mudan tensai genkin desu -yuki
初めに気づいたのはシエラの不審な態度によってだった。
玄関で彼を出迎えた時、しきりに何かを探しているように見えたのは、おそらく監視を気にしてのことだったのだろう。
その推察がついたからこそ彼は彼女の誘いを受けた。襲いやすい状況を作ってやれば、隠れている人間たちも姿を見せるだろうと思ったのだ。
しかし、彼らはそれでも自らが彼の前に立とうとはしなかった。
それどころかシエラを刺客として送り込んできて、彼を殺させようとしたのである。
「大した父親だ」
ルイスは剣を携えながら冷笑を浮かべた。
彼は普段は帯剣していないが、それは剣を使えないというわけではない。
単に彼の兄が剣士としては突出しており、同様に彼は魔法士として抜きん出ているだけで、むしろルイスの剣の技量は一流と言って差し支えないものなのだ。
そして今のように屋内で戦う場合には魔法だけではなく剣も併用した方が戦いやすい。
ルイスは周囲に意識を張り巡らせながら、その実無造作に廊下を歩き出す。途中で精霊に命じ、屋敷から誰も逃がさぬよう結界を張らせた。
シエラが持っていた地図を元に、この屋敷の真下にあった洞窟を調べさせたのは昼のことだが、そこには人がいた形跡はあったものの、入れ違いで引き払われたのか誰の姿も
残っていなかった。おそらく洞窟を出てシエラの屋敷へと移動してきたのだろう。てっきり他国に逃げたかと思ったが、ここにいるのなら好都合だ。
「さっさと来い。これ以上時間を割くのも煩わしい」
ファルサスでの誘拐は正確には追いきれなかったが、二十年近く前から密やかに行われてきたらしい。
不審を買いすぎないよう時間と場所を空けて子供を攫い、女を攫い、その内調子付いてきたのか一度に何人もを誘拐するようになった。
ファルサスから連れ去られたと思しき人間たちは、ここ一年だけで十二人。その内もっとも幼い五歳と八歳の姉妹が他国の富豪に売られたとの情報を得て、
彼がその屋敷を調査した時
、二人の姉妹は時僅かに遅く拷問趣味の主人の犠牲となっており、大の男でも直視に耐えない無残な屍となっていた。
小さな体が原型を留めぬほどに尊厳を奪われ踏みにじられた姿を見て、ルイスはその場で二人の死体を焼いた。
いなくなった娘の帰りを気が狂わんばかりに待っている両親に、とても遺体とは言えぬ憐れな肉塊を差し出すことはできなかったのだ。
「逃げればより苛烈な死が待っている。気を失うことも出来ぬまま三日三晩は苦しむことになるぞ」
触れれば切れる刃のような脅しに、恐慌に駆られたのか廊下の影から一人の男が飛び出してくる。
男は奇声を上げながら湾曲した剣を振り被り、ルイスの頭部めがけて切りかかってきた。
勢いだけは強烈な斬撃。だがその剣はルイスの長剣によって軽く外側へと弾かれる。
そして、二撃目を揮うことは叶わなかった。男は肩から斜めに深く切り下され、鮮血を上げて崩れ落ちる。
彼は血が飛び散った壁を見て、僅かに眉を寄せた。
「しまった。血は染み抜きできるか?」
首を捻るが、彼のこれまでの人生で染み抜きをした記憶など一度もない。
後で誰かに聞いてみるか、壁紙を張り替えた方が早いかなどと考えながら彼は男の死体を跨いだ。
残りは五人。その中にはシエラの父親も入っている。
初めて会った父親だと言うが、彼女は父の死を悲しむのだろうか。
彼女の血縁だからという理由で助命する気はルイスには一切ない。
仮に情報を持っている人間で城に連れ帰る価値があったとしても死罪になる未来は免れ得ないものだろう。
そのことでシエラに恨まれるとしても、それは仕方のないことだ。ルイスは既に決定した未来に向って歩いていく。
二人目と三人目は廊下の角を曲がった時、左右から同時に飛び出し剣を突きこんで来た。
ルイスはそれを半歩後ろに引いて避けながら右の男の剣を己の剣で弾き飛ばす。左側の男の側頭部に手を当て、魔力を叩き込んだ。
無言のまま白目をむいて絶命した仲間に、剣を失った男は恐怖し悲鳴を上げる。
「ば、化け物……」
聞き慣れた言葉はルイスの返答さえ引き出せなかった。彼は空の左手を差し伸べ、構成を放つ。首の骨が折れる鈍い音がして男は床に伏した。
重なる二つの死体には一片の憐憫さえ注がれることはない。
彼は肉塊を何の興味もなく乗り越えると先へと進んだ。
浴室に座り込んでいたシエラは、何とか我に返ると慌てて服を着た。脱衣所から顔を出し、小声でルイスの名を呼んでみるが返事はない。
彼に言われた通り、ここで待っていた方がいいだろうか。それとも父を探した方がいいか。
シエラは真実を聞いたからこそ父の助命を彼に請うべきかどうか、判断をつけられないでいた。
何故母はあんな男を選んだのだろう。利用されていることを知っていて、それでも父の為に火をつけ続けていたのか。
もう聞くことの出来ぬ相手に向ってシエラは疑問を投げかける。
―――― やはり、様子を見に行ってみたい。
それは賢明なことではないと分かっている。けれど、自分の知らないところで全てが終わってしまうのはもう沢山だった。
どんな終わりであれ、事の成り行きを自分で見極めたい。自分の責任を介在させたい。ただ結果だけを教えられて、誰かを恨んでしまいたくないのだ。
彼女は足音を殺して廊下を歩き始める。さして広い屋敷ではない。まだルイスに追いつくことは可能だろう。
けれど、そう思って廊下の分かれ道に差し掛かった時、シエラは左の廊下の先に誰かが血塗れで倒れているのを見つけて小さく悲鳴を上げてしまった。
壁には鮮血が飛び散り、床板にも血溜りが出来ている。微塵も動かないのは既に死んでいるからなのだろう。
一瞬倒れているのはルイスなのではないかと思ったのだが、明らかに髪の色が違う。父の仲間のうちの一人だ。ならばこれをやったのは彼に違いない。
凄惨な死体を見たということより、彼が無事らしいということへの安堵が勝って彼女は深く息を吐き出す。
―――― 後ろから伸びてきた男の手が彼女の口を塞いだのは、その時だった。
「しくじったな、シエラ」
殺気を孕んだ低い声。
それが父のものだと分かるのに時間はかからなかった。シエラの背筋を冷たいものが滑り落ちる。
「あれだけ指示を出して武器を貸してやったのに。あの男は油断させねば殺せないと言っただろう?」
反論は許されない。ヤジムの手はがっちりと彼女の顔に爪を立てて食い込んでおり、苛立ちに震える様はそのまま骨を砕かれてしまうのではないかと思えるくらいだ。
「だが、奴がお前を殺さなかったということは、まだお前に使い道があるということだ。役に立ってもらうぞ、シエラ」
その宣告に彼女は蒼白になる。ルイスは彼女を助けてくれたのだ。なのにまた彼女を使って彼に何かをしようというのか。
突然暴れ始めた娘にヤジムは舌打すると、背後にいる仲間の男に声をかけた。
「おい、取り押さえるぞ! 手伝え!」
「あ、ああ」
男は前に回るとシエラの両足を掴んで持ち上げようとする。その手を彼女は力いっぱい蹴った。同時に口を覆っている手に噛み付く。
「痛っ!」
「くそ!」
二人の男の苦痛と罵りの言葉を頭上に聞きながら、彼女は床を這って逃げ出そうとした。しかし、上から誰かに髪を掴んで引っ張られる。
無理矢理天井を向かされたと思ったその時、シエラは横から強い衝撃を受けて廊下に叩きつけられた。
顔を殴られたのだと分かったのは、頬に熱い痺れを感じた時だ。彼女は口の中に血の味を感じて思わず咳き込む。
「このガキ!」
視界の端にヤジムがまた手を振り上げるのが見える。シエラは咄嗟に両手で頭を庇って床に伏せた。
けれど予想した打撃は一向に襲ってこない。彼女は恐る恐る顔を上げる。
ヤジムは、まさに娘を殴りつけようとする手を上げて震わせたまま、怒りに満ちた目で彼女を睨んでいた。その手をかろうじてもう一人の男が押えている。
「おい。死んだら不味いぞ。あまり殴るな」
「分かってる……。シエラ。舐めた真似をするなよ? 何の為お前を今まで殺さないでいてやったと思ってるんだ。
情があったからじゃない。エレノアがどうしてもお前を助けてやってくれと頼むからだ」
「おかあさん、が?」
娘の困惑の声に「情があったからではない」と言い切った父親は、煩わしげな視線を返してきただけだ。
シエラは頬に残る痛みを堪えながら体を起こす。母はこの男に何を頼んだのか。
気になっていた過去のことを聞けるのは今しかないのかもしれないと思った。
「お母さんは何て……」
しかしヤジムは視線を逸らす。仕方ないと言わんばかりに溜息をついて、代わりに答えたのはもう一人の男の方だった。男は指でヤジムを指す。
「こいつはな、商品の女に手をつけて孕ませたんだ。それで出来た子供がお前だ。
周囲もこいつも子供を堕ろせと迫ったが、あの女は承知しなかった。だが腹の大きい女なんか売り物にならないからな。
ちょうど建てさせていたこの屋敷に追いやって、火をつける役目を与えた。火がついている限りは子供の命は助けてやると言ったんだ」
息が、止まる。
シエラは鉛を喉に押し込まれたかのように沈黙せざるを得なかった。
それは温かくも何ともない事実だ。むしろとても現実的で、納得できる理由。
シエラの誕生を望んだのは母しかいなかった。元はどこで暮らしていたのか、攫われて売られるところだった母が、娘を守って灯していたのがあの火なのだ。
今まで信じていた形のないものが手の中から零れ落ちていくような気がする。
少しだけ残っていた期待が殴られた場所から空中に霧散してしまったようにさえ思えた。
娘の空虚な視線にヤジムは顔を顰める。そこには苦々しさ以外の感情は見て取れなかった。彼はシエラに向かって忌々しげに吐き捨てる。
「エレノアはしつこく俺に手紙を送ってきたがな……。そんなもので父親の自覚が沸くとでも思っていたのか。
生きたかったら役立てと、そう言ったはずだ。真実を知るエレノアはずっと監視されていたのだからな」
何故母は自分が死んだ後もかかさずシエラに火をつけるように教えたのか。
―――― それは、その仕事自体が娘の命を繋いでいたからだ。
『誰かが気づいてくれるように』
母は、ずっとそれを願っていたのだろう。ヤジムが父として娘に温情をかけにくることを。
或いは灯る火に気づいた誰かが来て娘を解放してくれることを。
シエラは何も知らなかった。知らぬまま、火を灯し続けた。
一人でそれを為し続けた四年間は一体何の為にあったのか。自分は誰を利していたのか。―――― 果たして母の人生に幸福はあったのか。
焼けた鉄のように熱くどろどろしたものが精神の底に蠢く。
いまだかつて経験したことのない痺れが頭の中を支配した。
シエラは床についた手で自分の服の裾を探る。
世界の何もかもがバラバラに砕け散って、自分の手の中には破片一つさえ残ってくれないような気がした。
流動する溶岩に似た激情。
だが、それらが形となって吹き出す前にヤジムは彼女の腕を掴んで引き摺り上げた。短剣を抜くと彼女の首に突きつける。
娘に向けるものでは決してない凄みを帯びた目を、シエラは最早冷え切った目で見返した。
「お前にはあの男への人質になってもらう。あの男さえいなければまだ逆転は可能だからな」
「…………嫌よ」
「何だと?」
「嫌よ! 人質になんてならない! あなたの言いなりにはならない!」
「貴様!」
ヤジムは短剣を振り上げた。慌ててもう一人の男がそれを止めようとする。シエラは自分の服の裾を捲り上げた。足にくくりつけてあった短剣を抜き取る。
彼女はそれを、自分に向かって短剣を振り下ろそうとする父に向けた。
時が、随分ゆっくり流れているような気がする。
全身がひどく熱い。或いは寒いのだろうか。頭の中が真っ白で何も考えられない。
ただ胸を焼きつくす何かがある。
それだけが彼女を突き動かす。
―――― これが、殺意というものなのだろうか。
シエラは腕ごと短剣を突き出す。それを、仲間を跳ね除けたヤジムの剣が受けた。男の力は少女の手から難なく短剣を跳ね落とす。
ヤジムは切っ先を真っ直ぐ娘の喉に突きつけ、低い声で凄んだ。
「これが最後だ、シエラ。俺の言うことを聞け」
「あんたなんて父親じゃない!!」
衝動のままに叫んで、シエラはヤジムを睨む。
目は閉じない。このままここで死ぬのだとしても。
最後まで抗う。
人間を当然のように踏みにじるこの男には負けない。
彼女は自分にむかってくる剣の切っ先を、男の目を、憎悪を込めて見つめた。
そこに後悔はない。
きっと、これでも間違っていない。
自分の命が今終わっても…………ルイスは必ず勝ってくれるのだから。
真っ暗になった視界に、シエラは喘いだ。
これが死なのかと一瞬思った。
けれど、すぐにそれが勘違いであることに彼女は気づく。
後ろから伸びてきて彼女の目を覆った手。耳元で穏やかな声が囁く。
「見なくていいです」
「ルイス……っ!」
―――― 風が吹く。
何かが周りで荒れ狂う。
それは、彼女の中に渦巻く憎悪も、屋敷の中に停滞していた欺瞞をも押し流し、一気に弾けた。
男たちの喉につまった悲鳴が聞こえる。どこかで硝子が割れる音がした。
シエラは暗闇の中、傾ぐ平衡感覚に吐き気を覚える。
そして、男の声が「少し眠りなさい」と呟いた時、彼女の意識は今度こそ本当に闇の中に落ちて行ったのだった。
もしまだ、これから先の時間が許されているのだとしたら。
どこに行こうかと彼女は考える。屋敷を出てどこで暮らそうか。
隣の町に出ようか。あそこならば少しだけだが顔見知りの人間もいる。穏やかにこれからの生活を作っていくことができるだろう。
それは容易に想像できる未来だ。きっと一番現実的な選択。
だけどもし、許されるのなら。
彼女はファルサスに行ってみたかった。母が生まれたかもしれない国。彼のいる国。
そこで何が待っているかは分からない。どんな暮らしになるのかも。
けれど、出来れば彼を見ることができる場所に行きたい。―――― 時々でいいからあの闇色の目を見たい。
何もかもを持っていて恵まれているはずの彼は、たまにひどく淋しそうな目をする。
それはなくなってしまったものを惜しむような、手に入らないものを恋うような目だ。
あの目を見てしまうと、何だか放っておけないなと思ってしまうのだ。もっとちゃんと笑ってくれればいいのにと思う。
だから、たまにでいいから確認したい。彼はきっと幸せなのだと安心したい。
それが何故かは分からない。けれど、彼が幸せでいてくれるのなら多分、彼女も嬉しくなれるような、そんな気がするのだ。
目が覚めた時、シエラは自分がどこにいるのか分からなかった。
清潔だが味気のない部屋は見覚えのないものである。
彼女は上体を起こすとゆっくりと辺りを見回した。部屋には他に誰もいない。窓からは立ち並ぶ白い建物が見えた。
「…………どこ、ここ」
「あ、気づかれました?」
まるでどこかで彼女が目を覚ますのを見張っていたのではないかというくらいの間で扉が開かれる。
そこに立っていた金髪の女はシエラを見てにっこりと笑った。美しい顔立ちは同性でも思わず見惚れてしまうくらい魅力的なものである。
女は持っていた盆を寝台脇のテーブルに置くと、水差しから水を汲んでシエラに差し出した。彼女は礼を言ってそれを受け取る。
「あの、ここってどこですか? 私は一体……」
「ここはニスレと言って、ファルサスの港町ですわ。ファルサスではあなたの住まわれていた屋敷から一番近い町になります。
申し訳ありませんが、あなたの屋敷は現在事後調査中でして。その間こちらで不自由はさせませんし、何ならこの町に新しい屋敷を用意させて頂きますわ」
「事後調査…」
ゆっくりと記憶が戻ってくる。
母のこと、父のこと、そしてルイスのこと。
シエラは混乱する頭を軽く振って女を見上げた。
「あの後どうなったか、知っていますか?」
女は少し困ったような笑顔を見せた。だがシエラがこう尋ねることは予想の範囲内だったのだろう。近くの椅子に座ると教えてくれる。
「あなたの父上は処罰により……正確には叛意ありとみなされたということでその場で処刑されています。
父上が属していた組織も、こちらは私が指揮を取っておりましたが取引先ともども壊滅しました。
誘拐された者たちは今なお捜索が続いておりますが、生存が確認され居場所がつかめ次第、もとの場所に戻されています」
「…………そう、ですか」
全ては終わったのだと、それが分かってシエラは深い溜息をついた。
父が死んだということに悲しみは覚えない。ただ少し空虚なだけで……けれどそれは、一過性のものなのではないかと彼女は思っていた。
父によってこれからも誰かの無念が積み重ねられていくよりよほどいいはずだ。
だがそうは思っても今は少しだけ、やるせなさを飲み込まざるを得ないのは仕方ないだろう。それは彼女が背負わなければならないものだ。
シエラはライラと名乗った女を見返す。
少し躊躇って、だが結局一番聞きたかったかもしれないことを口にした。
「ルイスは……?」
「ルイス様は城に戻られております。あなたに最大限の便宜を図るようにと仰せつかっておりますわ」
「もう会えない?」
言ってしまってからシエラは、自分が何を言ったのかと気づいて愕然とした。がっかりした気持ちがそのままぽつりと言葉になってしまったのだ。
相手は王族だ。会えなくて当然だろう。彼女は慌てて顔の前で手を振ると今の発言を取り消そうとする。
けれどライラは軽く首を傾げて楽しそうに笑った。白い手がシエラに向って差し伸べられる。
「会われたいですか? ならばご案内いたします」
それも「便宜」のうちでしょう? と彼女は悪戯っぽく微笑む。
その笑顔はどこか含みを感じさせる、不可解なものだった。
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