闇火 02

mudan tensai genkin desu -yuki

翌朝目が覚めたシエラは、慌しく身支度をすると屋敷を出て町へ向った。
昨日買出しを済ませたばかりにもかかわらず外出したのは、何となく落ち着かなかったからに過ぎない。
まるで夢だったのではないかと思うくらい、昨晩の男との出会いは非現実的なものだったのだ。
屋敷にこもっているのではなく外に出て「現実」を取り戻したい、そんな気分に彼女はなっていた。
「おや、シエラ。珍しいね。昨日も来たのに。買い忘れでもあった?」
「ううん、そうじゃないんだけど」
馴染みの雑貨店を訪れたシエラは苦笑して主人の言葉に首を振る。
そう言われてしまうのも無理はないだろう。今まで規則的に一週間に一度だけ顔を出していたのだから。
「でもちょうどよかったよ。いいお茶を仕入れたんだけど安くしとくからお試しで買わない?」
「お茶? 嬉しいけど……」
今はいらない、と言おうとしてシエラは止まった。そう言えばあの不思議な男は「訪ねてくる」と言っていたのだ。
本気かどうかは分からないが、彼は随分いい身なりをしていた。貴族か宮仕えの人間か……どちらにしても富裕層だろう。
ならば相応のもてなしをしなければならない、かもしれない。
「あ、じゃあ買おうかな」
「そうしなそうしな。今包むよ」
主人は一旦店の奥に引っ込むと、小さな箱を持って戻ってきた。それを紙で包み始める。
「そう言えば聞いたかい? 昨晩、人死にが出たんだとさ」
「人死にって」
「西の海の……ほら、暗礁が多いところがあんだよ。そこで船が襲われたか何だかして人が死んだんだってさ。
 あんな危ない場所、昼でも船は近寄らないっていうのに何があったんだか」
主人の言葉は他人事のようにも聞こえる。海に出ない彼は海上のことなど距離的には近くても、遠くの出来事でしかないのだろう。
しかしシエラはよくよく考えるだに顔色をなくしてしまった。
暗礁が多い西の海……それはまさしく、彼女の屋敷がある岬の前の海のことではないか。
昨日も彼女は火を灯しに外に出ていた。その時、海では何かが起こっていたというのか。
「シエラ? 出来たよ」
「あ、うん。ごめん」
彼女は努力して笑ってみせると小さな包みを受け取る。だがもうその時、シエラの意識は既に別のところにあった。
昨晩出会った男は「海から火が見えた」と言ったのだ。ならば彼は、海のどこからそれを見たのだろう。
―――― 日はまだ高い。
だが、シエラは夜が来る時が怖くて、ただ青い空を見上げて自分が何をすればいいのか、答の出ない問いを繰り返していた。

来ないと思っていた。来なければいいと思った。
会いたくないのなら火を灯さなければいいのかもしれない。
だが、シエラは悩んだ挙句、まるで惰性のように重い足を引き摺って灯明台に上がった。そのままにしていた前日分の始末をすると、薪の入った箱を開ける。
彼女が軽くはない薪を抱え込もうと手を伸ばした時―――― だがその手は不意に後ろから掴まれた。
「ひ……っ!」
「つけなくていいです」
「あ、あ、あなた……」
「何ですか?」
脅かした自覚がないのか、まったく悪びれない表情で男は答える。
掴んだままの手を離して欲しいとシエラは頼みそうになったが、体を捩って振り返っている今、手を離されては転んでしまうことは確実だ。
彼はもう片方の手も使って彼女を支えてくれたが、そちらの手には筒状にした書類の束を持っている。彼女はつい何が書いてあるのか気になってしまった。
彼女に代わって薪の箱を閉めてしまうと、男はもっともらしく頷く。
「一時間、時間を取ってきています。が、昨日の分の仕事がおしてましてね。三十分仕事をさせてください。あとの三十分あなたと話をしましょう」
「は、話って何を?」
「さぁ……。だけど、顔をつきあわせているのに話もしないのはおかしくないですか?」
そんなことを言葉にして言う事がまずおかしい。そうは思ったのだがシエラは余計な反論をして男を怒らせたくなかったので黙っていた。

男を連れて屋敷へと戻ると、彼女は迷ったが買ったばかりのお茶を淹れた。
食卓に書類を広げて仕事をしている男に出す。彼は少し驚いて「ありがとう」と返した。
何の仕事をしているのか、昨日はどこにいたのか、聞きたいことはいっぱいあった。
あったが、三十分は仕事をすると宣言された以上邪魔をしてはいけないだろう。シエラは部屋の隅の椅子に座って男を眺める。
それにしても嘘のように綺麗な男だ。
長い漆黒の髪は後ろで一つに束ねられている。肌は雪のように白く、瞳は闇に似た黒色だった。
かなりの整った顔立ち。だが中性的だなとは思っても女性には見えない。広い肩と長い手足、丸みのないその体は紛れもなく男のものだ。
普段は何をしている人間なのだろう。
魔法士と言ったからには、魔法で生計を立てているのだろうか。それにしては持ってきている書類の量は多い気がする。魔法士はこんなことまでするものなのか。
シエラは怖いもの見たさに似た気持ちで男を窺っていたが、自分の中だけで想像を巡らせていても一向に説得力のある答は出てこなかった。
そっと溜息をつく。しかしまさにその時、男が顔を上げて彼女を見たので、シエラは椅子ごと後ろに倒れそうになってしまった。咄嗟に手を伸ばして窓枠を掴む。
「あ、危なっ……」
「あなたは本当によく転びかける人ですね」
呆れ声に重なって指を弾く軽い音がする。同時に斜めに止まっていた椅子がゆっくりと戻った。シエラは捲れそうになっていたスカートを抑えて顔を赤らめる。
「……ありがとう」
「いえいえ」
てらいも愛想もない平然とした顔で彼は返すと、「仕事が終わったので話でもしましょうか」とシエラに向って向き直った。
―――― おかしな男だ。
まるで正体が知れない。こんな人間を屋敷に上げるべきではないだろう。彼女が取り立てて美しくはない平凡な娘だとしても、若い娘ではあるのだから。
だが、シエラの直感では、彼は彼女個人にはまったく興味がないように感じるのだ。
ならば何故、仕事を持ち込んでまで彼女の屋敷を訪ねるのか。それほどまでにあのかがり火に意味があるのか。
……シエラは膨らんでいく疑惑を飲み込んで頷くと、新しくお茶を淹れ直す為に席を立った。

「さて、何の話をしましょうか」
「さ、さぁ……」
シエラは生まれてから十六年、異性と二人きりで会話をしたことはない。
しかしそれ以上に誰かと「何の話をしようか」と話をすることはいまだかつてなかった。非常に気まずく息苦しい。
彼女は対応に困って周囲を見回した。ふと暗くなりかけている窓の外に気づき、思いつきを口に乗せる。
「天気の、話とか」
それは世間話の常套だ。何だかこの場には似つかわしくない気もするが、苦し紛れで出された提案に男は真面目な顔で頷いた。
「そうですね。今日は晴れましたが、明日からはまた三日ほど雨ですよ」
「え?」
シエラは目を丸くした。天気を予想するなどとは聞いたこともない。
精々明日の天気を空模様から予想したり、毎年この季節は雨が多いから、くらいにあたりをつけるくらいだ。
それを何故この男は断言するのか。冗談を言っているのではないことは彼の表情を見れば分かることだった。
彼はシエラの表情に気づいて苦笑した。新しいお茶に口をつける。
「僕は元精霊術士ですからね。それくらいは分かります」
「せいれい、じゅつし?」
「魔法士の一種です。自然を操るのに長けているんですよ」
お茶のカップをテーブルに戻すと、彼は指を一本立てた。そこに小さな光の球が生まれる。
よく見ると光球はささやかに放電しているようだ。金色の枝葉が火花のように飛び散る様は非常に美しかった。
「綺麗……」
「形のあるものなら差し上げられるんですがね。少し、考えておきましょう」
男が指を折ると光球は跡形もなくなくなった。シエラは我知らず感嘆の息をつく。
魔法士など、治療をしたり占いをしたりする人間しか見た事がない。こんな不思議なものを見せてもらったのは初めてだった。
光球の美しさにすっかり気を取られていた彼女は、しかしすぐに不味い現実に気がつく。
天気の話が終わってしまったのだ。これはいけない。何か別の話題を考えなければ……。
シエラは必死に一人、話題を考え始める。
あどけない顔立ちの少女が眉を寄せて思案にくれるその姿を、男は珍しいものでも見るように、じっと見下ろしていたのだった。

結局、何を話すか悩んだり、お茶を淹れたりしているうちに三十分はあっという間に過ぎてしまった。
時計を見てそのことに気づいたらしい男は、書類を手に立ち上がると彼女の頭をまた軽く叩いていく。
「ではまた。戸締りをきちんとして、夜は外に出ないように。……ああ、お茶美味しかったですよ」
そう言ってさっさと帰る男の背をシエラは見送ることしかできなかった。
結局、本当に気になっていたこと―――― 昨晩あったという人死にと彼は関係しているのか、何故屋敷に訪ねてくるのかは聞けずじまいだったのだ。
だがもし、彼が昨日の事件に関係していたとしても、人を殺す人のようには見えない。
何を考えているのかは分からないが、転びかける彼女を助けてくれるくらいの優しさはあるようなのだ。
言われた通り戸締りをしながら彼女は、次の時の為に考えるべきことを整理していく。
ともかく…………「何を話せばいいのか」が重要課題のようだという頭の痛い事実に、肩を落としながら。

城に戻ったルイスは、待っていた臣下から報告を受けるとそれに目を通した。
今回の件は王である兄は知らないことだ。真っ直ぐなところがある王がこの件について知れば、間違いなく彼は激発し、事態が大きくなってしまうだろう。
その前に何とかかたをつけたい。内密に動かせばそれなりに得られるものもあるのだ。
「何人逃がしたか分かりますか?」
「二十人弱か、表に出ない人員を含めれば五十人弱かと」
「下の者は皆殺しで。情報を知る者だけ数人生け捕ればいいです」
「かしこまりました。洗い出しを続けます」
側近を下がらせてしまうと彼は深く息を吐き出す。
兄が王位を継いでから、ルイスの身分は王の子ではなくなった。
王弟殿下と呼ばれ公爵位を授与され、城の外に屋敷も持っているのだが、宰相の仕事が忙しい為屋敷に戻ってまで眠ることはほとんどない。いつも城の部屋に泊まって済ませてしまう。今日もこのまま仮眠を取って朝から執務につくつもりでいた。
椅子の背もたれに体重を預け伸びをする。疲労が極まっているという程ではないが、多少の疲れは仕方ないだろう。
何か飲もうかと考えかけて、ふと遠い海際の屋敷で飲んだお茶を思い出した。
人をもてなすことに慣れていないのであろう少女が、おどおどと様子を窺いながら出してくれたお茶。
前日に出されたものとは違ったのはわざわざ用意してくれたのだろうか。
注意はしてきたが、ちゃんと戸締りをしたのか気になる。
もし戸締りがしてなかったとしても精霊の監視下にある以上、何も危険なことはないと分かってはいるのだが。
「十六歳……十六年、か…………」
それは決して短い期間ではない。
だからこそ譲るわけにはいかなかった。
ルイスは椅子によりかかったまま目を閉じる。暗く閉ざされた世界に、少女の少し困ったような瞳が浮かんで消えた。

翌日は男の言った通り雨になった。シエラは窓越しに薄暗い空と、灰色の海を眺める。
雨の日は決して好きではない。空気はざわざわと落ち着かず、また早めに灯す火が消えてしまわないかどうか気を使わなければいけないのだから。
だがもし今日も彼が来るのなら、火は灯さなくてもよいのだ。
シエラは本日何度目かに時計を見やる。いつもならあと一時間もすれば灯明台に上り火を灯すのだ。
けれどそれを少しくらいなら遅らせてもいいかな、と彼女は思っていた。
雨足も強い。外に出なくて済むならその方がずっとよかった。
シエラは雨除けのフードの代わりに、お茶とお茶うけを準備して時が過ぎるのを待つ。
男がやって来たのは、それから二時間後のことだった。

「濡れてないの?」
これだけの雨ではびしょ濡れになってしまうのではないかと思っていたシエラは、入ってきた男を見て驚いた。
髪も服も濡れたところ一つ見当たらない。靴が少し湿っているくらいだ。彼は苦笑して今日は書類の持っていない手を軽く上げて見せた。
「雨くらいは避けられるので。あなたは家の中にいましたか?」
「あ、うん」
「髪が濡れていない」
綺麗な指が無造作に一房、シエラの髪を挟んで梳いていく。
頭に手を乗せられるのとは違う仕草に彼女はぎょっとして後ずさった。その避け方があまりにも露骨だった為か、男は苦笑する。
「取って食いはしないと言ったでしょう。まぁ怪しいのは否めませんが」
「あ、その、急に触られると、吃驚するから」
「―――― なるほど」
彼はそれで納得したらしい。シエラは居心地の悪さに台所に逃げ出すとお茶の支度をした。
沸かしたお湯でお茶を淹れると、その間に昼から焼いていた菓子をつける。
盆に乗せてそれらを持っていくと、今日は何も持ってきていない彼はシエラをじっと見つめた。
出された菓子を手にとってまじまじと眺める。
「菓子を食べるのは久しぶりです」
「甘いもの、嫌い?」
「そういうわけではないんですが機会がなくて。子供の頃はよく母や父の奥方が作ってくれました」
彼は言いながら上品な仕草で菓子を口に運ぶが、シエラの方は言われたことに悩んでしまった。
普通「母」と「父の妻」は同一人物ではないだろうか。それが二人に分けられるとしたら妾か後妻か、いずれにせよ複雑な事情だ。
後妻であれば、普通は「義母」と言うのだから、それを「父の妻」と言う以上確執があるのかもしれない。もしくは母親が妾であったか。
詳しく聞いてはいけないような気がしてシエラは固い笑顔を浮かべる。しかし、彼の方はまったく気にしていないようで「美味しいです」と返してきた。
問題なのは、ここでまた会話が詰まってしまったことである。
本当なら今日はシエラは当たり障りなく彼の「家族」について聞いて、問題がなさそうであればそれを話題にしようと思っていたのだ。
にもかかわらず最初の最初で頓挫してしまった。これから残りの時間どうすればいいのか。
「料理は母君から習ったのですか?」
「え、うん。お母さんは色々できたから……」
母は全て教えてくれた。家事から買出し、そして火を灯すことまで。教えてくれなかったのは過去のことと、父のことくらいだ。
「ファルサスの味がします。母君はファルサスの出身者だったんでしょうね」
「え」
そんなことは知らない。母はこの国の人間だと思っていた。
ただ、ファルサスは四時間も西に歩けば国境につく。そこは険しい山になっているが、船で海を回ればすぐなのだ。近いと言えば近いだろう。
シエラは驚いて、驚いていたからこそ、垣根を跳躍するように同じ質問を返した。
「あなたの、お母さんは?」
聞いてからやはり不味かったかなとも思う。けれど先ほど彼が「母」と言った時も、表情に曇りは見られなかった。
ならばどこの国の人間か聞くくらいは構わないのではないかと、シエラは自分に言い訳する。
「僕の母ですか? トゥルダールの出身です」
「とぅるだーる?」
そんな国名は聞いた事がない。どこか遠くの小国だろうか。

政治や歴史に疎いシエラは知らない。
それが四百年前に滅びた魔法大国の名なのだと言うことに。
もしそれを知っていたのなら、目の前の男が何者なのか推察も容易かったであろう。
この時代において「トゥルダールの出身者」と断言されるのはただ一人の魔女のみであり、その彼女が産んだ男児はやはり世界でただ一人、彼しかいなかったのであるから。