闇火 04

mudan tensai genkin desu -yuki

シエラがじっと彼を見上げていると、ルイスは自分の髪から水滴が落ちていることに気づいたのか煩わしげにかき上げた。
黒い髪は濡れて艶が増しており、彼女は触ってみたいなと思ったが口には出さない。彼は店の中に避難されている荷物の積まれた台車を一瞥した。
「まだ何か買うものはありますか?」
「あ……な、ない」
「なら帰りましょう」
男の手が差し出される。大きな手は濡れているようには見えない。
緊張しながらシエラが彼の手を取ると、その肌は意外にも固く無骨な手触りだった。
ルイスは空いた手で台車を引こうとするが、身長からいって屈まなければ届かない。彼女は慌てて自分でそれを引いた。彼は苦笑すると何かを口の中で唱え始める。
次の瞬間、店の中には水鏡を垂直に立てかけたかのように仄白く歪む「門」が現れていた。
男は何の躊躇もなく少女の手を引いたままそこに向って一歩を踏み込む。シエラは咄嗟に呆然としたままの店主を振り返った。
「あ、ありがとう」
相手が答えたかどうかシエラには見えなかった。ただ強く手を引かれ数歩駆け込むと―――― そこはもう、彼女の屋敷の玄関の中だったのである。

「嘘……」
「ああ、すみません。普段は外に出るのですが雨だったので」
「そうじゃなくて……。何で屋敷にいるの?」
あまりのことに気を抜かれたシエラがぽつりと問うと、ルイスは何故そんなことを聞かれるのか分からないというように首を傾げる。
「何でと言われても。転移を使っただけですが」
「魔法?」
「魔法」
答が得られた後もシエラはすぐには動けなかった。屋敷をぐるりと見回し、また彼を見上げる。
確かに初めて出会った時、彼は突然彼女の目の前に現れたのだ。今までのことも隣国から普通に通っていたのだったらこんな辺鄙な場所に毎日来るのは大変だったろう。
ただそ れでも自分の身でそれを体験したということには明らかな衝撃があった。シエラはちゃんと引いてきている台車を見下ろす。
―――― その時彼女は濡れている床に気づいた。慌てて水気を含んだルイスの服を掴む。
「乾かさないと! 風邪引いちゃう!」
「ああ……。自分で乾かします」
声に苦味が混じっているのをシエラは怪訝に思ったが、彼の表情はいつもと変わらず平然としている。
彼女は戸惑いながらもとりあえず髪を拭くものを走って取りに行くと、それを彼に渡した。次に熱いお茶を用意し始める。
淹れたてのお茶を持っていくと、彼は居間で何もないテーブルの上をぼんやりと眺めていた。これだけの短時間にどうやって乾かしたのか既に髪も服も元通りである。
シエラは自分が幻を見ていたのではないかと疑ったくらいだが、テーブルの隅に畳まれて置かれている白い綿織物は彼女が先ほど渡したものだった。
闇色の瞳が彼女を捉える。途端なんだか居心地の悪さにシエラは目を逸らした。カップをそそくさと彼の前に置くと、二個間を開けて自分も椅子に座る。
「今日は早かったのね」
「昨日来れなかったので。こちらに先に来たら不在で驚きました」
「週に一度は買い出しに行くから」
「そうですね。言われてみれば、という感じです。何故今まで思い当たらなかったのか」
「何が?」
「あなたが家のことを全て一人でやっているということがです」
彼はお茶のカップを口に運ぶ。その声はやはり間違いなく苦いものだった。

シエラは彼が何を考えているのか分からなかった。彼女が一人暮らしだということをルイスは当然知っている。それを今更何故そんな風に言うのか。
ルイスは雨の降っている外に視線を送る。そこには岬と灯明台、ずっと向こうの灰色の海しか見えていなかった。
「いつもどれくらいかかるんですか? 全て買って帰るまで」
「え? ええと……四時間か、五時間くらい」
大体は朝出かけて昼過ぎまでかかってしまう。今日は雨宿りをしていたから更に時間が過ぎていた。
雨は少し小降りになってきたのか窓ガラスにつく水滴も小さくなってきている。
「あれだけの荷物を持って帰ってくるのは大変でしょう」
「慣れてるし……。薪とかはさすがに届けてもらうから」
薪は町から月に一度、直接灯明台に届けてもらっている。それさえも自分で買いだしていたのならさすがに大変だっただろう。
ルイスは窓から視線を戻すとシエラを見つめた。
「あなたは何かやりたいことはないんですか? 将来の希望とか」
「しょ、将来の希望?」
突然大仰な質問をされて彼女はのけぞりそうになった。今日の彼は何かおかしい。彼女が家にいなかったことがそれ程問題なのだろうか。
やりたいことと言われても咄嗟に思いつかない。シエラはそれでも彼に聞かれたのだからと悩んで悩んで、ようやく一つの答らしきものに突き当たった。
「家族が……欲しいかも」
それは母を失って以来、本当は父がいないことに気づいたもっと昔から、彼女が抱いていた望みだった。
家族が欲しい。家の中にいつも穏やかな空気が満ちているような、自分以外の誰かの存在を感じられるような、そんな暮らしがしたい。
富んでなくて構わない。不便な毎日でいい。
代わり映えのしない生活でも、それを分かち合える人が傍にいてくれれば、幸せを感じられるのではないかと思っていたのだ。
消え入るような声でシエラが答えると、ルイスは片眉を軽く上げた。真面目な顔をしていると威圧のようなものを帯びるのは彼の整った顔立ちのせいだけではない。
男はカップに映る自分の顔を冷ややかな目で見据えた。
「それは、夫や子供を得て暮らしたいということですか?」
「え? そうなの、かな」
シエラは戸惑う。今まで家族の中で自分の位置とは「子供」でしかなかったのだ。それが今度は「妻」となり「母親」となりたいのかと言われると意表を突かれた思いだった 。だが、年齢的に言えばそろそろそういうものなのかもしれない。もはや父も母も望めない以上、一番可能性が高い家族は将来の夫であり子供であろう。
「……そうかも」
肯定してしまうと何だか自分がひどく恥ずかしいことを言ってしまった気がする。少なくとも何か別の理由があって訪ねてきている男に言うようなことではない。
シエラは頬を赤らめて俯いた。気まずくてルイスの目が見られなかったのだ。
どうせ呆れ声が返って来るのであろう、そう思っていた彼女の耳に飛び込んできたのはだが、予想外に冷たい水のような声だった。
「なら、町に引っ越してはどうですか? あなたがここにこもっている間に、将来の夫は町のどこかを歩いているかもしれない。
 週に一度だけ重い荷物を買いに行くより余程確実でしょう?」

その言葉を聞いた瞬間、シエラは部屋中の空気がなくなってしまったかのような息苦しさに捕らわれた。
胸の中が痛い。まるで冷え切った鉄が流し込まれたみたいだ。
顔を上げてルイスを見ると、彼は彫像のように美しく感情のない目で彼女を見ている。
その目に、そう言えば初対面の時にも町に移ることを勧められたのだと、シエラは他人事のように思い出した。
初めから彼は、シエラが火を灯す習慣をやめることを望んでいたのだ。そしてその為にこの場所を去ることを。
たった一週間だ。こんな短い時間で最初の思惑が変わるはずもない。変わりかけてしまったのは彼女の方だけで――――
「……嫌よ。私は嫌だって言ったじゃない」
「あなたの言うことは矛盾していますよ。ここにいても家族を得られる可能性は高くない。ないものねだりのようなものです」
カップは既に空になっている。ルイスは音をさせずにテーブルにそれを戻した。しかし、次の瞬間カップはテーブルを激しく叩く音と共に跳ね上がる。
「あなたが自分の為にそう言ってるんでしょ! ここに何かがあって! 私にいられると困るから!」
「―――― 何故、そう思うんです?」
もはや彼女の頭の中は怒りと混乱で真っ白になっていた。何故自分がこんなに怒っているのかさえよく分からない。
テーブルを叩いたままの手が小刻みに震えており、それに気づくと余計に屈辱と苛立ちが頭の中に沸き起こった。
シエラは立ち上がると盆の下に敷きこんであった紙を取り出し男に向かって投げつける。母の鏡台で見つけた屋敷の地図だ。
本当に彼に見せて何の為に隠されていたのか聞こうと思っていた。しかし今やその気は微塵もなくなっていた。
ルイスは顔に当たる直前で紙を受け止めると手の中で開く。彼はそれを見て顔を顰めた。
「どこでこれを……」
「どこだっていいでしょ! 私の屋敷なんだから!」
誰かが気づいてくれるかもしれないから、と母は火を灯していた。シエラは母の思いを継いで火を灯し続けた。
けれど、火に気づいてようやく来た男は彼女を傷つけるだけで…………惨めな思いをさせられただけだ。
シエラはきつく目を閉じる。
彼の顔を見たくなかったし、それ以上に涙を見せたくなかった。
「私が火をつけているのが気に入らないんでしょ! なら喜んでよ! もうつけないから!」
もう充分だ。いくら自分が平凡な小娘だからと言って、矜持もあれば感情もあるのだ。これ以上は辱められたくない。
シエラは口に中を軽く噛む。その痛みに支えられて目を開けた。眉を寄せている男を力を込めて睨む。
「だから、もう来なくていい。どっか行ってよ!」
子供のような捨て台詞を叫んで、シエラは身を翻した。そのまま居間を出て自分の部屋に駆け込み、寝台に顔を伏せて泣きだす。
もっと大人で、強くあれたのなら、本当は彼を出て行かせてから泣いただろう。こんな風に自分から逃げ出してしまうことはしないはずだ。
そうは思ってもシエラにはこれが限界だった。彼の言葉をこれ以上一言も聞きたくはなかったのだ。謝罪であれ別れの言葉であれ。
小さな嗚咽が部屋の中にひっそりと響く。何故こんなにも悲しく腹立たしいのか理由も分からぬまま、彼女はずっと泣き続けたのだった。

「…………泣かれた」
「あったりまえですよ、ルイス様」
そのまま「さすが鈍感」とでも続きそうな陽気な声で精霊は返してくる。
本来人の感情の機微など分からないはずの魔族に「当たり前」と言われたせいか、自分でその理由が分からないせいか、ルイスは憮然とした表情になった。
合理的な提案をしたつもりなのだが、何故あれ程までに悲しそうな顔をさせてしまったのか。不機嫌というにはいささか愁いの漂う眉で彼は溜息をつく。
本当に彼は心配したのだ。屋敷を訪れて彼女が不在だと知った時、こんな雨の中どこにいるのかと驚いた。思わず雨避けを忘れて灯明台を見に行ってしまった程だ。
精霊に聞いて町に行ったとは分かったが、今度はその遠さに眉を曇らせた。
あんな少女が一人で遠くまで歩いて買い物に行って……それをもう四年も続けているのだ。
同い年の少女たちの中には家族の庇護の下、もっと苦労のない暮らしをしている娘たちも多いだろう。
なのにシエラはそれがまるで課せられた使命のように一人で何もかもを引き受け生活している。今はもういない母親の思いに囚われているようなものだ。
だからこそ本当に家族が欲しいのなら、彼女はこんな自分とだけ話しているのではなく、もっと別の環境を与えられてしかるべきだと思っただけなのだ。
だが結局はシエラはひどく傷ついた顔をして出て行ってしまった。「もう来ないで」と言われた。
彼女の瞳いっぱいに浮かんでいた涙を思い出すと気が沈む。ルイスは息を深く吸って―――― そのまま盛大に吐き出してしまった。
主人の後ろに浮いているミラはにやにや笑いを隠そうともしない。
「どうしますか? もう来るなって言われちゃいましたよね」
「……来るなって言われたら来れないだろ」
背後で精霊が吹き出す音がしたがルイスは振り返らない。何だか子供の頃に戻ってしまったような気分だ。
一人だけ年の離れた子供であった彼は、かつては姉や兄の遊びについていけず、母親の膝元にくるまることも少なくなかった。
仲間はずれにされていたわけではないが、体力のあまりなかった彼が上の二人といつでもどこでも一緒に行けたわけではないことは確かだ。
熱を出して寝込んでいた時、額に添えられた母の手の冷たさをよく覚えている。
『誰を追う必要もないから、貴方は貴方の出来ることをしなさい』と言われたのはその時だったろうか……。
今はもう彼はどこにでも行ける。何でも出来る。力を揮うことも知を巡らすことも。
なのに色んな事がままならなかった昔を思い出してしまったのは何故なのだろう。
椅子から立ち上がらぬまま黙している主人に、片腕たる精霊の笑いをかみ殺した声が聞こえた。
「なら殺してしまいましょうか。あの娘が気に入ったなら綺麗に剥製にできますよ?」
「…………意味のないことをするな」
「了解でっす。監視は解きますか?」
母から継いだ精霊はまるで主人を試すかのように問うてくる。
力で従えられる上位魔族は、時折こうやって主人の器を測ってくるのだ。自らの忠誠を捧ぐにふさわしい相手であるのかを。
ルイスは聞き慣れた声に感情を押し込むと立ち上がった。空になったカップを盆の上に戻し、投げつけられた紙を服の中にしまう。
「昨日は火を焚いていたか?」
「焚いてましたよ。真面目ですね、あの娘」
「地図はこの場所を示している。そこにまだいると思うか?」
「どうでしょう。馬鹿ならいるかもしれませんね。昨日は近くまで船が来ましたし。起死回生を狙っているかもしれませんよ」
「命だけ惜しんでいればいいものを」
その声は空気までも凍てつかせるような冷気が満ちていた。ミラが機嫌よく微笑む。
「惜しめば助けてやるんですか?」
「まさか。例外はなしだ」
ルイスはシエラが飛び出していった扉を見つめる。そこには誰もいない。彼女は戻ってこない。闇色の瞳に瞬間、喪失感が浮かんだ。
「―――― 奴らは昨日、火を見ていただろう?」
「確かに」
「ならば監視は海に。船を沈める」
精霊は床に下りると恭しく頭を垂れる。
そのまま何の前触れもなく二人の姿が部屋から消えると、後には静寂だけが残されたのだ。

小さな部屋には五人の男が閉じこもっていた。彼らの表情のどれもが忌々しさを堪えたものであり、薄汚れた険しいものである。
つい先日、彼らは追われ仲間の大半を失い、かろうじて逃げ出した面々だけでここに息を潜めることになったのだ。
取引相手やばらばらに逃げた他の仲間がどうなったのかは分からない。入ってくる情報は混乱の一途を辿っており、事態の深刻さを示すだけだった。
その時、扉が変則的な間隔で叩かれる。仲間の間で決めた合図だ。男の一人が立ち上がって鍵を開けた。
入ってきた男は仲間たちのすさんだ表情を見回して溜息をつく。
「まるで世界の終わりでも来るようだな」
「似たようなものだ。このままでは遅かれ早かれ追い詰められて捕まるのさ」
「ファルサスの冷血宰相は既にアゴスの船を沈めている。容赦する気がないのは明らかだ」
「だからファルサスで仕事をするのはやめようと言ったんだ」
「もう二十年だ! 今更やめられるか!」
感情のままの叫びが岩壁にあたって反響すると、六人の男たちはそろって口をつぐんだ。
気まずい沈黙の後、入ってきた男が口を開く。
「昨日、火が灯ったそうだ」
まるで水面に一石を投じるような言葉は男たちの間に波紋となって広がった。一人の男が腰を浮かせる。
「船はそれを見たか?」
「見たかもしれない」
「なら助けが来るということだ!」
途端に上がった歓声の中、しかし部屋の奥にいた一人の男だけは沈黙したままだ。隣にいた男が怪訝そうにそれを見やる。
「どうした、ヤジム。ついにここを出られるかもしれないんだぞ」
「罠かもしれない」
「罠?」
水を差された喜びの反感も相まって、ヤジムと呼ばれた男に視線が集中した。圧力を受けて彼はもっともらしく口を開く。
「ファルサスは俺たちを一網打尽にしたがっている。わざと助けに来させて居場所を掴もうとしているのかもしれない」
「だとしてもいつまでもここにはいられないだろう! 陸を移動するとしても町にも監視がいるんだぞ!」
「だから……場所を変えたらどうだ? 奴らの盲点の場所に。助けに来た船をそこから見張って、ファルサスの手が伸びないようなら船に移って逃げる。
 もしファルサスが船を拿捕するなら、その隙に陸路を逃げてこの辺りから離れればいい」
男たちは互いに顔を見合わせる。仲間の提案の吟味する空気が狭苦しい部屋に充満した。中の一人がヤジムに問う。
「それはありだと思うが……どこに移るつもりだ。盲点などあるか?」
「あるさ。一つだけ」
「町は無理だぞ」
「町じゃない。―――― 火が灯ったんだろう? 今までずっと消えていた火が。
 なら、ファルサスの立ち入りが済んであの屋敷には今、娘しかいないってことだ。何も知らぬまま火をつけるよう教えられた俺の娘がな。
 あそこからなら船もよく見える。料理を作らせることも出来るし、久しぶりに広い場所で眠れるぞ」
まるで煽るような言葉だ。
彼の声が岩壁に行き当たって跳ね返ると同時に、男たちの表情が変わっていく。
あがってこない反論にヤジムは賛同を得られたと判断すると、陰惨な笑顔を見せて頷いたのだった。