闇火 03

mudan tensai genkin desu -yuki

おかしな男が五度目にシエラの屋敷を訪ねてきた時、彼は玄関を入るなり彼女に「はい」と何かを差し出してきた。
「なに?」
「差し上げます」
彼女は小さな両手で受け取ったものをまじまじと眺める。
手の平の中にすっぽり入る程の水晶球。その中には前に見せてもらった小さな光球が入っていた。金に輝く火花が時折爆ぜて広がる。
刻々と変わるその様は宝石よりも遥かに神秘的だ。シエラは目を輝かせて水晶の中の光景に見入った。
「すごい……どうなってるの?」
「中に魔法陣を封じて核にしてあるんですよ。途中で切れたりはしないはずですが、こういうものは初めて作ったので。
 おかしくなったら直しますから教えてください」
「あ、ありがとう」
包み込むように握り締める水晶球はひんやりとしている。彼女が思わず笑顔になって礼を言うと、男はふっと柔らかい微笑みを見せた。
「どういたしまして」
初めて見る彼の表情はいつも通り優美で上品で、そして意外なほど穏やかなものだった。
シエラはその目に引き込まれて息を飲む。一拍の間をおいて自然と熱い溜息が零れた。
「あなたって王子様みたいね……」
それはお世辞でも何でもなく思ったままのことをつい口にしてしまっただけなのだが、聞いた瞬間彼は吹き出した。そのまま肩を震わせて笑い出す。
微笑以上に意外なその姿にシエラは目を丸くしたが、笑っているのが自分の発言のせいだと気づくと憮然としてしまった。
「……子供っぽい?」
「いえ……失礼しました」
「誉めたつもり、なんだけど」
「そうですね。ありがとうございます」
謝られてもなんだか釈然としないのは、男がまだ可笑しそうに笑っているせいだろう。シエラは眉を上げて「先行ってて」と言うと自分は台所へと向った。

まったく失礼な男だ。子供じみた発言だという自覚はあるが、あんなに笑わなくてもいいだろう。
それに―――― 御伽噺を読んで育った少女なら、きっと似たようなことを思うはずだ。
美しく上品な王子様。彼は見かけや所作だけなら間違いなくその印象にぴったりであるのだから。
「性格悪そうだけど」
ぽつりとつけくわえたのはささやかな意趣返しでもある。シエラは自分が言ったことに少しだけすっとするとお茶一式を乗せた盆を持った。
慎重に歩き出すとポケットに入れた水晶球の重みを感じる。初めて母親以外の人からもらたされた贈り物は、彼女にとって既に特別なものになっていた。
その煌きの美しさを思い出し、シエラは自然と顔を綻ばせる。
失礼なのは確かだ。得体が知れないのも事実。
けれど、それはそうであっても毎日のように訪ねてきてくれる彼はきっと……少しは優しいのだと、思っている。

「あなたは一人娘なんですか」
「うん。ずっとお母さん……母と、二人で暮らしてたから」
「母君のお名前は?」
「エレノア。家名なしのエレノア」
それだけで、母親の生家は平民なのだということが分かる。家名とは一種の称号であり、貴族や騎士など由緒ある家にしか存在しないものなのだ。
ただ名前だけではどこの国の出身者か判断するのは難しい。この大陸は全土で話し言葉が共通の為か、名前もまたどこの国でもよく見るものも多いからだ。
聞いてすぐ出身国が分かる名前の方が少数で、そういう名前がついている人間のうち八割以上がその土地に先祖代々住んでいる。
そしてエレノアという名もシエラの名もどこの国でもありそうな、一般的な女性名だった。
「あなたも一人っ子?」
シエラは七割の興味を以って問う。これまで少しずつ遠回しに探ってみたが、どうも彼にとって家族の話題は禁忌ではないらしい。
ならば自分について聞かれたことを切っ掛けに、同じことを聞き返してみようと思ったのだ。
実際どういう境遇で育てばこういう胡散臭い人間になるのか興味がある。
一人っ子で何か厳しい教育でも受けてきたのだろうかと予想していた彼女はしかし、「末っ子ですよ」という返事に虚を突かれた。
「末っ子? 上がいるの?」
「姉と兄が。兄は腹違いですが」
「え……あー、そ、そうなんだ」
「ああ。僕たちの間では腹違いは普通のことなので、気にしないでください」
ここに来てようやく少女の戸惑いに気づいたらしき男は苦笑した。
これまで何度か家族について遠回しに話題にされていたにもかかわらず、彼がシエラの困惑をまったく思いつかなかったというからには余程「普通のこと」なのだろ う。彼女は納得すると、安心して好奇心を満たすことにした。
「二人とも似ている?」
「あまり似てませんね。姉とは顔が似てますが。中身はそれほどでもありません」
「いくつ離れているの?」
「姉とは五歳。彼女は来年には三十歳ですね。兄とは四歳差です」
「お母さんはどんな人? お父さんは?」
「……あなたは質問がいっぱいですね」
男は笑ってそう言ったが、それは不快ではない笑みだった。むしろ質問攻めを楽しんでいるようにさえ見える。
シエラは少し照れくさくなって視線を逸らした。
「だって私ばっかり色々聞かれたから。答えたくないなら別にいいけど」
口にしてみれば何だか拗ねているような言葉になってしまって余計恥ずかしくなる。だからと言って訂正することも出来ず、シエラは口元を曲げた。
そもそも話題が見つからないのは彼が怪しく、どこか浮世離れしているところが原因の半分なのだから、これくらいは譲ってくれてもいいのではないかと思う。
いまだに彼女はなぜ、男が火を灯すのを止めようとしているのかさえ知らないのだ。
彼は楽しそうに横を向いた少女を見つめていたが、すぐに首を横に振った。「答えたくないわけではない」ということだろう。
「父は子供みたいな人でしたよ。能力はありますし、やることはそつがないんですが、何と言うか……無茶な人でしたね。よく母に怒られていました」
「無茶?」
「無茶苦茶というか」
なら結構彼は父親似ではないのだろうか、などと無茶苦茶に押しかけられている彼女は思ったが口には出さない。
父親を知らない彼女には、男が自分の父について語る時に見せる苦いような諦めたような表情の意味が知りたくて、彼の顔をじっと見つめた。
「仲がいい? どんな話をしたりするの?」
「仲は悪くはありませんでしたね。小さい時は内政や軍事や歴史などよく教えてもらいました。大きくなってからは文句しか言っていませんが」
「怒られていたの?」
「僕が! 文句を言っていたんです」
強調してそう言う男は何だか同い年の少年のように見える。シエラは堪えられずに笑い出した。
「……何ですか」
「だって、楽しそうだから」
彼女は口元を押さえて笑い続ける。彼は玄関での彼女のように憮然とした顔をしたが、小さく肩をすくめるといつもの平然とした顔に戻ってお茶を飲み始めた。

この日の彼は忙しいらしい。お茶を飲み終わると「母についてはまた今度」と言うと席を立った。
あっという間に一人になってしまったシエラは家中の戸締りをして回る。
何だか今日はひどく家の中が静かだ。笑い声がよく響いていたからだろうか。
シエラは窓の鍵を確認すると振り返る。暗い空き部屋は妙にがらんとして感じられた。
四年間この静寂こそが彼女の当たり前であったのだ。慣れていたはずだ。今更何とも思わない。
けれどそうは思ってみても、心細さが拭えない自分に気づいて彼女は肩を落とした。
火を灯させない為に彼は訪ねてくる。でもそれは「ずっと」なのだろうか。
いつか彼が来なくなるのだとしたら、それは何が切っ掛けになるのか。
シエラは一度は締めた鍵を開けると窓を押し開く。
暗い夜の中火のない灯明台は不気味な影となって月の下浮かび上がっていた。

城に戻ってすぐ彼の部屋の扉が叩かれる。それが誰だか分かっていたからルイスは苦笑した。
「入りなさい」
と返事をすると彼女は一礼をして中に入ってくる。魔法の光ではない壁にかけられた燭台が女の金髪を紅く照らし出した。
若く美しい女は扉の前に立ったまま用件を告げる。彼女は彼の私室に入室を許される数少ない人間のうちの一人なのだ。
「陛下が先ほどルイス様を探しておられました。タァイーリについて何か相談されたいとのことで」
「分かりました。後で向います」
「こちらの準備は整いました。今晩出ます」
「―――― 本当にあなたが行くのですか?」
苦い顔になってしまった男に彼女は笑って頭を下げた。それはもう譲る気がないということである。
長い付き合いからルイスはそんな彼女の性格をよく知っていた。知っていたからこそ行かせたくないというのもあるのだが。
「お任せください。三ヶ月以内には上々の首尾をお持ちします」
「気をつけなさい。怪我などしないように」
彼女を見る闇色の目は単なる臣下を見るものではない。彼としては珍しいことに躊躇いさえ見て取れる。
自分が大事にされていることをよく知っている女はもう一度深く頭を下げた。
「行ってまいります、ルイス様」
女は迷いない足取りで彼の部屋を出て行く。その潔さにルイスは溜息を一つついたが、私人としての顔は長続きはしなかった。
部屋に残された書類を手に取った時、彼の表情にはもはや僅かな感情も残っていなかったのだ。

母が死んだ時、遺品を整理したのはシエラだった。
よく買い物に行く店の主人に手伝ってもらい、清めた遺体を家の近くに埋葬した一週間後、彼女は放心からようやく逃れでて腰を上げたのだ。
衣裳箪笥を引き出し、中から母がよく着ていた服を取り出した時、懐かしい匂いに涙が止まらなくなったことを覚えている。
服は丁寧に箱につめて仕舞い、数少ない装飾品も整理した。
遺品の中に何か父に関して分かるものがあるのではないかとの期待も持っていたが、全てをしまい終わってもそれらしいものは一つも見つからなかった。
今の母の部屋には使われていない家具がそのまま残されているだけだ。広い部屋ではないのだが、時折掃除に入る度に妙に空虚な印象を受ける。
その日、週に一度の掃除に来ていたシエラは、ふと持っていた箒を壁に立てかけると小さな鏡台の前に座った。
鏡扉を開き、少し歪んだ鏡面を覗き込む。そこには平凡としか言いようのない少女の顔が映りこんでいた。
癖を持った髪が好きではない。鼻が少し低いところも。だが全体的に見れば決して見れない顔ではないだろう。母は「可愛い」と言ってくれていた。
シエラは手でおさまりきらない髪を撫でつけてみる。だが灰色の髪は彼女の意志に反してそれぞれがくるくるとはねたままだ。
彼女はむっとすると中に何も入っていないことも忘れ、櫛を取ろうと鏡台の引き出しに手をかけた。
「あれ」
何故か開かない。
鍵がかかるような引き出しではないし、当然かけた覚えもない。おまけに中は空っぽだということをシエラは思い出した。
中で何かが引っかかってでもいるのだろうか。彼女は怪訝な顔をしながらもう一度、今度は力いっぱい引き出しを引っ張る。
今度はガサガサという音と共に半分ほど外に引き出すことが出来た。全部出てこないのは何かがつかえているからだろうか。中を覗き込んだが薄暗くてよく分からない。
彼女は隙間から手を入れると奥を探ってみる。
「……何かある」
どうやらそれは畳まれた紙のようだ。破らないよう慎重にシエラは指で挟んで紙を引き寄せる。
苦心して取り出してみると、それは便箋よりも少し大きい黄ばんだ紙だった。糊か何かが塗られていたのか片面はがさついている。
これでおそらく鏡台の引き出しの上にでも貼りつけてあったのだろう。シエラは気をつけて紙を開いた。
「地図?」
右下に方位記号が書かれている紙はどうやら地図であっているようだ。
それも海際の地図らしく、緩やかにくねる陸地と、波の模様が描かれた海がそれぞれ半分ずつを占めている。
そして、陸地の中、海に突き出た岬部分には赤で小さな×が記されていた。
「宝の地図、なわけ……ないよね」
シエラは地図を見たまま立ち上がると部屋の中をぐるぐると歩き出す。
×が書かれている岬、その前の海には暗礁。
「…………え」
彼女は部屋にただ一つある窓の外を見る。
窓の外には灯明台が、更に向こうには輝ける海が。
母の鏡台に隠されていた地図に示されている場所とはまさに、この屋敷の場所のことなのだと気づいたシエラは、困惑の只中立ち尽くしたのだった。

その夜彼は訪ねて来なかった。
何の連絡もない、あまりにも突然止んだ訪問にシエラはとっぷりと日が暮れてからようやく気づいたくらいである。
用意していた茶器を前に彼女はのろのろと立ち上がると灯明台に向う。
少し前ならこの一時間前にはとっくに火を灯していたはずだ。なのにたった一週間足らず休んだだけで、四年間も続けていた習慣がひどく遠いものに思われた。
明るい火が照らし出す範囲はしかし、崖下の海までは届かない。
月だけが波を銀に照らし出す景色を眺めながら、彼女は強い孤独に苛まれ、溜息の海に溺れた。

翌日彼女は町へと出た。いつも通りの買出しはしかし、重い足取りの為か行きだけでいつもの二倍ほどの時間がかかってしまう。
数軒の店を回って必要なものを買った頃には彼女はすっかり疲れて、緩やかな上り坂となっている帰路につく気力が失せかけていた。
「シエラ、どうした? 具合が悪いのか?」
「そういうんじゃないんだけど……」
シエラは包装されたお茶を受け取ると苦笑する。具合が悪いわけではないのだ。ただ気だるいだけで。
屋敷に戻って今日もまた彼が来ないのならば、火を灯さなければならない。それのどこが億劫なのかと自分でも思うのだが、体だけはちっとも軽くならなかった。
「もうすぐ雨が降り出しそうだぞ。大丈夫か?」
「あ……そうだね。帰らないと」
このまま町にいて大降りにでもなったら仕方ない。
馴染みの店ならニ、三時間は雨宿りをさせてもらえるだろうが、いつまでもそうはしていられないのだ。
シエラは礼を言って外に出ようとする。だが扉を開けたまさにその時、のしかかってくるような灰色の空から大きな雨粒が一つ滴り、彼女の前髪を濡らした、
「ありゃ。降りだしちまったか」
みるみるうちに濡れていく石畳を店の奥から彼女の頭ごしに見やった主人は、「少し待ってりゃ止むかもしれないから雨宿りしてけばいい」と言う。
それは半分が馴染みの客である彼女への気遣いであり、もう半分は折角自分が売った商品を湿らせたくないという思いからだろう。
シエラは分かった上で主人の好意に甘えることにした。雨除けを借りればこのまま帰ることも出来るが、降り出した雨の中歩き出すほど気力がわかなかったのだ。
店の中へと戻った彼女は椅子に腰掛けると、出されたお茶に口をつける。自分が淹れたのではないお茶を飲むのはこの店に来た時くらいだった。
「ね、そう言えばこないだ言ってた事件はどうなったの?」
「事件? ああ、海での人死にのことか」
「そうそう。犯人捕まった?」
「犯人っていうかなぁ……。あれっきりみたいだぞ。何だか裏の方はざわついてるみたいだけどな」
「裏って?」
「そりゃまっとうじゃない奴らのことだよ。俺も噂を聞くだけだからよく知らんが」
まっとうじゃない人間を想像しようとしてシエラは首を捻る。
髪を全て剃り、顔には十字傷がある人相の悪い男がまず思い浮かんできて、彼女は自分の想像力の平坦さに脱力した。
裏の人間もそんなに分かりやすい見た目はしていないだろう。だが少なくとも彼女の屋敷を訪ねてくる男は胡散臭さとは別に、その対極にある人間のように思えた。
あれだけの気品を備えているのだ。きっと身分がある男だ。本来ならば彼女とは出会うはずもない人間……。
―――― だから、昨日は来なかったのだろうか。
もう来てくれないのだろうか。
重い気がますます重くなってくる。それは外が暗くなるにつれ動かしがたいほど大きくなってきた。
「帰らないとな……」
だがなかなか決心がつかない。何だか瞼まで重くなってきた。少しだけ転寝してもいいだろうか。
意識が途切れ途切れになっていく。波に揺られるような心地よい感覚に落ちていく。
しかしその時扉が開けられる音がした。主人の「いらっしゃい」という声でシエラは目を覚ます。頭を振り瞼をこすりながら振り返った。
「あれ」
「迎えに来ましたよ」
言われても、言われたことがよく分からなかった。
むしろこの光景が信じられなかったのだ。
どうやってここを探し当てたのか、若干不機嫌そうな顔で戸口に立っている「彼」。その髪も服も両方が雨にびっしょりと濡れている。
雨は避けられるのではなかったのかと聞きそうになったが、今聞いては不味い気がして彼女は黙った。
シエラは目の前までやって来た男を見上げる。主人が彼女の知り合いらしき彼に目を丸くしていたが、彼女はそれにも気づかなかった。
「……もう、来ないかと思った」
「昨日はちょっと兄に捕まりましてね……。時々勘がよくて困ります」
「仲、いいのね」
彼は微苦笑する。
この闇色の瞳に浮かぶ複雑な感情を読み解きたいと思うのは何故なのだろう。
濡れた彼の前髪から一粒、雨だれが落ちる。それはシエラの膝先を掠め床にあたって弾けていった。