mudan tensai genkin desu -yuki
ライラの手を取ってからはあまりの慌しさに記憶までもがこんがらがってしまった気がした。
シエラはまず入浴し、髪を梳かされ服を何着か着せ替えられた。
まるで人形のようにああでもないこうでもないと高そうなドレスを着せられ、ようやく決まったと思ったら装飾品の選定や髪の結い上げ、化粧をされる。
ルイスに会いたいと言っただけでこんなにも支度をせねばならないものなのだろうか。全てが終わった時、シエラはぐったりと疲弊していた。
だがそれら疲労も大きな鏡の前に立たされた時、一瞬でどうでもよく感じられる。
そこにいたのは、まったくの別人に近い少女だった。
癖のあった髪を綺麗に纏め上げ、澄んだ水色のドレスに身を包んだ彼女はまるで貴族の令嬢のように見えた。
シエラは背後に立つライラに何か感想を言いかけて、だが上手く言葉にならずそれを飲み込む。
「お綺麗でしょう? あなたのような方は磨き甲斐がありますわ」
「あ、あの…………ありがとう、ございます」
「礼は結構です。単に私が楽しくてしたことですから」
「はい?」
シエラが振り返ると、女は実に楽しそうに笑っている。邪気のない笑顔は何を言われても毒気を抜かれてしまうような気がした。
「あ、ちなみにルイス様は女性の外見を誉めることにかけては、もう致命的にあさっての方向の方ですから。
何を言われても受け流してくださいね」
「………………」
何それ、と言ったくなったが、シエラは何とかこの言葉も飲み込んだ。
代わりに「宮廷の方はみなこういう格好をされているんですか?」と尋ねる。
しかし返ってきた返事は
「いいえ。私の趣味です」
というきっぱりしたもので……。
結局やっぱり脱力してへたりこみたい気分に、シエラはなったのだった。
ライラは宮仕えの魔法士なのだと言う。彼女はシエラの支度を済ませてしまうと、ニスレの町に設置されている転移陣へと少女をいざなった。
初めて見る大きくにぎやかな町に気を取られながら、シエラは隣を行く女に尋ねる。
「いいんですか? 私を連れて行っても」
「構いませんわ。ルイス様がどのようなお顔をされるかと思うと楽しみで仕方ありません」
「…………」
何だか不安が大きくなってきたのは気のせいだろうか。どんな目にあうのか逆に怖くて仕方ない。
だが今更帰りたいとも言えず、そしてルイスに会いたいのは確かであったので、彼女はそのままライラに連れられていくことを選んだ。
「ライラさんは、ルイス……殿下のことをよくご存知なんですか?」
「私は……そうですね。両親に連れられて幼い頃から城に出入りしておりましたので。こういった言い方が許されるのなら幼馴染というものでしょうか」
「幼馴染」
それはシエラにはいない存在だ。幼馴染という言葉は知っていてもどのような関係なのか具体的に想像ができない。
それ以上にルイスに子供の頃があったということが想像できず、彼女は首を捻った。
「殿下はどんな子供だったんですか?」
「ほんの小さい頃は可愛らしい方でしたよ。女の子みたいで」
色々と考えさせられる言葉だ。少なくともシエラにとってルイスは綺麗な顔をしているが女性らしく見えることはない。
だが「小さい頃は」と条件があるのだから、成長と共にそうは見えなくなったということなのだろう。
「可愛い頃もちょっと見てみたかったな」と呟くとライラはころころと笑った。
「ルイス様の子供時代はそう長くはありませんでしたから。すぐにああなられてしまいました」
「長くなかった?」
「ええ。ご姉弟で一番下というなら甘やかされて育つことが多いのかもしれませんが、あの方はそれをよしとされなかったのですよ。
上のお二人と同じ扱いを早々に要求されましたし、その為の勉強を始められました。
難しいお立場の方ですし、あの方なりにお考えがおありだったのでしょう。私などは少し勿体無いような気もしますが」
「子供でなくなったことが? ですか?」
「ええ。あの方はそれが許されていたのですよ。だけど結局は、甘え下手な方になってしまわれましたね」
分かるような分からないような話だ。
シエラは屋敷で話していたルイスの姿とライラの話をつきあわせようと記憶を手繰る。
いつも平然としていた彼。何を考えているのかは分からない。あまり感情を見せようとしない。
それでもたまに見せる苦笑は優しげなものだった。家族について話す時は穏やかな目をしていた。
子供時代を遥か昔に置き去りにしてきた彼は、本当はそのことを淋しいと思っているのだろうか。
彼がファルサスの前王と魔女の間の息子というなら、既に両親ともに亡くしているはずだ。
もう戻らない家族との時を、彼は惜しんでいるのだろうか。
シエラは穴だらけでちっとも分からない男の話を、けれどもっと知りたいと思う。
それは彼に会いたいと思うことと理由を同じくしているのかもしれなかった。
転移陣を使った先は既にファルサスの城内であった。
簡単な身体検査を受けて廊下に出たシエラは長く壮麗な廊下に圧倒され、自分が場違いな人間であることを強く意識せざるを得なかった。
魔法着を着て前を行くライラは格好こそシエラの服装より簡略だが、よほど堂々としてこの場にふさわしい人間だ。
時折すれ違う人間たちがシエラに不思議そうな視線を送ってくる度、気まずさはいや増していく。
一生懸命前を向いていた彼女がさすがに気疲れして項垂れそうになってしまった時、だがライラは足を止めると振り返った。
「こちらにどうぞ」
と言って目の前にあった扉を開ける。
シエラは中にルイスがいるのかと思い、緊張して足を踏み入れたが、広い豪奢な部屋には誰の姿も見えなかった。
奥にはまだ部屋があるのか扉が見える。とすると、ここは来客用の広間だろうか。彼女は椅子を勧められて腰掛けた。
「少しお待ち頂いてよろしいですか? ルイス様はまだ執務をされてますので」
「あ、はい。勿論」
約束もなく押しかけてきたのは自分の方なのだ。待つことに異論はない。
ライラは女官を呼んでお茶を用意してくれると、自分も仕事があるからと言って出て行った。一人きりになったシエラは感嘆の溜息と共に部屋を見回す。
「すごい部屋……」
調度品の一つ一つが洗練されている。高い天井には複雑な装飾が施されており、その一つ一つを目で追っているだけで日が暮れてしまいそうだ。
シエラは立ち上がると壁際に置かれていた飾り戸棚の硝子越しに中を覗き込む。
そこには陶器の小さな彫像が幾つも並んでおり、特に表情豊かな女の子の像に彼女の目はひきつけられた。
「すごいな」
世界の違いを目の当たりにしてそれ以上の言葉が出てこない。
彼女はかぶりを振ってもとの場所に戻ると、ドレスに沈み込むように腰掛けなおしたのだった。
色々あったり、度重なる着替えなどで体が疲れていたに違いない。
シエラは彼を待っている間に、いつの間にかうとうとと浅い眠りの中に吸い込まれてしまっていた。
そこから引き戻されたのは、扉を開ける音が夢うつつの中で聞こえたからだ。
シエラは数秒おいてその音を認識すると慌てて飛び起きた。扉を開けたまま固まっている男と目が合う。
整いきった秀麗な顔に闇色の瞳。今は驚きに見開かれているその双眸に、懐かしささえ覚えてシエラは息を飲んだ。
男は穴があきそうな程彼女を凝視して、ようやく口を開く。
「どうしてあなたがここに」
「え? あれ?」
連絡が行き違いでもしたのだろうか。シエラは咄嗟に立ち上がろうとして、けれど派手な音と共に椅子を倒してしまった。自分がドレスを着ていたことを忘れていたのだ。
「ご、ごめんなさい」
再会するなりとんだ失態だ。
彼女はドレスの裾に構わずしゃがみこむと、急いで椅子を戻そうとする。だがその時溜息と共に後ろから男の手が伸びてきて彼女の代わりに椅子を立たせた。
振り返るとルイスは彼女のすぐ後ろに立っている。男の表情に微かな気まずさを見出して、シエラは急激に気分が落ち込んでいくのを感じた。
彼にとってはもう終わったことなのだろう。なのにこんなところまで会いにきて迷惑以外の何ものでもないに違いない。いたたまれなさを感じて彼女は俯いた。
ルイスは元通りになった椅子とシエラを見比べると前と変わらぬ目で苦笑をする。
「あなたは本当にそそっかしいですね」
「……こういうの着慣れなくて。ごめんなさい」
「可愛らしいですよ。キノコみたいです」
「キノコ?」
それは一体どういう意味なのだろう。遠回しに似合っていないと言われているのだろうか。
謎の感想を聞いて頭の中には疑問符が飛び交ったが、ライラの言葉を思い出してシエラはそれを聞き流すことにした。
ルイスは当然のようにしゃがみこんだままの彼女に手を差し出してくる。彼女は自分も手を伸ばしかけて、しかしそこで止まってしまった。
―――― 果たしてこの手をとってもいいのだろうか。
もう一度会いたいと思ったからここまで来た。
けれど実際目の当たりにしたのは彼の住む世界の遠さである。
生まれた時からこの城で暮らすことが当然だった男だ。本来ならこれ程近くで話をすることさえ出来なかった。
それが可能になったのは彼女の父親が罪人だったからで…………それを思い出すと苦いものしかこみ上げてこなかった。
シエラは上げかけた手を下ろす。自分にはとても彼の手を取る資格はないと思ったのだ。
礼だけ言ってもう帰ろう。これ以上彼を困らせたくない。目を伏せたシエラがそう思った時、だが頭上から沈んだ男の声が降ってきた。
「やはり怒っていますか?」
「え?」
「……あなたの父親を殺したことを。恨んでいるのでしょう?」
シエラは弾かれたように顔を上げる。
そんなことは思っていなかった。むしろ彼には感謝と謝罪を言わなければと思っていたのだ。
父は許されるべき人間ではない。それは悲しいことだが本当のことである。
そして、そんな父の死を悲しめないという引け目は、彼女自身の問題なのだ。
それらは彼には関係ないことで、ましてや父のことで恨んでなどいるはずもない。
彼女は何の混じり気もない透き通る目でルイスを見つめる。
視界の中に在るのは闇色の双眸を持つ男で―――― その瞳の中に揺らぐ翳が何であるのか分かった時、シエラはただ真っ直ぐ彼に向って両手を差し伸べていたのだった。
「恨んでない」
それだけ言うのが精一杯だった。
シエラはすぐ下にある男の顔を見下ろす。
ルイスは両手を伸ばした彼女に少し驚いたようだったが、その手に応えて少女の細い体を子供にするように抱き上げたのだ。
長い裾のドレスに気をつけながらそっと彼女を下ろそうとしていた彼は、それを聞いて彼女に視線を戻す。飲み込みきれない戸惑いが彼の眉を顰めさせた。
「気を使う必要はないですよ。僕は自分に絶対の正義があるとは思っていませんし、それをあなたに押し付ける気もありません」
「違う。本当に恨んでないの。怒ってもないのよ。あなたはすべきことをしただけだから……」
一瞬が数年に勝ることもある。
思いを表すことが何よりも力を持つことも。
何を言いたいのか、何を言うのか、実際に口から出てしまうまでは少しも分からない。
シエラは気を抜けば散り散りになってしまいそうな言葉を一つずつ手繰り寄せ、繋げていく。
「私は、あなたに助けてもらった。あなたが火に気づいてくれた。だから私、ありがとうって言いたいの。
癇癪ばかり起こしてごめんなさい。でも私は本当は……」
零れ落ちていく言葉を彼は笑わない。聞き流さない。じっと彼女を見つめながら聞いている。
そしてその確かさにシエラは支えられるのだ。聞いてくれるからこそ言葉に出来る。
「本当は、嬉しかった。嬉しかったの。―――― 会いに来てくれてありがとう。守ってくれてありがとう。
それが言いたくて、私、あなたに会いに来たの」
後で恥ずかしさに死んでしまってもいい。
ただ今が二度とない時ならば、伝えたいことは全て伝えたかった。
シエラは両手を伸ばして彼の顔に触れる。
大切なものを包み込むように抱いて、闇色の瞳を見つめた。
「だから、そんな顔をしないで」
淋しそうな目をしないで。
笑っていて。
何も怖くない。
遠ざかったりはしない。
「私、あなたが好きだわ」
だから ―――― この思いを全てあなたに。
シエラは目を閉じる。両腕を男の首に回し、頬を寄せて抱きしめた。
そうして温度と共に感情が伝わってくれるのなら、彼に届くのなら、目に見えない孤独も少しだけ薄らぐのではないかと願いながら。
彼女の体を抱き上げる腕に力がこもったと感じられたのは一瞬だった。
シエラはゆっくりと腕を解き、男を見つめる。
彼はいつかのように泣きたくなるほど穏やかな目で彼女を見ていた。溜息にならない長い吐息がどちらからともなく零れ落ちる。
「シエラ、あなたはとても温かい」
「私……が?」
「ええ。それにそそっかしいし、見ていてはらはらします。一人で何でも頑張ろうとしているし、強情で怒りっぽい」
「………………」
確かに今まで彼にはろくなところを見せていないが、それにしてもひどい言われようである。
自覚がある短所を列挙されてシエラはまさに「怒り出し」そうになっていた。
「嬉しいと素直に笑って、礼を言うところが可愛らしい。怒られ泣かれるととても困る」
―――― けなされているのか誉められているのか分からない。
一体どんな顔をすればいいのか、シエラはルイスの言葉だけを待って沈黙した。
「あなたといると楽しい。あなたは人の繋がりの貴さをよく知っている。
一緒にいられるとほっとして…………あなたがいつも傍にいてくれたならと、思います」
それはまるで求婚の言葉のようで。シエラは自分が聞いた事が信じられずに目を瞬かせた。
本気で言っているのだろうか。それとも他意のない感想なのか。
彼女は確かに近くにある彼の瞳をじっと覗き込む。
そこに揶揄は見られない。ただ囚われそうなほど真摯な熱があるだけだ。
だが…………笑っていて欲しいと何よりも願う男の目は、やはり何処か翳を根付かせたもので、ルイスは淋しそうに微笑すると壊れ物を扱うかのように少女の体をそっと床に下
ろした。シエラは離れてしまった彼の両眼を見上げる。
「ルイス……?」
「どこにでも、好きな場所にあなたの為の屋敷を用意しましょう。僕にできることはそれくらいしかない」
「わ、私が平民だから?」
身分違いだからそんなことを言うのだろうか。それとも傍に置くほどに好きなわけではないからなのか。
シエラは聞き返しながらも、理性とは裏腹にこみ上げてくる涙に唇を噛んだ。
泣きたくないのに視界が滲む。
喉に熱いものがつかえて上手く息が出来ない。
どうしてこれ程までに胸の痛みを覚えるのだろう。
最初からこの恋はかなわないものだと分かっていたはずなのに。
ルイスは彼女の表情に気づいて途端に困ったような顔になると、綺麗に結われた髪の上を軽く叩く。
大きな手を少女の頬に添え、零れ落ちた涙を拭った。
「あなたのせいではありません。僕の方に原因があるんですよ」
「……ルイスに?」
「ええ。僕の魔力……二人の魔女の血を継いだ僕の力は、両親の予想に反して男としては前例のない程大きなものだったんです。
同じ両親から生まれた姉は、自分が女性ですから子を産む事が出来る。
ですが、僕の子を産める女性は魔法士であろうとなかろうと存在しないんです。子供が持つであろう力が強すぎて、体が耐え切れない。
―――― でも、あなたは家族が欲しいのでしょう?」
ルイスは妻を娶ったとしても子を産ませることができない。身篭らせてしまえばその女性は死んでしまうから。
だから、姉や兄が自分の家族を持つようになっても、彼は独り身のままなのだ。それは彼自身とっくに承知のことなのだろう。
彼の真実を聞いたシエラはゆっくりとまばたきをする。
少し考えて―――― だが答など最初から決まっている―――― 頬に触れられた男の手に、自分の手を重ねた。
「私が子供を欲しがったから?」
「僕があなたを妻にするということは、あなたに子供を諦めさせるということです。
他の男のもとに嫁げばあなたは理想通りの家族を得られるかもしれない。その可能性を奪う権利は僕にはありません」
「私は、ずっと母と二人だけで暮らしてきたのに」
「ですから余計に。あなたは家族に恵まれるべきです」
「子供がいなくたって、二人だけだって、家族は家族じゃない」
男の目が丸くなる。
そのことに少し爽快感を覚えて、シエラは微笑んだ。
彼は簡単なことが分かっていない。
甘え方を知らないのだ。
それだけが全てではないと、とっくに彼女は思っているのに。
「断るなら私に原因がある時だけにして。そそっかしいとか怒りっぽいとか子供だとか可愛くないとか、そういうことを理由にしてよ。
私はあなたがいてくれたら嬉しい。それでもう…………充分嬉しいから」
だから、と少女は答を預ける。
だから応えて欲しい。
どんな結末を選ぶとしても、後悔を残さないように。
彼女にとって彼は特別だ。それは彼の外見のせいでも身分の為でもなく、彼が彼自身であるがゆえに。
それ以上の理由はない。だから彼も、彼女自身を理由として決めて欲しい。
シエラは深く息を吸い込む。こんな心地のよい緊張は初めてだ。早鐘のような鼓動が全身に伝っていく。
これで終わっても構わない。
今、自分は不思議なほどに気分がよいのだから。
ルイスは少し頼りなさをうかがわせる、けれどひたむきさが溢れる少女の姿をじっと見つめる。
何から返すべきか、その答が出る前に少女の額に口付けた。
驚いて頬を赤らめる彼女に向かって、彼は愁いのない目で微笑む。
「誤解があるようですので訂正しておきますが……あなたはとても可愛いらしいです」
「……キノコは可愛くないから」
「ならば花のように」
たとえ、二人の血がこれから先継がれないのだとしても、それは幸福を否定するものではないと知っている。
人の温かさを貴べるのなら、寄り添って生きる時間が全てを支えるだろう。
闇の中に灯り続けた火のように、想いあうことが彼らの生を照らす。
そこに無上の価値を見出して、人は安らぎの夜を迎えるのだ。
男は愛しい少女の唇に口付ける。
それだけで真っ赤になった彼女は、自分の頬を両手で押さえると「こんなのまるで御伽噺みたいね」と照れたように笑ったのだった。
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