神の名 02

mudan tensai genkin desu -yuki

彼女は既に終わってしまった人間なのだろう。
何も言ってこないが、オスカーにはそのことが分かっていた。
もう全て終わってしまった。何も残っていない。おそらく、彼が彼女に初めて会ったあの戦場で彼女は全てを終わらせたのだ。
空虚さしか孕まない瞳を覗き込む度、彼は考える。
もし、もっと早く彼女に出会っていたなら、その時は何が変わっていたのだろうかと。

その日の彼女は窓枠に腰掛けて鉄格子越しに外を見ていた。
鉄格子は彼女の逃亡を防ぐものではなく自殺を防止する為にオスカーが入れさせたものである。
同様の理由でこの部屋には刃物も紐状のものもない。敵意がないことを示す為、彼もアカーシアを佩いていない。
ファルサスは彼女を監視するという名目で引き取ってきたのだ。
他国が本音では魔女の死を望んでいることを彼は知っていたが、もはや外野のことと無視し続けていた。
ティナーシャが実際に自殺を図ったことはない。けれど用心は前もってしておくべきものだろう。そう思わせるくらいの危うさが彼女にはある。
「ティナーシャ、外に連れて行ってやろうか」
「何処へですか?」
「湖にでも森にでも。気分転換が必要だろう」
「ご自分の気分転換が、でしょう。私をつき合わさないでください」
目も合わさずそう言われては苦笑するしかない。オスカーは彼女のすぐ後ろに椅子を置いて座ると流れる黒髪に手を伸ばした。
「こんなところにずっと閉じこもっていては腐るぞ。たまには外の空気を吸え」
「私をここに閉じ込めているのは貴方だと思うのですがね」
「人をつければ城の中は好きに歩いていいと言っただろう。俺と一緒なら城の外だっていいぞ」
「何処だって一緒です」
長い髪は艶やかに輝いて指を通す端からすり抜けていく。それはまるで彼女自身のようだ。ちっとも捕らえどころがない。
オスカーは、たまに見かける髪を縄のように結っている女はどうやっているのかと思い、何となく手元の髪を二つに分けてねじりあわせ始めた。
「お前は塔に帰してしまえば死んでしまうのではないのか?」
ファルサスに来てから一ヶ月。彼女は食事を拒否しているわけではないが、ほとんど量を取らないせいか徐々に痩せてきている。
もともと華奢な体が頼りなくなっていくのを見るのは気分のよいものではない。オスカーは長い髪を先までねじってしまうとそれを見て首を捻った。
「何か違うな」
「何やってるんですか」
彼女がわずらわしげに首を振ると黒絹の髪はさらさらと元に戻った。彼は再びそのうちの一房を手に取る。
魔女は呆れたように「三つに分けるんですよ」と教えてくれた。オスカーは「なるほど」と言われたとおり手の中の髪を三つの束に分ける。
「お前が生きたいというのなら、半年もすれば塔に帰してやってもいいんだぞ」
「随分いい加減ですね。その後私がまた戦争を起こしたらどう責任を取られるんです?」
「お前はそんなことはしないだろ。するならば今までいくらでも時間があった」
三つに分けた髪を適当に重ねていく。それは不恰好ながらも何とか一本として結われつつあった。
「今までどうやって何百年も生きてきたかは知らんが、何もすぐに死ぬことはないだろう。命の残りがあるならそれを使い果たせばいいだけではないか?」
「……貴方、何歳なんですか?」
「二十一になったばかりだな」
「説教くさいですよ」
女の声には呆れが滲んでいる。オスカーは端まで編み上げた髪を一旦解くと、今度はもっと丁寧に結い始めた。
今度はこつが分かってきたせいか大分綺麗に出来ていく。
「ならお前も説教し返せばいい」
「他人のことは放っておいてください」
ある意味予想通りの答に彼は苦笑を返す。途中まで出来上がった髪も手を離すとあっという間に指の間から零れ解けた。
「ティナーシャ」
「名前を呼ばないでください」
振り返らない女をオスカーは膝の上に抱き取る。軽い体は腕の中に閉じ込めると淡い花の香がした。
力を込めれば折れてしまいそうな腕。白磁の肌は艶かしい手触りを与える。
「お前を欲しいと言ったらどうする?」
美しい女。最強の魔女。
彼女の関心を引くものはもうこの世界のどこにも何も残っていないというのだろうか。
ティナーシャは背後の男を見上げる。この日初めて闇色の双眸が彼を捕らえた。
「私は貴方の慰めにはならない。欲しいのなら殺せばよい。―――― 魔女殺しの王よ」
気高い目。それは今まさに高い塔から飛び降りようとする潔さと同じものだ。
自身を顧みない頑なさを憐れと思わないのであれば、彼女の決然は賞賛にさえ値しただろう。
しかしオスカーはそれには答えない。ただ女を抱く腕に力を込め、無言のまま彼女を見つめていた。

強引に手に入れようと思えばそれは容易い。今の彼女は魔法を使えないのだから。
けれどそれでは意味がないのだと彼はよく分かっている。
彼女自身の心が変わらなければ、そこには何もないのだ。それだったら彼女の希望通り殺してやった方が余程ましだ。
沈黙の魔女は殺さざるを得なかった。それを後悔することは出来ない。王として許されない。
しかし、だから代わりに彼女を生かしたいのかと聞かれれば、オスカーは判然としないながらもそれは違うと思っている。
何故彼女の気を引きたいのかはよく分からない。ただ思い込みたいだけなのかもしれない。
生きているならば、そこにはいつでも人の可能性は残っているのだと。

三ヶ月が過ぎた。
オスカーはいつからか彼女を呼び出して食事を共にするようになる。テーブルを同じにして口うるさく言えば、彼女は一人でいるよりは多く食事を取るからだ。
彼女の態度は変わらない。笑わないしほとんど彼を見ない。必要最低限の受け答えしか返さない。
それでも言葉が返って来るということは、彼女がまだ人の存在を許容しているということであろう。
だから彼は飽きもせず彼女に話しかける。水晶を叩いたかのように情味のない声は、温かみがなかろうとも何故か彼を安堵させるのだ。
「ティナーシャ、何か育ててみるか?」
「何の為にですか?」
「手をかければ返ってくるし、時間の経過が分かりやすくて面白いだろう? 動物でも植物でもいいぞ」
「責任が持てません」
にべもなく拒否されると彼は笑った。彼女が彼の申し出を受けたことなど一度もない。
ただ、彼女はどんな提案をされても一度は詳しいことを聞き返してくる。そんなところが妙に律儀で可笑しかった。
根が真面目な人間なのかもしれない。オスカーは食事の手を止めぬ女に更に誘いかける。
「一人で全部を負わずに人の手を借りればいい。なんなら俺も手伝うぞ?」
「貴方が植物を育てるなんて似合わなそうです」
「そうか? 確かにやったことはないが」
「無茶な提案をしないでください」
魔女は酒盃を手に取る。舐めるように少しだけ酒を味わう様は猫によく似て、男の目には愛らしく映った。
「なら人の子を育ててみようか」
「花も育てた事がない人がですか?」
「いずれはやることだろう。早いか遅いかだ」
「それは貴方はそうでしょうけどね。……と言っても普通、王は自分で自分の子を育てたりはしないじゃないですか。私の国も……」
そこまで言ってティナーシャは急に口を噤む。余計なことを言いかけてしまったという顔になると彼女は視線を逸らした。
魔女の出自は全員が闇の中であり、彼女も例外ではない。それをつい口に出しそうになったことが気まずいのだろう。
感情が露わになったその表情をオスカーはまじまじと見つめた。
「お前の国はそうかもしれんが、俺は出来るだけ手を出したいと思っているぞ」
ティナーシャは僅かに首を傾け、彼を見上げる。不分明な感情がそこには見て取れた。
喪失か寂寞か諦観か。それとももっと強い何かか。
彼女はもう何も持っていない。全てを終わらせ手放し一人でうずくまっている。未来に繋がるようなものが何一つないのだ。それを選んだ。
だがそれは…………本当に最初からの彼女の望みだったのだろうか。
いつから彼女は何もかもを諦めてしまったのだろう。
まだ確かに彼女は、ここに、生きているというのに。

「俺の子を産めばいい」
「―――― は?」
二人の視線が空中で交わる。その片方は自分が言ったことに少なからず驚愕しており、もう片方は言われたことに唖然として二の句が継げないでいた。
固形になりそうな沈黙がテーブルの上を転がっていく。
たっぷり数十秒の間はそれまでの料理の味を忘れさせるのに充分なものだった。
ティナーシャはようやく我に返ると「貴方、どうしようもない馬鹿ですね」とだけ言ってそそくさと席を立つ。
そうして魔女が部屋に戻り、王だけが一人残されると、彼は何とも言えない表情で言葉にならない感情をかみ殺した。
今までずっと、彼女を生かす為に気を引いてみようと思ってきたのだ。
怒りでも執着でも何かを持てば命を惜しむだろうと考えていた。
けれど本当は、自分こそが彼女の関心を得たかっただけで…………その執着が欲しいと思っていたことに、オスカーはこの時初めて気づいた。
曽祖父と同様に、あるいはそれ以上に―――― 彼は孤独な魔女の存在にいつの間にか捕らわれてしまったのである。



何故彼女は自分さえも捨ててしまったのだろう。
流れ出てしまった何かを埋めることはもう叶わないのだろうか。
部屋を訪ねると彼女は寝台で目を閉じている。眠っているわけではないのだろう。気配で分かる。
だからオスカーは美しい貌を覗き込むと、小さな頬に触れて囁いた。
「もし俺が……今からでも塔を登れたなら、お前は俺の望みを叶えてくれるのか?」
「無理です。あの塔は私の力で動かしていましたから。私が封じられている以上入ることもできません」
細い手首に嵌められた腕輪。それが彼女を今ここに繋ぎとめている。
オスカーは自らの手で嵌めた封飾具を一瞥した。
「ならば何か別の試練をくれ」
「無意味ではないですか? 貴方が達成者となったとしても、今の私には何も出来ない」
彼女はようやく瞼を開く。
冷ややかな視線に、けれど彼は微苦笑しただけだ。
「出来るさ。死に急ぐな。それが望みだ」
遅すぎるのかもしれない。もう彼女の心は何処にも残っていないのかもしれない。
だがそれで彼女が自分を振り向く事がなくとも、生きて前を向いてくれる可能性がまだ残っているのなら、オスカーはそれに賭けたかった。
彼女にはもっと別の顔も似合うはずなのだ。穏やかに緩やかに生きていくような安らぎも。
ティナーシャは虚ろな目で彼を見つめる。そこにはまるで透明な水が湛えられているかのようだった。
「その為に試練を? 貴方は王なのですよ?」
「そうだな」
そして、魔女を殺す為の男である。口に出さずとも二人ともがそのことをよく知っている。
決して交わらぬ道を歩いてきた二人。その行く末が交差するところとは何を意味するのか、人は一つしか思い当たらないであろう。
「私が貴方から欲しいものは、ただの死です」
「俺が欲しいのはお前自身だ」
彼女は目を閉じて微笑む。
それはまるで、通じ合わないことを愛しむような微笑だった。