神の名 03

mudan tensai genkin desu -yuki

彼女は触れても嫌がらない。
むしろ無反応だと言った方がいいだろう。手を取り抱き寄せても口付けても冷たい目をしているだけだ。
だから、試したことはないが抱くことも容易いかもしれない。けれどその想像は彼に胸の悪さだけしかもたらさないものだった。
戦争の後、たまたま彼が彼女を引き取ってきただけだ。彼が何も言わなければ他の国が彼女を連れて行った可能性もあるだろう。
そうしたら、彼女はそこで他の男にいい様にされたのだろうか。心がどこにも向わない彼女は体など誰にどうされても構わないのか。
―――― 考えるだけで気分が悪くなる。
それが自分の勝手な感情だと分かっていても、オスカーは苛立ちを覚えずにはいられなかった。
「ティナーシャ」
「何ですか」
彼女はいつからか少しずつ庭に出るようになった。そしてたまに花に手を入れる。
勿論城には庭師がいるのだから彼女がするようなことなど何もない。
だが、花の様子を見る時の彼女の目は少しだけ穏やかに見えて、オスカーはそれが好きだった。
「少し薔薇を切らせようか。部屋に飾るといい」
「いいです。ここに咲いているのが一番綺麗ですから」
一度彼女の為に庭を造ろうかと言ったが、その提案は断られた。
何もして欲しくないのだと彼女の目は語る。消え行く自分には何も残して欲しくはないのだと。
庭に出て花を愛しむ彼女の姿は、美しければ美しいだけ儚い。
いつか彼女の姿が消えた時には、この記憶だけが彼に残されるのだろう。
彼女の温もりでもなく思いでもなく、触れることの叶わぬ影像だけが。
「ティナーシャ」
名を呼ぶと彼女は振り返る。わずらわしげで空虚な瞳を向けてくる。
「愛している」
飾り気のない想いだけの言葉に彼女は闇色の目を少し瞠って―――― そして「馬鹿ですね」と悲しそうに微笑った。



空洞の精神を抱えて時折淋しそうな目をしていた魔女。
あの頃、彼女が何を考えていたのかは分からない。
記憶を汲み出せるようになってからも聞いたことはない。
あの巡り合わせは一度しか起こらなかった。だから、そっとしておけばいつか忘れられるような気がしたのだ。
けれどその考えは間違いだったと、彼は独りになってから思い知る。
本当の絶望は消える事がない。
ただ人はそれを乗り越えて進んでいくことしかできないのだ。



いつの間にか彼女が城に来てから半年になっていた。
重臣たちは彼が魔女のところに通い詰めていることにいい顔をしない。
何故殺さないのかと、彼女の外見に騙されていないで妃を迎えろと毎日のように言ってくる。
けれどそれら苦言のどれもが彼の心を微塵も動かさなかった。
彼女を殺すことも解放することも選ばぬまま城に留め置き続けた彼は、それ以外では十全に王としての役目を果たす。
隣国ヤルダがファルサスに向けて軍を挙げたという情報が入ってきたのは、そんな時のことだった。

「戦に行く」
それだけを伝えるとティナーシャは彼を振り返って頷いた。
ヤルダはどうやら内戦の果てに今回の出兵に至ったらしい。
現在主導を握っている王子は妹姫を幽閉し、自分に歯向かった大臣を処刑して国内を支配すると、その勢いに乗ってファルサスに矛先を向けた。
十年前の戦争とその結果を覚えていないのかとファルサスの重臣たちは不快を露わにしたが、放置しておくわけにもいかない。
一度叩きのめして、あまりにも王子が頑なならば彼を排し、妹姫を立てればよいだろうとオスカーは思っていた。
「俺がいない間のことはラザルに頼んである。が、あまり出歩かないでくれ。終わり次第、すぐに戻るつもりではいるが……」
城内には彼女をよく思っていない人間は多い。
彼女を庇護している王がいないうちに事故に見せかけて葬ろうとする企みがなされてもおかしくないのだ。
自衛に興味のない彼女はむしろそれを歓迎するかもしれないが、彼にとっては我慢ならないことだ。
受け入れてくれるかどうか分からぬが、言わずにはいれなかった彼に、だがティナーシャは意外なことにあっさりと「分かりました」と返してくる。
「その代わり、これを取ってください」
「封飾を?」
彼女の力を封じる腕輪は、彼女を城に、ひいては生に繋ぎとめる檻そのものだ。
さすがのオスカーもそれには即答できず、彼女の真意を目で問うた。ティナーシャは淡々とした口調で返してくる。
「単純な話です。貴方が死んだらこれが外される可能性はほとんどなくなる。それはちょっと困ります」
「俺は死なない。だがお前はこれを外したら自ら死ぬんじゃないか?」
ティナーシャは答えなかった。少し目を細めて彼を見返しただけだ。
オスカーは少しの苛立たしさを覚えて彼女の頭を軽く叩く。
「万が一俺が死んだら父に外すように頼んでおく。だから、今は駄目だ」
「今、外してください。そうでなければ許さない」
何の力もない魔女が何を許さないというのか。だが彼女に囚われている彼にはその言葉は存外堪えた。
無言でのにらみ合いが続き、やがて彼は不承不承折れる。
「生きたいと言ってくれ。そうすれば外そう」
「仮に私がそう口にしたとして欺瞞だとは思わないのですか?」
「少しは俺を安心させてくれ。何もかも手放す気にはなれない」
彼にとっては最大限の譲歩である。
だが、それに答えたのは言葉ではなかった。
ティナーシャは立ったままの彼の前まで来ると両腕を男に向って伸ばす。その体をオスカーが抱き取ると、魔女は目を閉じて男の唇に口付けた。
脳を溶かす程の甘い痺れが走っていく。
長い口付けが沈黙を別のものに塗り替えた。
顔を離した彼女は男を真っ直ぐ見据えると「外してください」と言う。
だがオスカーは顔を顰めてかぶりを振った。
「違う。そうじゃない」
「貴方が欲しいのはこういうことではないのですか?」
「そうだとしたらとっくにお前を犯していた」
望んだのはもっと別のことだ。
硝子の向こうにあるもののように、届きそうで届かないもの。
それが欲しくて時間をかけた。彼女を求めた。
―――― だがやはりこの望みは、彼女には伝わらないものだったのだろうか。
「生きたいと言ってくれ、ティナーシャ」
オスカーはもう一度願いを告げる。
埋まらない距離を少しでも縮められるように。彼女へと響くように。



ティナーシャは人形に似た意思の読み取れない目をしていたが、やがて深い深い溜息をついた。自分を抱き上げる男の耳に唇を寄せる。
「……生きたいです」
かすれかけた囁き。
それが似て非なる別の意味を持っていたと彼が知るのはもっと後のことだ。
オスカーは彼女を寝台に座らせると腕輪に指を伸ばした。王族の手に反応して封飾は開く。
「俺が戻るまで死ぬな」
「お約束しましょう」
ティナーシャは真面目な顔で彼を見た。自由になった手を彼に向ける。
不味い、と彼が思ったのは戦闘で培われた勘によってだ。今はアカーシアがない。何の武器も持っていない。
オスカーは反射的に女の手を捻り上げようと自分も手を上げる。
しかし、それも一瞬遅く―――― 構成が彼に向って放たれると、オスカーの意識は深い闇の中に沈んでいったのである。