神の名 07

mudan tensai genkin desu -yuki


「ティナーシャ」
自分の声で目を覚ました男は暗闇の中、額を押さえて寝台の上に起き上がった。
他には誰もいない部屋は静寂に満ち満ちている。
オスカーは汗だくの額を手で拭うと深く息をつく。
随分久しぶりにあの夢を見た。独りになってからよく見ていた夢を。
ティナーシャにとってどうだったのかは分からないが、彼にとってはあの出来事は忘れがたい苦渋に満ちているのだ。思い出すだけで息苦しい。
オスカーは何度か溜息をつくと、喪失の悪寒がまだ走る体を動かし、寝台を下りる。
深夜であることは分かっていたが、どうしてもあれが過去のことだと確かめたかった。
明かりのない廊下に出て、彼女の部屋の前に立つ。
扉を叩こうとして、眠っているのを起こすこともないと思い直した。
鍵はかかっていない。押せば音もなく奥へ開く。
月明かりだけが差し込む寝台で、彼女は安らかな寝息を立てて眠っていた。
「リースヒェン」
小声で名を呼んでも彼女は目覚めない。眠りが深い性質なのだ。オスカーは枕元に立つと、手を伸ばして顔にかかる彼女の髪を避けた。
今は記憶のない彼女は、だが間違いなく「彼女」と同じ人間である。
その頬に触れて体温と鼓動を確認すると、彼は安堵の溜息をついた。
「ティナーシャ」
少女の彼女が起きている時は決して呼ばない名前を彼は口にする。
目を覚まさせないようにそっと寝台の上に屈みこむと彼女の頭を抱いた。
「ティナーシャ、俺を置いていくな」
届かない願いがどれ程痛切なものなのか、今の彼女には分からないだろう。
きっと自分も彼女も数十年が限界なのだ。一度お互いを知ってしまった以上、その不在にそれ以上は耐えられない。



それでも、玉座はもうない。国は彼らを縛らない。
―――― ならばこの身もこの力も全て彼女の為に。彼女を守る為に。



「オスカー?」
眠っていると思った少女が怪訝そうな声を上げた時、彼はぎょっとしてその身を引いた。
別の名を呼んでいたところを聞かれてしまったかと思ったのだ。
けれど少女はしきりに目をこすりながら起き上がると、彼を見上げて首を傾げる。
「オスカー、泣いているの?」
「……泣いていない。多分」
「そう? 何だか苦しそうに見える」
少女は彼に向って手を伸ばした。その手を取ってオスカーは寝台に座る。ぎゅっと力が込められる手はとても温かかった。
「起こしてしまったか。悪い」
「いいの。覚えてないけど、淋しい夢を見てた気がするから。オスカーはずっと起きていたの?」
「いや。俺も嫌な夢を見て起きた」
「同じ夢かな」
リースヒェンは男の手を両手で引き寄せると、指を曲げたり開いたりをし始める。
何が面白くてしているのかは分からないが、オスカーはされるがままになっていた。
「やっぱり、一緒に寝たい。そうすれば怖い夢も平気じゃないかな」
「あのな……」
結婚すると言ってロズサークからこの館に連れて帰って来て一月が経ったものの、長らく幽閉されていた彼女の精神はまだまだひどく未成熟に見える。精神だけでいうなら十歳以下くらいかもしれない。
だからこそ彼はゆっくり時間をかけて、その成長を待つつもりでいたのだ。
しかしリースヒェンは男の手を握ったままふっと物憂げな溜息をつく。
「私、上手くできないけれど頑張っているの。料理とか、割ったものの片付けとか。
 でもそれが下手だから、オスカーはまだ結婚してくれない?」
「……そういうんじゃなくてな」
「結婚して欲しいな」
闇色の瞳が彼を見上げる。見通せない深淵。何よりも愛しい双眸。
その奥に淋しそうに微笑する魔女の姿が浮かんで消えた。



あの時彼女が何を考えていたのか。何を悲しんでいたのかは聞いた事がない。
けれど、その後の平穏な暮らしも今も、同じように彼の腕の中にあるのだ。
かつて死を望んでいた女は、今は無邪気に彼の愛情を希う。
―――― それを幸福と呼ばずに、何と呼べばいいのか。



オスカーは少女を膝の上に抱き上げる。少し不安そうで、だが無防備な視線が男の顔に注がれた。
滑らかな頬に口付けると、彼女は顔を赤らめる。
「そうだな。明日街に出るか。ドレスを作らないといけない」
「結婚してくれるの!?」
「勿論。そう約束しただろう?」
少女は途端に顔を輝かせると彼の首に腕を回して飛びついた。
血の通う瑞々しい体。生命と結びついて輝く魂が、彼の焦燥を押し流していく。
胸が熱くなる思いにオスカーは少女をそっと抱きしめた。
「ずっと傍にいていい?」
「いつもいる」
「私が死ぬまで」
他愛もない言葉。その望みにオスカーは目を閉じる。
そして彼女を抱く手に力を込めると「いつまでも」と囁いた。


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