闇火 05

mudan tensai genkin desu -yuki

気がついた時は既に朝になっていた。
シエラは顔を上げると窓から差し込む光を目を細めて見やる。
いつの間にか泣きながら眠ってしまっていたらしい。頭は痛いし瞼はひどく重かった。皺だらけになってしまった服を彼女は見下ろす。
あらためて思い返せば昨日は何故あれ程までに腹を立て、当り散らしてしまったのか分からない。
ルイスは何も間違ったことは言っていなかった。ただ彼と彼女とは立場が違うというだけの話だ。
それを一人で勝手に何かを期待して、期待がはずれたらカッとなってしまった。まるで子供の癇癪だ。恥ずかしいことこの上ない。
シエラは起きたばかりだというのに疲れている心身を鑑みて項垂れる。
今となっては、まるで全ての苛立ちが涙と共に流れ出てしまったかのように、彼女の中には何も残っていなかった。
シエラは水仕事や薪を扱うせいで固く荒れた自分の手に目を落とす。
―――― 空っぽな中身。昨日までそこにつまっていたのは、一体何だったのであろうか。

のろのろと起き上がると、シエラは家の奥にある浴室に向かい、浴槽にお湯を溜め始める。
この屋敷は地下から天然の温水を引いているのだ。おそらくはかなり大掛かりな仕組みになっているのだろうとは思うのだが、シエラはそれを詳しくは知らない。
そう言えば母はこの屋敷を建てたのか買ったのか、どちらなのだろう。
それ程古びた建物ではないのだが、母が建てたのではないとしたら誰がこんな辺鄙な場所に建物を建てたのか、彼女は今更ながらに不思議に思った。
だがそうは思っても答を得る術はもはやない。シエラは服を脱いで浅く溜めたお湯の中に入る。
そうして微温湯の中に浸かっていると、体と一緒に心も少しだけ温められる気がした。

今日からはもう火を灯さなくていいのだ。
そのことを思い出したのは浴槽の中、顔を洗っていた時だ。
あの時は半ば自棄になって叫んだことだが、改めて意識するとシエラは虚脱するほど気の抜ける思いがした。
ずっと一人で背負っていた重荷が下りた。そしてそれは、下ろして初めてひどく重いものだったと彼女は気づいたのだ。
誰かが気づいてくれるように火を灯していたというのなら、もう必要ない。
彼が来てくれたのだから。
それがたった一週間のことでも、目的は果たされた。
もうこの屋敷に留まり続ける必要もないのかもしれない。どこか町へ出て、働きながら穏やかに暮らして……そうしていつか夫を得て子供を生む。
その想像は不思議なほどすんなりと、そして現実的なものとしてシエラの中に入り込んだ。
けれど、そこに胸が弾むような期待はない。徐々に冷えていくお湯のように薄寒さがあるだけだ。
浴室を出て自室に戻ったシエラは、テーブルの上に置かれた宝石箱を開ける。
そこには母がくれたいくつかの装飾品と共に、手の平に乗るほどの水晶球が入っていた。
そっと持ち上げて見ると水晶球はひんやりと冷たい。けれど、変わらず中で光る金の火花は、泣きたくなるほど美しかった。

日が落ちるまではとても長く感じられた。
シエラは沈んでいく夕日に照らされる灯明台を窓越しに見やる。
あそこで彼と出会った事がもうずっと前のことに思われた。一体あれは何だったのだろう。
代わり映えのしない彼女の人生に訪れた転換点だったのだろうか。そしてあっという間に過ぎ去ってしまった?
シエラはぼんやりとしてかぶりを振る。―――― 屋敷の扉が乱暴に叩かれたのは、その直後のことだった。
「……誰?」
ルイスが来たのだとは思わなかった。彼は一度だってあんな風に粗野な音を立てて訪ねてきたりはしなかったのだから。
仕草の一つ一つに気品が染み付いている男だった。だからこそシエラは彼ではない誰かの訪れにぞっとして……だが、結局は一向にやまない音に席を立った。
玄関の扉の前に立ち、扉越しにおそるおそる外へと声を掛ける。
「どなたですか」
「俺だ、シエラ。お前の父親だ」
「は?」
あまりに信じられない男の声に、少女は愕然と立ち尽くす。
遅すぎた父の訪問。それはシエラに強い困惑をもたらし、収まりかけた事態をより一層迷走させるものとなったのだ。

迷いながらもシエラが扉を開いたのは、父親だと言う男が母の名前や容姿をはじめ、シエラが子供の時のことなど他に誰も知るはずのない話を言い当てたからである。
母から送られてきた手紙も持っていると言われて、彼女は躊躇いながらも鍵を開けた。
けれど開けた瞬間、彼女はその判断を後悔する。
それは父だという男がごろつきのように荒れた格好をしていたせいではなく、他に五人の男が立っているのに気づいたためだった。
反射的にシエラは扉を閉めかける。しかし、それは素早く入り込んできた男のせいで叶わなかった。
男は黄色い歯をむき出しにして笑いかけてくる。
「初めましてか? シエラ。エレノアによく似ているな」
「あ、あなたが本当に……」
「そうだ。お前の父だ。ヤジムという」
差し出された封書を受け取るとシエラは中を開いた。その間に他の男たちも屋敷の中に入り込んでくる。しかし彼らの好奇の視線も薄汚れた格好も気にならず彼女は中を読み 漁った。それは紛れもなく亡くなった母の筆跡で―――― まだほんの子供だった頃のシエラの成長について、夫である男に報告する手紙だった。
シエラは何度も何度もその手紙を読み返す。幼い彼女が家の手伝いをしようとしてくれたこと、よく話す言葉、笑い声。
それらを綴る文字の端々に母の慈しみが見て取れた。今はもう会えない母の……。
皺だらけでがさがさの紙の上に涙が零れ落ちる。シエラは慌てて涙を拭き取って手紙を元通り封筒にいれなおすと、宝物のようにそっと胸に抱いた。
「これで信じてくれたか?」
「う、うん」
「ならとりあえず、飯を用意してくれ。俺も仲間たちも疲れているんだ」
父の言葉に弾かれてシエラは顔を上げる。苛立ちのこもる疲れ果てた目と視線があった。
そこにあったのは温かい愛情に満ちていた過去ではなく、状況の分からぬ現実で。
彼女は自分を眺める何人かの男を見回して―――― 得体の知れない恐怖にぞっと背筋が凍るのを止められなかったのだ。

いつか父と会えるとしたら、その時は感動の再会になるのだろうかと、月並みな期待は持っていた。
けれど実際会ってみれば、ヤジムは大してシエラに興味があるようには見えない。
食事を出した時は「美味い」と誉めてくれたものの、それ以外ではほとんど話しかけてこようとはしなかった。
彼女はしかし、それを残念に思うよりも、父と一緒に来た五人の男たちが、とかくじろじろと自分を見てくることが嫌で仕方ない。
せめてヤジムがそれだけでも仲間を諌めてくれれば、シエラは父にとって自分はちゃんと「娘」であると思えただろう。
けれど彼は仲間たちの下卑た視線には構わず、何かの書類を見ては彼女に聞こえないようにこそこそと話し合っているだけだ。
―――― 食事の後片付けが終わったら、さっさと自分の部屋に戻って鍵をかけた方がいい。
そう思って居間を立ち去りかけたシエラはだが、厳しい声で名前を呼ばれて振り返った。見るとヤジムが険しい顔で彼女を睨んでいる。
「何?」
「かがり火はどうした。つけるのを忘れるな」
「あ……」
そう言えば火はついていない。けれどそれはつけるのを忘れているのではなく、つけないだけなのだ。シエラは躊躇いがちに抗弁した。
「あれはもうつけないの……」
「何でだ? エレノアはいつもつけろと言ったろう」
「や、約束したから」
「誰とだ!」
シエラは打ち据えるような怒鳴り声に身をすくめた。
何故かは分からないが父は本気で怒っている。答を誤れば、即殴られそうな気配に彼女は後ずさった。
男の一人が彼女に向かって近づいてくる。下品な笑いを浮かべながら伸ばされる手に、シエラは助けを求めるように口を開いた。
「ル、ルイスと」
「―――― 何だと?」
彼女を捕らえようとしていた男の手が止まる。
その場にいた全員の表情が凍りついた。
シエラは意味も分からず辺りを見回す。
けれどその彼女もまた、次の瞬間ヤジムが聞き返した
「ファルサスの宰相か?」
という言葉に凍りつくことになったのである。

「宰相……? ルイスが?」
「どんな男だ! 黒髪のやたら綺麗な顔をした男か?」
「そ、そう」
勢いに押されてシエラが頷くと男たちの間に緊張が走る。重苦しい沈黙。ややあってヤジムは深い溜息と共に頷いた。
「間違いない。ファルサスの宰相……魔女の息子で現王の弟だ」
「魔女の息子?」
強大な力を持ち大陸に長く君臨していた女たち。その中でも最強と言われる一人を先代ファルサス王が王妃として迎え入れたことはシエラも知っていた。
だが、その彼女の息子がまさか自分の目の前に現れるなどとは想像したこともなかったのだ。
シエラの感嘆に何故ルイスが笑ったのか。それは彼が本当に数年前まで王子であったからで―――― そのことを知らない彼女が可笑しかったからなのだろう。
育ちのよさが染み付いた男の所作を思い出す。真実を知ってみれば、彼は確かに自分とは住む世界の違う人間なのだと実感を以って理解することができた。
「どんな約束をした?」
物思いに耽りかけたシエラを現実に引き戻したのは、彼女のすぐ傍にいた男の詰問である。
彼女は憎しみに駆られた男の顔に恐怖を覚え、はたして本当のことを言うべきかどうか躊躇った。
この様子では父たちとルイスはまず間違いなく敵対していると考えていいだろう。だが、どちらが正しくてどちらが誤っているのか彼女には分からない。
シエラは父の答を促す無言の圧力を受けて口を開く。約束については嘘をついてもすぐにばれてしまうのだから、本当のことを言うしかなかった。
「火を灯されると困るから……つけないなら、もう来ないって」
「……そうか」
安堵が男たちの中に生まれ、険しさが消える。シエラは一変した空気に自分もまたほっと息をついた。
このままでは何だか彼女まで八つ当たりを受けて酷い目にあいそうな気さえしていたのだ。男たちの気が緩んだ隙にシエラは一歩扉に近づく。
―――― もしかして逆のことを言えばよかったのかもしれない。火をつけなければルイスが来ると。
彼女はそんなことを考えながらもう一歩後ずさった。
そうすれば彼を恐れる父たちは火をつけ…………ルイスが来て自分は助かったかもしれない。
後ろに回した手が扉の引き手に触れる。シエラはそれをぎゅっと掴んだ。
―――― 何故そんなことを思うのか。今初めて会った父でも、父親は父親だ。何故、肉親から逃れる必要があるのか。
むしろ最初から得体が知れなかったのはルイスの方だ。彼は何かの目的があってここを訪れていた。それは父と関係することなのか。
扉に体重を預け、押し開こうとしていたシエラはけれど、何かを考え込んでいたらしき父にもう一度名前を呼ばれて飛び上がった。
慌てて手を離し何でもないように見せかける。
「何?」
「火がしばらく消えていたのは奴のせいか。一昨日は何故つけた?」
「ルイスが、来なかったから……」
「それまではずっと来ていたのか?」
「毎日……っていっても、ほんの何日かだけど」
たったそれだけの間でしかない。
だからもう彼は、シエラのことを忘れてしまっているのだろう。
ファルサスのように大国の宮廷にならば、きっと美しい女が沢山いる。彼は王族なのだ。いずれ身分のある女性を娶って幸せに暮らすのだろう。
―――― 胸が痛む。
まるで刺さっていたことを忘れていた棘がうずきはじめたかのようだ。
もう会うこともない彼のことを思うだけで、何故悲しくなるのか。彼の方は何とも思っていないのは確実であろうに。
割り切れない感情に少女は深く俯いた。そこに父親の声がかかる。
「シエラ。火をつければ奴は来るんだな」
「た、多分……。分からないけど」
それは彼との約束を破るということだ。「火はつけないからもう来ないで」と当り散らしたあれを約束といえるのなら。
少女は居心地の悪さに眉を寄せる。彼にあれほどの醜態を見せてしまったという記憶が甦り、男たちへの恐怖を少しだけ忘れさせた。
娘の答を聞いた父は頷くと顎で窓の外を指し示す。
「なら、火をつけて来い。シエラ」
「ヤジム!?」
「正気か、お前……!」
「見つからないようにここまで苦労して来たってのに!」
「いいから黙ってろ、お前ら!」
ヤジムは仲間たちを一喝すると立ち上がった。扉の前で竦んだままのシエラの前にゆっくりとやってくる。
彼は身を屈めて怯えた顔をしている娘に目線を合わせると、初めて優しげな笑顔を見せた。
「シエラ、お前は俺の大事な娘だ。だから……俺の為に動いてくれないか?
 お前を訪ねてきていたファルサスの男、あの男はとんでもない冷酷な奴だ。
 ファルサス商人の商売敵になるからと言って俺たちを襲い、船を沈めて何十人も殺した」
「―――― え?」
何を言われたのか分からずシエラは目を瞠る。そんな娘の頬に手を添え、ヤジムはゆっくりと続けた。
「未だに俺たちは追われている。見つかれば俺たちも殺されてしまうだろう。
 だが、逃げるばかりは御免だ。仲間の仇も討ちたい。…………手伝ってくれるな? シエラ」
幼子に言い聞かせるように父の言葉は彼女の中に染みこんで行く。
それは混乱するシエラに眩暈をもたらし、夢の中にいるような非現実感をもたらした。
やがて何度も「大事な娘」と言われた彼女は、何もかもよく分からないまま父に向って頷き…………そして火を灯す為に重い足を引き摺って屋敷を出て行ったのである。

夜の海を船が彷徨うように動いている。
それは、月明かりだけを頼りにして迷いながら同じところをうろうろしているように見えた。
遥か上空からその様を見下ろしていたルイスは、冷ややかな視線を下方の甲板に向って注ぐ。隣の精霊が小さな笑い声を立てていた。
「ここで沈めちゃいますか?」
「ああ。地図をもとに陸側の隠れ家も見つかったようだ。中は既に無人だったらしいが……。
 奴らはそのうちライラの方に捕まるだろう。こちらはこれで終わりだ」
「すっきりさっぱりですね。なら派手にいきましょうか」
ミラが詠唱を始める。それを他人事のように聞きながら船を見下ろしていた彼はしかし、視界の隅で何かが変わったことに気づいて視線を転じた。
遥か遠くに影のように見える陸。そこに煌々と火が灯っている。
それは暗い世界の中ささやかながらもはっきりと存在を主張しており、海上に漂う船もその明かりを見つけたのか、彼らの真下で針路を変えようとし始めた。
ルイスはただ驚いてかがり火に見入る。その事実を先に口にしたのはミラの方だ。
「あれ、火ついてますね」
「……ついているな」
「何ででしょう。あの娘、怒っているんでしょうか、怒っていないんでしょうか。それとももう見ていないだろうから火つけちゃえってことなんでしょうか」
「分からない」
「あとはあの子は殺されちゃって誰か別の人間が火をつけているとか?」
無責任に可能性を列挙する精霊の言葉にルイスの眉が上がる。彼は遠くに見える火から目を逸らさぬまま彼女に命じた。
「少し見てくる。船は任せる」
「かしこまりましたー」
命令が受諾されると同時に、彼は何もない空中を蹴る。魔力を集中させ、その場から転移した。
主人の姿が消えると一人になったミラは肩をすくめる。
次の刹那、彼女の手の一振りと共に、火に向って進み始めていた船は巨大な水飛沫を上げて破壊されたのであった。