神の名 04

mudan tensai genkin desu -yuki

母の夢を見ていた。
今はほとんど記憶の残っていない母の夢を。
幼い頃病気で亡くなったという顔もよく覚えていない彼女が、彼の頭を撫でながら子守唄を歌っている、そんな夢だ。
ぼんやりした世界の中、目覚めることが惜しいと彼は感じた。起きてしまえばそれは跡形もなく霧散してしまうのだろうから。
だが、彼の意識は時と共に急激に浮上し始める。
そうして目を覚ました時、彼がいたのはいつもと変わらぬ城の自室であり、そこには当然ながら彼以外には他に誰もいなかった。

時計を見ると夜明け直前だ。普段と同じ起床時間にオスカーは軽く痛む頭を振った。
昨日は何があっただろうか。何故かよく思い出せない。
確か、出征のことを告げにティナーシャのところに行ったはずだ。彼女はあっさりとした反応で、そのまま別れた。
―――― それだけのはずだ。
何だか違和感があるが、何もおかしなところはない。
それより今はやることが多いのだ。午前中には軍を手配してミネダート砦に移動しなければならない。
彼はそのまま意識を切り替え支度をすると予定通りに城を立った。
城の一室に眠る魔女が、今は枷をしていないことを誰も知らない。
魔法によって記憶を改竄されたオスカーがそのことを思い出すのは、彼女から遠く離れた戦場においてでのことだったのだ。



広がる平原の中を人馬の大軍が駆けて行く。
他人事ならば単に壮観と言えるであろうその光景を、王であるオスカーは冷静な目で眺めていた。
情報ではヤルダの軍は五万。それに対しファルサスは九万を動員している。
もともとの国の規模が違うのだ。王は勝つことだけではなく、いかに味方の損害を減らすかに注意を払って指揮を取っていた。
まず彼は倍近い人数である自軍を二つに分けると、その内の片方、四万をヤルダ軍の前に布陣させる。
そしてその軍を戦いながら徐々に後退させ、気づかれないようにゆっくりと敵軍を陣中へと引き込みつつあった。
「そろそろいいか。アルスに連絡を」
別働の指揮にあたっている将軍の名を上げると、傍に控えていたクムが魔法で連絡を取り出す。
一見ヤルダがファルサスを押し、優勢に見えた戦況が一変したのはその後まもなくのことだった。
左翼に伏せさせていたアルス率いる別働が、ヤルダの背後を塞ぐように食らいついたのだ。
機動力を重視して騎兵ばかりで構成された別働はヤルダ軍の退路を絶ちそのまま軍の後背に襲い掛かる。
同時に前線でヤルダ軍を誘い込む為後退していた軍も反転して、ファルサスは前後から敵軍を圧し始めた。
兵力は初めから二倍近くもの差がある。その上前後を突かれたヤルダ兵は見る見るうちに打ち倒され、その数を減らしていった。
前線にいたオスカーはその戦況を聞くと、一旦自分は後ろに下がる。
細かい武勲は将たちに任せ、全体を把握し攻撃の止め時を見計らうことにしたのだ。
少数の護衛を伴って軍中を離れ、左翼後方の小高い丘の上へと移動する。そこから見渡せる戦場は、ほぼ彼の予想と同じ状況にあった。
「問題ないな」
これなら思っていたより早く戻れるかもしれない。
戦後処理に時間が取られるかもしれないが、戦闘自体に決着がついていれば隙を見てティナーシャの様子を見に戻れる。
だがそう思ってふっと息を抜きかけたオスカーは、次の瞬間無言でアカーシアを抜くと、恐るべき鋭さで自身の背後を凪いだ。
護衛たちの顔色が変わる。王が突然乱心したかと思ったのだ。
けれど、戸惑いながらも剣を構えた彼らの耳に入ってきたのは、女の楽しそうな笑い声だった。
「本当に……問題なさすぎてつまらないわね」
「何者だ」
「その剣もあなたも目障り。退場をお願いするわ」
空中に女の姿が現れる。蜂蜜色の髪のたおやかな美女。だがその女がただの女ではないことは気配からも明らかだった。
オスカーは慎重に剣を構える。全身を走っていく緊張は彼に数ヶ月前のことを思い出させた。
「お前は……魔女か?」
「あら。よく分かったわね。名乗るのは久しぶりだから心して聞くといいわ。私は『呼ばれぬ魔女』レオノーラ。
 ―――― 少し遊んであげましょう。アカーシアの剣士よ」
女は嫣然と笑いながら手を差し伸べる。
純粋な殺意が力として顕現した。オスカーは高揚と緊張を統御しながらアカーシアを構える。
こうして戦場の片隅において三人目の魔女と王の、言語を絶する戦闘が開始されたのである。

連鎖する光球の爆発が木々をなぎ倒す。だが男はすんでで馬を駆ってそれから逃れると、自身に向う最後の光球を剣の一閃で打ち消した。
彼は左手で鞍に備えられていた短剣を抜き取り、空中の魔女に向って投擲する。
その剣を空中で弾き落としたレオノーラは舌打を禁じえなかった。
戦闘が開始されてから十五分、王の護衛は既に全員が地に伏していたが、残る二人は相対するどちらもが決め手を得られないまま打ち合いを続ける羽目になっている。
彼女の放つ魔法はことごとくアカーシアに相殺され、男は空中に浮かんだままの彼女に剣を届かせる事ができない。
不毛な戦いに彼女の苛立ちは次第に募り大きなものとなりつつあった。
思っていたよりずっと腕の立つ男だ。それに勘が鋭い。
殺すには圧倒的な質量の魔法を食らわして、剣が打ち消すより早く使い手を葬るか、背後などから使い手を直接攻撃するかしかないだろう。
だが、あまりに強力な魔法を使っては戦場にいる他の人間たちに彼女の存在が知れてしまう。
今のところ周囲に結界を張って音や映像を遮断し、外にはこの戦いを知られないようにしているが、度を過ぎた魔法を使えばそれも叶わなくなるだろう。
彼女の目的はあくまでも裏から国を操り弄ること。表立って国を相手に戦う気はまったくない。
だからこそ目障りな男を暗殺して済まそうと思ったのだが、事態は彼女の望む方にはなかなか近づいてきてくれなかった。
「ウナイ! 聞こえないの!?」
もう一つの誤算は、彼女の配下である魔族や魔法士たちに先ほどから連絡が取れないことだ。
聞こえていないはずがないのに彼らは何故か現れない。
主戦場の後方に配置させていたはずの片腕の男でさえ何の反応も返して来ないのだ。レオノーラは腹立たしさをそのまま構成として男に放った。
彼はそれを逆に踏み込んで打ち砕く。彼女を見上げる青い瞳は腹立たしいほど傲岸だった。
―――― これ以上は時間をかけていられない。
戦場では勝敗が決しつつある。
本当はその前にこの男を殺し、せめて互角くらいには戦況を左右したかった。
だが今は、戦いが終わりこちらに気づかれる前に、彼を殺しこの場を去るしかない。そう思わせられるところまでレオノーラは切迫していた。
この男さえ殺せば今度は別の国に寄って謀をめぐらせればいいのだ。ヤルダはもう捨てるしかないが仕方ない。
彼女は素早く作戦を組み立てると構成を組んだ。
目の前の男は、到底無視できぬ恐ろしい剣を持っている。だが、それを使うのはいくら腕がいいと言っても彼女からすれば子供も同然の若輩だ。
確かに彼女よりも戦闘の腕では上位に位置していた『沈黙の魔女』は彼に殺され、『青き月の魔女』は未だ城に囚われているという。
だがそのどちらもが、彼自身の手柄ではなく魔女たちの油断であるだろうとレオノーラは思っていた。
ラヴィニアは恐らく、自分の娘の子を殺すことに躊躇いがあったのだろう。だから殺された。
そしてティナーシャは自ら戦うことを放棄し、死を望んだという。
二人ともとても愚かだ。力があってもそれを揮えないのでは意味がない。
―――― 自分は違う。もっと上手くやれる。
レオノーラは三連の構成を一瞬で組み上げた。それを眼下の男に向かって発動させる。
まずは冷波。
彼は空気を凍らせる波に顔を顰めながらアカーシアを波に向って振り切った。澄んだ音を立てて構成が破られる。
そして、氷柱。
割られた構成、一つ一つが鋭い氷の剣となり、彼に襲い掛かった。男はそれを退きながら剣で捌く。
馬の首に氷柱がつきささり、悲痛ないななきが空を裂いた。彼はだが、愛馬の死を悲しむ暇もなく鞍から飛び降りる。
最後は拘束。
それまで沈黙を続けていた構成が跳ね上がり、不可視の縄が男の手足を絡め取った。
王は突如動かなくなった体に顔色を変えるが、それを振り切ろうと膂力を持って右手を挙げる。
―――― そんな時間を与えるつもりはない。
レオノーラは男の背後に転移する。至近からの確実な一撃。これが、勝敗を決する。
彼女はまだ拘束を解けない男の背に手を向けると、艶やかに笑った。
「さぁ、もう眠りなさい」
男は振り向けない。
女の手から魔力が打ち出される。
そして、幕裏で繰り広げられた戦いは、その終わりを迎えた。