神の名 01

mudan tensai genkin desu -yuki

それは最早、起こらなかった歴史である。
塗り替えられ書き換えられた時の上に在る出来事だ。
だが、今ないことはかつてなかったことには決してならない。
しかして時折それは飛沫のように浮かび上がり、彼をそっと苛むのだ。




美しい女なのだとは聞いていた。
その膨大なる力の為か、一度見たら忘れられぬほどの美貌の持ち主なのだと。
だが、それら話を聞いての彼の想像を遥かに上回るほど、女は清冽だった。
とうの昔に滅びた国の遺跡。
その祭壇の前に立つ女は、漆黒の瞳に凪いだ年月をたゆませて―――― 彼を見ていた。

「お前が魔女だな?」
「確かに。私が青き月の魔女です。貴方はアカーシアの剣士ですね」
「第二十一代ファルサス国王、オスカー・ラエス・インクレアートゥス・ロズ・ファルサスだ。お初にお目にかかる」
「ティナーシャと申します。そして、それ以外の名は不要でございましょう。ファルサス国王に対しての非礼、お許しください」
女は微笑むと目を閉じた。
少し胸を反らせて深く息を吸う様は、まるでどこかへと飛び立つようにも見える。
だが、彼女の前には崖も何もない。ただ天敵たる男が一人立っているだけだ。
オスカーはアカーシアを握り直しながら黒髪の魔女を見つめる。類稀な美貌は晴れ晴れとして、この急場にあって嬉しそうにさえ見えた。
「助命嘆願はしないのか?」
「何故そんなものが必要でしょうか。貴方の斃した魔女は命を請いましたか?」
「…………いいや」
魔女同士に繋がりなどないとあの日殺した「彼女」は言っていた。にもかかわらずここにいる別の魔女がそのことを知っているということは、それは最強と言われる青き月の魔女の 、人知を超える力の為なのだろう。その力は見過ごすことの出来ぬ強大なものだ。今回の戦争の渦中には常にこの女がいたからこそ、彼は「アカーシアの剣士」としてもこの場 に呼ばれていたのだから。

タァイーリより昨年独立した小国家が急に五大国に宣戦をつきつけた時、その反応のほとんどが嘲弄でしかなかった。
暗黒期を終わらせたほどに今現在存在する大国は圧倒的な力を持っているのである。にもかかわらず、小さな国が一体何を出来るというのか。
しかし、その考えはいくつもの街から忽然と人が消されるにあたって、修正を余儀なくされた。
忌まわしい程に圧倒的な力を誇る魔女。その中でも最強の一人が、小国の中枢にいることが分かったのだ。
五つの国はそれぞれが出兵を決めた。武力によって魔女を叩き伏せようと決定がくだされ、その任はアカーシアの持ち主であるオスカーもまた負うところになった。
出陣にあたって父より王位を継いだ彼は、そうして進軍の果てに遥か昔に滅びた国の遺跡に辿りつき……そこで累々と横たわる魔法士たちの死体と、魔女に、出会った。

魔女は戦う気もないらしかった。力が残っていないのだろう。白い顔はすっかり血の気が引いている。
血臭を乾いた風が押し流していく遺跡の中央、王は彼女に向って剣を構えた。
「ならば言い残すことは?」
「何も。いつでもいらしてください」
彼女は何も語らない。この不可解な戦争の意味も、彼らが到着した時既についていた決着の理由も。
命を惜しまない。まるで自分の役割は終わったのだというように。
そしてただ、与えられる死を待っている。彼の剣と自分の命が全ての幕を引く時こそを望んでいるのだ。
オスカーはアカーシアを振り上げる。
目を閉じて刃を待つ女の姿に、数ヶ月前に殺した別の「魔女」の姿が重なった。
―――― 彼女もあの時、微笑んでいた。
子供だった彼に呪いをかけ、そして呪いの打破の為に彼に斃された沈黙の魔女も。
あれから数ヶ月、いまや王となった男は目を閉じる。
大陸を三百年に渡って支配した魔女の時代が、新たな力によって今、終わろうとしていた。

戦争が終結してから一週間。ようやく当座の処理を終わらせたオスカーは、ファルサスの執務室で仕事に取り掛かっていた。
幸い人が消えた街にも無事人は戻り、戦闘がなかった為、軍にも死者は出ていない。
こまごまとした残務処理を右から左へこなす彼のもとへと報告が来たのはそんな矢先のことだった。
「起きた?」
彼は端的にそう聞き返すと、城の奥にある一室、王族の使う部屋へと足を運ぶ。
城の角にあたる部屋は塔部屋とも言い、丸みの帯びた豪奢な部屋になっていた。
今、その部屋の寝台の上にいる女は彼の訪れを顔を上げて迎える。怪訝としか言いようのない表情の美しい顔がじっと彼を見つめた。
「どういうつもりですか」
「どういうつもりとは何だ?」
「何故、私を生かしているのかとお聞きしているのです」
初めて出会った時よりは幾分顔色のよい魔女の姿をオスカーはまじまじと検分した。
外見的な年齢は彼と同じか少し下くらいだろうか。あまり見たことのない闇色の瞳がひどく印象的だ。
細い体は頼りなげで、とても大陸最強と言われる女には見えない。黙って微笑んでいるだけならば守ってやりたいと思う男は多いだろう。
「何故と言われてもな。ファルサスはそれ程恩知らずではない。青き月の魔女には借りがある。それだけの話だ」
「七十年前のことですか? あれならレギウスと私の間の問題です。貴方には関係ありませんよ」
「数ヶ月前、復活した魔獣を倒したのはお前ではないのか?」
魔女は沈黙を以って問いに返した。渋面はこの場合肯定ととっていいだろう。オスカーは椅子を寄せると女の前に座る。
「お前は街の人間も消しただけで殺してはいなかった。ならば大したことはしていないのだろう?」
「あの死体を見なかったんですか? あれをやったのは私ですよ」
「さぁ……。殺した時に居合わせたわけではないからな。どんな理由があったかも俺は分からん」
殺されていたのはほとんどがクスクルの魔法士だった。人数からして全体のほんの一割かそこらだろうが、数十人に及んでいたのは事実である。
彼ら大国の軍が到着した時には全ては終わっていたのだ。
崩れかけた遺跡の中央に立っていた女は近くにいた二人の魔法士をどこかに転移させると、一人彼らへと向き直った。
それが「魔女」だと分かったからこそ、彼はその前に立ったのである。
「ファルサスがそう言ったとしても他の国々までそうではないでしょう。私を生かしたとしても反感を買うだけです」
「それはそうかもしれんな。まぁそれなりの処置は施してあるが……」
オスカーは苦笑して彼女の手首を指差す。そこにはアカーシアと並んで国宝とされる封飾具の腕輪が嵌められていた。
これがある限り彼女であろうとも魔法は使えないのだ。魔女はあからさまに顔を顰める。
「こんなことをして何のつもりですか? 飼い殺しなら御免です。さっさと殺しなさい」
「殺すつもりはない。それにしばらくは監督すると言ってきてしまったからな。塔に帰すこともできない。その代わりここで暮らすといい」
「……貴方、馬鹿ですか?」
助けたことを感謝されるとは思っていなかったが、ここまで痛快に切り返されるとは思わなかった。オスカーは喉を鳴らして笑い始める。
魔女は、それを心底不思議そうに見やって……そして理解できないというようにかぶりを振った。




記憶は残らない。全て綺麗に書き換えられる。
だから、彼らは知らなかった。知らないまま出会った。
そして知らないまま別れる。
思い出せるようになったのはずっとずっと後のこと。
幸福だからこそ耐えられたのは幸運だった。




「ティナーシャ」
部屋に入って名を呼ぶと、寝台からあからさまに嫌そうな声が返ってきた。
「名を呼ばれるために教えたわけではありません」
彼女は、たいてい一日中眠っている。出歩くことも制限つきなら自由であるし、本などの読み物も与えているのだが、それらに手をつけようとはしない。
植物のように受動的な日々を送っている。それが気になって、オスカーは日に一度は彼女の部屋を訪ねていた。
彼は顔の上に腕を置いて仰臥している女の隣に座ると長い髪に指を伸ばした。
「ならレギウスは何と呼んだ?」
「…………彼は私の契約者でした」
それは名で呼んでいたという意味なのだろう。だが曽祖父が求婚するほどに愛した魔女の名は城には残されていない。魔女の名は忌まれるものなのだ。
だが残っていない理由の半分はその「残す習慣がない」という常識に則ったものであろうが、もう半分は曽祖父が彼女の名を後世に教えたくなかったからではないかとオスカ ーは思っている。
黒い髪は細い絹糸のようだ。艶やかな漆黒。夜よりも深い色。
「達成者か。俺も塔に登ってみたかったな。沈黙の魔女のところに先に行ったから機を逸した」
どちらの魔女を訪ねるかは迷っていたことではあった。直前まではティナーシャのところに行くつもりだったのだ。彼女の方が所在を明らかにしていたのだから。
しかし、そんな時、沈黙の魔女の居場所が城にもたらされた。彼はそこへ向かって魔女と相対し……彼女を撃破することで自らにかけられた呪いを打ち破った。
「彼女は何か言っていました?」
「何も。言いたくなさそうだから聞かなかった」
沈黙の魔女のところに行くと言った時、父は複雑そうな顔をした。そして、久しぶりに再会した魔女もまた混濁した感情を孕んでいるようだった。
おそらく何かがあるのだろう。彼の知らない何かが。だがどちらにも問い質すことはしなかった。
父も魔女も、「過去」を彼に伝えたくないと思っていることは明らかだったので。
「お前は何か言いたいことがあるか?」
「死にたいです」
二人目の魔女もまた、死を望んでいる。
だから彼はそれを与えることはせずに、今日も彼女の部屋を出た。