その名を呼ぶのは彼しかいない。
他の人間はみな彼女を呼ばないか「魔女殿」と呼ぶ。
そしてその呼称を変えさせたいと彼は思っていた。彼の隣に正式に立つただ一人の女のものに。
「俺はお前を王妃にしたい」
誰からも分かるように特別にしたい。彼女は彼が力によって捕らえている愛玩具ではなく、代わりのない愛しい女なのだと示す為に。



それを聞いた時、長い睫毛の下で闇色の瞳は瞬間、光を失ったように見えた。深淵の底では形状しがたい何かが燻る。
笑顔で喜ばれるとは思っていなかったが、不分明な彼女の反応にオスカーは不安を覚えた。
見通せない感情、距離、時間。
魔女は、ゆっくりと目を閉じる。
そして瞼を開きなおした時、彼女はあの遺跡に一人取り残されてしまったかのように哀惜を込めた微笑を浮かべていた。
「貴方、馬鹿ですね」
是とも否ともつかない呟き。
魔女はそして、それ以上何も言わなかった。
ただ白い両腕を伸ばし男の頭を抱く。
その手が微かに震えていたような気がして、オスカーは沈黙と共に白い肌の上に口付けを落としたのだった。