mudan tensai genkin desu -yuki
愛想がいいとは到底言えないが、優しい人間なのだろうと思っていた。
少なくとも彼女には優しくしてくれたのだろう。シエラは今でもそれを否定する気はない。
ただ、彼女に優しかったのは彼女が無知な少女であったがゆえのことなら、本当は彼は、冷酷な人間なのかもしれない。
―――― 数十人を何の躊躇いもなく殺したという話が、本当であるのなら。
ルイスが転移を使って灯明台の上に出た時、そこには既に誰の姿も見えなかった。
ただ煌々と輝く火が残されているだけである。
彼は少し迷ったが、軽く手を振って火を消した。火が消えたと分かればシエラが外に出てくるかもしれないと思ったからだ。
けれど、そのまま何分待っても彼女が様子を見に出てくる気配はない。
精霊の「誰かが彼女を殺してしまったのでは」という言葉を思い出し、彼は一瞬で心が冷水に浸されるような錯覚を覚えた。
短距離を転移して玄関の前に立つ。
「もう来ないで」とはまず間違いなく「顔も見たくない」という意味だ。
だから火がついていたからと言って彼女を訪ねれば、おそらく不愉快な顔をされてしまうだろう。それは少し嫌だった。
けれど嫌だからという曖昧な理由でこれを放置して、後でもっと不味いことになっては困る。
せめて彼女に変わりがないかだけでも確認していくべきだろうと思い、ルイスは溜息を飲み込んで扉を叩いた。
「はい」
無視されるのではないかと思った。だが、扉はあっけなくもすぐに開かれた。
そこには昨日と同じ、愛らしい少女が立って彼を見上げている。料理の途中だったのか、両腕で抱えている壷には酒か何かが湛えられているようだった。
怪我があるわけでも具合が悪いようでもない彼女の様子に、ルイスは安心して緊張を解く。
「すみません。火が見えたもので気になって」
言ってから彼は、「まさかずっと監視していたのか」と批難されるのではないかと思ったが、シエラはこくりと頷いただけである。
どことなく虚ろな彼女の様子にルイスは訝しさを感じて身を屈めた。
「どうかしましたか?」
「……何も」
シエラはまるで何かを探すかのように視線を彷徨わせながら首だけで振り返った。
何を探しているのか、ルイスが尋ねる前に彼女は再び彼を見上げる。その瞳の中に読みきれない揺らぎを見て取って彼は眉を寄せた。
「大丈夫ですか? シエラ」
「あなたは……」
「はい?」
囁く声を聞き取る為にルイスは顔を近づける。けれどその時、「あっ」という少女の声と共に彼は冷たい感触を覚えた。
見ると服の前面がびっしょりと赤い。シエラが持っていた壷が傾いて、中に入っていた酒が零れてしまったのだ。床にも紅い液体が滴り広がりつつある。
シエラは慌てて壷を床に置くと、ルイスの服を掴んだ。
「ごめんなさい! 染みになっちゃう」
「別に構いませんけど」
「すぐに洗えば落ちるから……。脱いでもらっていい?」
「と、言われても」
魔法着を着ている彼は、服の上下が繋がっている。これを脱ぐということは全部脱がなければならないということであるし、彼女しか住んでいないこの屋敷には代わりに着ら
れるようなものなどないだろう。どこからか取り出した白い布で、染み込んだ酒を拭おうとしているシエラの頭に彼は手を置くと、苦笑しながら軽く叩いた。
「気にしないでください。すぐに帰れますから」
「ま、待って……ちゃんと落とすから! あの、匂いがついてたら困るから、お風呂に入ってて! その間に洗っておくから」
「風呂ですか? いくらなんでも女性の屋敷で入浴するのは失礼だと思うのですが」
「平気だから……。お願い」
ルイスは闇色の目を細める。少女の表情は見えない。彼女は顔を上げないままだ。
ややあって彼は「分かりました」と答えると床に置かれたままの壷を拾い上げる。
まだ半分以上中身が残っている酒壷を覗き込むと、そこには訝しげな表情をした端整な男の顔が映っていたのだ。
自分が他人を見る目が厳しいらしい、という自覚を彼は早くから持っていた。
絶対的な味方である家族の中で過ごした幼少期において、彼は両親だけではなく姉兄からも守られ愛されて育てられてきた。
だがひとたびそこから抜け出て見ると、ほとんど好意的と言っていい城の中でさえ、時たま他人からの視線に違和感を覚えることがあったのだ。
その理由が自分の母親にあるのだとルイスが気づいたのは六歳の時だ。
四百年を越える歳月を生き、圧倒的な力を以って人々に恐怖を抱かせていた青い月の魔女。
王妃となっても彼女のその過去が消えるわけではない。
臣下の中にも心の奥底で彼女を恐れる人間は少なくはなかったし、それは彼女の血と精霊を継いだルイスに対しても同じことだった。
無条件に他人を信用することは出来ない。本来アカーシアを継ぐファルサスと、強大な魔法士は相容れぬものであったのだから。
そのことを知ったルイスは慎重に人を見るようになった。相手が信用に足る人格なのか、子供のうちから無意識のうちに見極めようと用心した。
偏見の目を圧倒的な力と自信で一蹴する姉とは違う。
彼は自分の立場が複雑であることを早々に理解していた。
正室の子である男子。充分王位に手が届く立場だ。むしろ何故、彼が王位を継がないのかと思う人間もいるだろう。
しかしルイスは自分が王位を望んだことは一度もない。それは魔法士である彼ではなく、アカーシアの主人となる兄のものなのだ。
兄は、よい王たる素質を持っている。
優しく真っ直ぐに弟に接してくる兄は、やがては人を信じ、人に信じられ、強い決断力と意志を持った国王となるだろう。
彼こそが三人の中でもっとも王にふさわしい人間だ。
だからルイスは、最初から兄の片腕を望んだ。その為に勉強を重ね、周囲に自分の立場と意志を明らかにした。
他国の人間を知るようになってからは、彼の鋭さは加速度的に増していくことになる。
ファルサスに生まれた強力な魔法士。最強たる魔女の息子。人々は彼を恐れ、警戒した。
彼は自然と他人への評価を厳しくせざるを得なかった。
相手の性格と能力を見極め、いかに有効に、そして想定の範囲から裏切らせないように使うかを考えるようになった。
信用を置く相手を昔から知るごく少数の人間たちに留め、あとは冷徹に采配を揮った。
―――― 結果として月日が立ち、家族や臣下たち、そして幼馴染がそれぞれの道へと旅立てば旅立つほど、彼の周囲は孤独になっていくことになる。
けれど、そのことに疑問や不満を覚えたことはない。
初めからそれが、彼の選んだ道だったのだから。
染み抜きをするから、というシエラに魔法着を渡して浴槽に入ったルイスは、お湯に浸かりながら水を操って馬の像を作っていた。
よく子供の頃、母にこうやって色々な水細工を作るところを見せてもらったのだ。
精巧な馬の像はまるでガラスのように透明な輝きを放っているが、長持ちさせることはできない。彼は馬を水の中に押し込んでもとの水に戻した。今度は鳥の像を作る。
シエラに見せたら喜ぶだろうか、と彼はぼんやり考えた。魔法を封じ込めた水晶を贈った時、彼女は本当に嬉しそうな顔をしてくれたのだから。
彼女は素直で一生懸命な娘だ。一人きりの生活において苦を苦としない芯も持っている。
けれど何よりも伝わってくるのは、彼女が亡くなった母親を愛しており、強く人との繋がりを求めているということであった。
自分の母親の話をする時、そして彼から家族の話を聞く時、シエラの瞳は澄んで温かく、焦がれるような光を帯びる。
その目を見ていたルイスは、彼女がこんな場所で一人で暮らすことに疑問を感じざるを得なかった。
水で出来た小さな白鳥は、彼の詠唱と共にゆっくりと羽を広げると空中に飛び立つ。
けれどそれは浴槽の上から離れる前に形を失って崩れ落ちた。
ルイスは濡れた髪を後ろでまとめなおしながら、扉に向って声をかける。
「入ってくるといい」
先程から誰かが扉の向こうに立っている気配がしていたのだ。だが相手は一向に踏み込んで来ようとはしない。
いい加減待つのも面倒になって、彼が存在に気づいていることを明確に示してやると、扉はようやくゆっくりと外側に開いた。
入り込む外気に湯気が晴れる。
ルイスはそこに立っている人間を見て、さすがに一瞬虚を突かれた。
「―――― あなたですか」
問いかけを受けて少女は頷く。
肉付きの足りない裸身を隠すように体の前で白い布の塊を抱えたシエラは、まるで翼を折られた小鳥のように頼りなげな印象を彼にもたらした。
戸惑いが隠せない両眼はまばたきをすれば涙が零れ落ちてしまうのではないかと思えるくらい潤んでいる。
そのまま永遠に硬直しているのではないかと思う程、彼女の顔色は蒼白であったが、やがて意を決したのか躊躇いがちに浴室の中に入ってくると扉を閉めた。
濡れた石床の上に立つ細い足が震えているのに気づいてルイスは眉を顰める。
「シエラ。あなたは……」
「待って。聞きたいことがあるの」
少女の口調は語尾こそ震えがあったものの、意外にもはっきりしたものであった。彼は一拍の間を置いて頷く。そこに紛れもなく彼女自身の意志を感じたからだ。
「何故……あなたはこの屋敷に火が灯るのを嫌うの? 少し前に前の海で人死にが出たって聞いたけど、何があったの?
あなたは…………何をしにここに来ているの?」
二人の視線が空中でぶつかりあう。
どちらも揺るぐ気がない意を孕んだ沈黙。
それを打ち破ったのは―――― 問いを投げかけられたルイスの方であった。
彼は額を滑り落ちる水滴を手で拭うと口を開く。
「僕がここ一ヶ月間着手してきたのは、ある組織への制裁です。国をいくつか股にかけた人身売買の……。
奴らはどうやら何十年もの間、人をさらっては他国に売りさばくことを繰り返していたようです。
今回、それがファルサスでも動いていることを知り、内密のうちに摘発と処罰にあたりました」
「じ、人身売買?」
「ええ。調査の末、やつらが取引の拠点にしているのは、この前の海……暗礁が多く普段は船が立ち入らない海上であることが分かりました。
やつらは取引相手に港を出てからの方角を示し、『岬に火が灯っている場所の前』を目印として落ち合っていたのです。
ですから僕は先週、そこを取り押さえると共に、誰が火を灯しているのか調べに来ました。
やつらは船に乗っていた人間が全員ではなかった。陸の隠れ家があるらしく、そこが火の灯っているこの場所ではないかと思ったからです」
ようやく明らかにした真実。それが彼女にとっては残酷なものであるとルイスは知っている。
けれどこうして問われた以上、教えないわけにはいかなかった。彼女のかすれかけた呟きが落ちる。
「…………でも、私は何も知らなかった……」
「そうですね。言葉は悪いですが、あなたは利用されていただけだった」
ルイスは言葉を切ってシエラを見つめる。
再び立ち込め始めた湯気の中、少女はひどく傷ついたような悲しげな目で、彼を見ていた。
彼が追っていたのは犯罪の組織だったと聞いた時、シエラは自分が「ああ、やっぱり」と思ったことに気づいてしまった。
やはり、そういう理由だったのだ。彼は譲れない理由があって彼女の前に現れた。自国の民を攫って他国に売ろうとしていた人間に制裁を与える為に。
初めて会った父も、その仲間たちも悲しいことだが真っ当な人間には到底見えない。
彼らとルイス、どちらに理があるのか直感で選べと強いられたら、彼女はこの事実を知る前でもきっとルイスを選んだだろう。
だがそれでもきちんと彼の口から理由を聞きたかった。だから父の命令をシエラは受け入れたのだ。
ヤジムは彼女を大事な娘と言いながらも、彼女を使ってルイスの油断を誘うように計った。
「火をつける理由をお前が知らないのに通ってきていたのは、お前が気に入っていたからだ」としつこいくらい主張し、彼女を贄のように彼の前に押しやったのだ。
しかし、改めて彼の前に立ってみれば、明らかに父とは格が違う。
裸の彼女を見ても少し顔を顰めただけでまったく動じていない彼が、お世辞にも自分のことを気に入っているとはシエラには思えなかった。
けれどだからこそ冷静に話をすることが出来る。彼女はかろうじて体を隠す布を抱きしめながら更に問うた。
「船を沈めたって本当? 人を殺したの?」
「殺しました。見せしめの意味も込めて。僕は他人の生命を食い物に不当に私腹を肥やす輩を野放しにするつもりはありません」
男の闇色の目は、一切の容赦を含まない深淵そのものだ。
それは、罪に罰を返す力、感情を差し挟まない因果である。
見つめれば飲まれそうな闇に見据えられ、シエラは立ち尽くす。自分を守るためにきつく腕を体に寄せる程、その中に潜む鉄が疼いて存在を主張した。
彼女は一歩後ずさる。遠くなった男の目が、一瞬孤独を帯びて伏せられた。
―――― それだけで、魂が震えた。
垣間見えた感情。
読み解きたかった思い。
それを今、見せるのは何故なのか。
何かが全身を走っていく。
自らの思いによってその場に釘付けられたシエラは、喘ぐように空気を飲み込むと、もう一度はじめと同じことを問うた。
「……何故、火を消させたの? 火が灯っていれば、逃がした人間をおびき寄せられたかもしれないのに」
湯船に浸かる男は、それを聞いて少しだけ苦笑したようだった。
自嘲するが如く唇の端を上げる。
「それではあなたが危険です。だからもう……あなたは自由になりなさい」
彼は両目を閉じた。
天井についた水滴が石床に落ち、かすかな音を立てる。
シエラはもう後ずさらない。ただ食い入るようにルイスを見つめた。
引き寄せられるかのように足が前へと出る。
そして彼が気づいた時、シエラは浴槽の傍に両膝をついて―――― 驚く男の双眸を真摯な目で見返していたのだった。
ルイスは浴槽の中から手を伸ばすと少女の髪を撫でた。小さな頭を抱き寄せ、その耳に囁く。
「何人いますか?」
「……六人」
「人質か何かを取られていますか? 誰があなたをここに寄越しました?」
「人質はいない……。だけど、父がいるの。今日初めて会った。けど、母の手紙を持ってた」
「分かりました」
シエラはきつく自分を抱いていた手を緩める。そこから短剣が零れ落ち、高い音を響かせた。しかしルイスはそれには構わず彼女の頭を軽く叩く。
「少しむこうを向いていてください。服を着ますから」
「え、でも、あなたの服は……」
ここにはないのに、と言おうとしたシエラは、男が立ち上がろうとするのに気づいて慌てて顔を背けた。
背後からかすかに服を着る衣擦れの音がする。そう言えば自分もあられもない格好をしているのだと彼女が思い出した時、肩に大きな白い布がかけられた。
どこからそんなも
のが現れたのかと疑問に思う前に、シエラは急いで布を体に巻きつける。
「ではここで待っていなさい。あとは僕がかたをつけます」
それは、船を沈めたように父を含めた男たちに対して制裁を揮うということだろうか。彼女は一瞬前の恥ずかしさも忘れ、咄嗟に男を振り返った。
そして息を飲む。
―――― そこに立っていたのは、紛れもなく王族の男だった。
威圧漂う長身に魔法着を纏い、抜き身の長剣を佩いている。美しい顔立ちに印象的な鋭い目は、人を引きつけ従える力があった。
シエラは濡れて冷えた床に座り込んだまま呆然と男を見上げる。
ヤジムから聞いていた彼の本当の素性を、初めて実感を以って目の当たりにしたのだ。
何を言おうとしたのかもう思い出せない。ただ彼の纏う迫力に圧されてシエラは溜息を嚥下する。
―――― 生きる世界が違う。
そう思った時、彼女は不思議なほど胸が痛くなって、両手を握り締めた。
後には何の言葉も続けることはできない。ただ初めての喪失を予感して、彼女は涙を堪えた。
少女の様子に気づいたルイスは苦笑すると彼女をそっと抱き上げた。初めて出会った時のように足から床に下ろしてくれる。
これではほとんど子供扱いだ。だが、今はその優しさも嬉しかった。
顔をあからめて反射的に礼を言おうとしたシエラは…………けれど口を開きかけたまま硬直した。
彼女を下ろしてそのまま剥き出しになっている肩に口付けた男は、至近で彼女の視線を受け止めると、ばつが悪そうな顔になる。
「ここで、とは言いましたが服を着ておいてくれた方がいいですね。さすがにその格好でいられては気になって仕方ありません。
……もう誰の前でもこういうことはしないように」
ルイスはそれだけ言って浴室を出て行く。
姿勢のよいその後姿を見送ったシエラは、折角立たせてもらったにもかかわらず、力が抜けてもう一度床の上にへたりこんでしまったのだった。
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