闇火 01

mudan tensai genkin desu -yuki

毎日毎日、日が落ちると同時にシエラは屋敷の外に作られた灯明台にかがり火を灯す。
何の為に灯すのかは考えたことはない。
朝起きると顔を洗い服を着替える、それと似たような「意味が分からないけど意味がある」ものだと思っていたくらいだ。
四年前亡くなった母は「火を灯せば、誰かが気づいてくれるでしょう?」と言っていた。
その誰かは何となく会ったこともない父のことではないかと疑っていたが、確かめたことはない。父の話題を口にすると母は悲しそうな顔をすると知っていたから。
シエラは何の為に火を灯すのか分からない。
母はそう言ったが、物心ついてからというものの毎日火を欠かさずとも、岬の高台にあるこの屋敷に誰かが訪ねて来たことは一度もないのだ。
それでも、彼女は今日も火を灯す。まるで生活に組み込まれた一部のように。そして、いつか気づいてくれるのかもしれない、誰かを待って。

「大きいよ。持てるかい?」
「平気。いつものことだから」
シエラはパンの入った袋を両手で抱える。まだ温かいそれらを店の外に出ると、引いてきた小さな台車に丁寧に積み込んだ。
週に一度の買出しは歩いて一時間程の距離の港町に来て行っている。四年前にはまだ十二歳だった彼女は、自分が食べる分だけのものを買うのに四苦八苦していたが 、今はもう慣れたものだ。食料の他に生活用品などを買いこんでも上手く台車を使って持ち運べる。シエラはパンの袋が落ちないよう確認すると、持ち手を引いて石 畳を歩き始めた。町行く人の中には彼女に視線を送る者もいるが、話しかけてきたりはしない。そもそも町に来るのはほんの僅かな時間だけで、よく買い物に行く店の店 員以外とは口をきいたこともないのだ。当然ながら働いたこともないが、幸い母は実家から持ってきたという充分な遺産を残してくれている。 それは彼女一人つまし く暮らしていく分には、あと数十年は持つであろう金額だった。
買い物を全て終えるとシエラは町を出て緩やかな坂道を上っていく。潮風に髪をくすぐられながら広がる海を遠く眺めた。
今は空を白く照らしている日もあと数時間もすればゆっくりと傾き、赤みを帯び始めていくだろう。
そうしたらまた、彼女は火を灯さなければならないのだ。

彼女の屋敷は周囲に家の一軒もない海の岬にぽつんと立っていた。
かなり高い場所にある為、見晴らしはよいが、すぐそこは断崖絶壁である。もっともシエラはそのこと自体には慣れきっていて別に怖くはない。
そして、その岬に立っているのが灯明台だ。家よりも先端に近い場所にある二階建ての小さな建物。二階部分は屋根と柱のみになっており、灯したかがり火を遮るも のはない。その為、さして大きくはない火でも夜には明かり一つない一帯でとても目立つことは確かだった。
屋敷自体は豪華な作りでも何でもない。むしろ質素と言える部類だ。だが丈夫なのは実証済みだった。今まで何度嵐が来ても屋敷は壊れることがなかったのだから。
ただ、激しい嵐の中、念の為体にロープを巻いて灯明台に上り、雨よけの衝立を張りながらかがり火を灯す時、シエラは思う。
自分はいつまでここに一人、誰かを待ち続けるのかと。もういい加減、屋敷を出て外に行くべきではないかと。
それは平穏で代わり映えのない…………閉ざされた生活だった。

その夜は午後から雨になった。シエラは急いで屋敷中の窓を閉めると、頭まで覆う外衣を着込む。
外に出るとまだ雨は小降りではあったが、空は暗くなりかけていた。彼女はいつもより二時間早く、火を灯す為に灯明台に入った。
種火はいつも一階に置かれている。小さな燭台に火を移すと簡素な階段を上って二階へと上がった。
幸い雨は中には吹き込んでいない。シエラは薪の保管箱を開けると急いで台の中へと木を移す。
薪は湿っていなかったが、空気中に漂う湿り気に少しだけ苦労しながら火をつけた。
「よし」
燃え盛り始めた火に満足すると、彼女は雨よけの衝立を広げる。壁のない四方の内、衝立を置かないのは海に面した方角だけだ。
何故そうするのかは分からない。ただ、母はいつもそうしていたから何となくそれにならっていた。
……これで後は、火が弱まったら様子を見に来ればいいだけだ。
全てを終えてしまうとシエラは落ちかけた外衣を羽織り直す。また雨の中を屋敷まで走っていかねばならないのだ。
一人きりで暮らしているのに風邪は引きたくない。それはとても心細く、苦しいものであるから。
熱と光を伝えてくるかがり火に背を向け、シエラは階段を下りかける。
―――― 後ろから誰かに手を掴まれたのは、その時だった。

「え?」
呆気に取られたのは一瞬だけだった。
すぐにシエラは恐怖に硬直する。誰もいないはずの灯明台で、一体「誰」が彼女の手を掴んでいるというのか。
悲鳴が喉を駆け上がった。口を叫び声の形に開く。
しかしそれより早く、彼女の軽い体は後ろに引き摺られた。伸びてきたもう一本の手が彼女を無理矢理振り向かせる。
視線を定まらせる間もなく頭を深く覆っていた外衣が剥ぎ取られた。シエラの幼さの残る顔が顕にされる。
かがり火を背に、黒い影となっているその人物は彼女よりも大分背が高い。
彼女の体を掴んで捕らえる手は優美なほどしなやかだったが、そこに込められている力はかなりのものだった。
シエラがあまりのことに呆然自失していると、相手は顔を近づけて彼女の顔を覗き込んでくる。
「あれ……。普通の女の子……か?」
気を挫かれたような声。
柔らかく、だが間違えようもない男の声にシエラは反射的に頷く。普通かどうか自分では分からないが、女の子は女の子だ。
彼は言葉に詰まったらしく、彼女から手を離し一歩退いた。綺麗に束ねた黒髪が炎に照らされ紅い艶を帯びる。
解放されたシエラが後ずさりながらよく見ると―――― 男は思わず見惚れてしまう程の美貌の持ち主だった。驚きがつい口をついて出てしまう。
「あなた、人間?」
「は?」
人間かと問われた男は、一瞬黒い目を丸くしてシエラをまじまじと見ると、次に小さく吹き出した。
硬直している彼女の前で片手で顔を押さえて笑い出す。
「いや……魔女かと聞かれたことはあるが、人間かと聞かれたのは初めてだ。……まぁ無理もないか。
 ―――― 人間ですよ、一応。灯りが見えたんで、一体誰がつけているのか見に来たんです」
「あ……日課、だから……これ」
「誰かの依頼ですか?」
そう言った時、男の顔は微笑みを湛えていたが、目はもう笑っていなかった。忘れていた恐怖が再びシエラの中にせりあがってくる。
この男は何者なのだろう。本当に人間だというのならどうやって急にここに現れたのか。
彼女は男の顔から目を離さぬまま一歩後ろに下がろうとした。しかし、その足は空を切る。背後に階段があることを忘れていたのだ。
「……あ……っ!」
小さな体は容易にバランスを崩し、背中から階下へと落下していく。
ほんの数秒の浮遊感。シエラは衝撃に備えて身をすくめた。
だが本能的な恐怖に反して、いつまで経っても床は彼女を打ち据えない。彼女はきつく閉じていた目を恐る恐る開いた。
「危ない。気をつけなさい。別に取って食いはしませんから」
シエラはどういう力によってか、足を踏み外した姿勢のまま空中に浮いていた。そのすぐ下で男が呆れた目で彼女を見上げている。
ゆっくりと下りてくる少女の体を彼は腕の中に抱き取ると、中性的な美貌に意外と似合う顰め面で彼女を足から床に下ろした。
「足元注意」と言いながら子供にするように小さな頭を軽く叩く。
―――― どうやってかは分からないが、助けてくれたらしい。シエラはあまりのことに激しく動悸がする胸を押さえ、彼を見上げた。
「僕はファルサスの魔法士です。海からこの火が見えたから調べに来たんですよ。
 さて、あなたは何の為に火をつけているんですか?」

何年もの間ずっと灯してきた火。それを何の為に灯すのかは考えたことはない。
そして火を灯し続けて初めて現れた男は得体の知れない怪しい存在で、そして彼女の人生はここから一変することになった。



「なるほど。母君の日課を引き継いだんですか」
「……はい」
シエラはお茶を運んできた盆を抱え込んだまま頷いた。「母君」など言われたことがないので、どうにも戸惑ってしまう。
しかし、男は自分の考えに没頭しているようで、彼女の困惑に何の言もさしはさまなかった。
雨の中、灯明台に現れた男は西の隣国の魔法士なのだという。
ほとんど町に下りない彼女はちゃんとした魔法士を見るのは初めてだが、随分色々なことができるらしい。
「何もしないから話が聞きたい」と言われ、外で話すよりはと彼女は屋敷に男を案内したのだ。
「それは、いつからか知っていますか? 母君が火を灯し始めたのは……」
「分からない。多分私が生まれる前……だから十六年以上は」
そう言った途端、男の表情は苦々しいものに変わる。シエラは逃げ出したくなって一歩退いた。
彼は今度はさすがに彼女の様子に気づいたらしく、苦笑しなおすと軽く手を振った。
「気にしないでください。あなたを罰しようというわけではありませんから。ただどれくらい続いているのか知りたかっただけです」
「何か、意味があるの? 母は……誰か気づいてくれるかもしれないから、って言ってたけど……」
「なるほど。父君は?」
「会ったことない。名前も、知らない」
居心地悪くシエラが首を振ると男はまた考え込む。まるでそうしている間は彼女など目の前にいないかのように集中しているらしい。
てっきり同情や憐れみを向けられるのではないかと憂鬱になっていただけに、彼女は肩透かしを食らってきょとんとした。
そのまま彼女は待ってみる。だが待っても待っても男はそれ以上何も聞いてこないので、仕方なく手を挙げてみた。
「あの、お話はそれだけ?」
「ああ、すみません。そうですね……これだけです。この屋敷に誰かが訪ねてきたことはないんですよね?」
「はい」
誰かの為に灯し続けた火を見て、誰かがここに来てくれたことは一度もなかった。目の前にいる男を除いて。
かと言って、彼が母の言う「誰か」などとはとても思えなかった。異様に美しい顔立ちもそうだが、どことなく浮世離れした印象は、向かい合って話をしていても現 実感がないこと甚だしい。本当は人間と自称する魔族ではないのかとシエラは真剣に悩んでしまうくらいだ。
男は顔を上げると、真っ直ぐ彼女を見つめる。闇色の瞳に飲まれそうになって彼女は身を硬くした。
「ならもうやめなさい」
「え?」
「火を灯すことを。毎日は大変ですし、一人でここに住むのも淋しいでしょう。町に引っ越すというなら援助しますよ」
はじめは冗談かと思ったが、そうではないらしい。彼女は笑おうとして引き攣った顔で男を見返すと、そのまま凍り付いてしまった。

―――― この男は、突然現れて何を言うのだろう。
シエラは自分の中に突如怒りが湧き起こってくるのを感じた。
まるで理不尽だ。一体何様だというのか。母や自分のことなど何も知らないくせに、そこに平然と割り込んでこようなどと、厚かましいにも程がある。
彼女は震える指で盆を握り締めた。
「嫌です……。あなたにやめろと言われる筋合いはないから」
「確かに筋合いはありませんが、その方があなたの為になるっていうのは確かですよ。
 それともここで死した母君の言葉を一生守って行くのですか?」
そんなことは無意味だとばかりに男は言う。その言い方があまりにも冷たく聞こえて、シエラは涙が出そうになった。
怒っているのか悲しいのか分からない。ただ、何故そのように言われなければならないのかと悔しいだけだ。
口を開けば泣き声が零れてしまう気がして彼女は唇を噛み締める。男はそれに気づいてまた顔を顰めた。
「そういう顔をさせないよう理性的に話し合いたいんですがね……。じゃあ言うことを変えましょう。
 母君ではなく、あなたが火を灯し続ける理由は何ですか? 一体何があればあなたはあの日課を終わりにするんでしょう」
「理由……」
それは分からない。分からないままずっと火を灯していたのだから。
母は教えてくれなかった。言葉にしてくれなかったのだ。シエラは部屋の中、視線を彷徨わせる。
暗い窓の外、遠くについたままのかがり火が見えた。
「……誰かが、来てくれたなら」
母はきっと、父を待っていた。
だがついに父はこの屋敷に来ることはなかったのだ。
名前も顔も知らない父だ。既に死んでいるのかもしれない。シエラも十六歳になった。父に会うことはとうに諦めていた。
だから、彼女が待っているのは父親ではない。それでもそれは、誰も待っていないということと同義ではなかった。
自分でも上手く整理できない感情にシエラは俯く。何だかとても惨めな気持ちだ。
しかしそれは彼女がずっと自分の生活に向き合わないでいた、そのつけなのかもしれない。

「そうですね……。じゃあ僕が来ますよ」
「え?」
「僕が来ます。構いませんか?」
シエラは弾かれたように顔を上げる。男を驚いて見返したが、彼は苦笑しているだけで嘘を言っているようには見えなかった。
「何で……」
「その代わり僕が来た日は火を消しなさい。これでいいですか?」
いいか、と聞かれてもシエラは返事が出来ない。空気を求めるように喘ぐ少女に男は苦笑する。
「僕では駄目だというのなら考えますが」
「そ、そんなことは」
「ならいいです」
男は立ち上がると彼女のすぐ傍に来て大きな手を頭の上に乗せた。子供にするようにぽんぽんと叩くのは彼の癖なのかもしれない。シエラは目だけで彼を見上げる。
闇色の瞳がひどく孤独なものに見えるのは、部屋が薄暗いせいだろうか。彼女は理由の分からぬ溜息をつきかけてそれを飲み込んだ。
「私、あなたの名前を知らない」
「ルイス」
彼女は口の中でその名を反芻する。
それは味の分からぬ飴のように、飲み込めなさを彼女にもたらしたのだった。

ルイスは彼女の屋敷を辞すと、雨の降り続く外に出る。
だが、雨避けなど何もしていないにもかかわらず彼の体は微塵も濡れない。これくらいは大陸屈指の魔法士である彼には造作もないことであった。
灯明台に向って軽く手を振ると盛んに光を注いでいた火が掻き消える。途端、辺りは真の暗闇に閉ざされた。
「ミラ」
「はいはーい。何の御用ですか。守りますか殺しますか」
紅い髪の少女が空中に現れる。彼女もまたまったく雨に濡れず、機嫌のよい笑顔を主人に向って見せていた。
「殺さない。中々強情な娘だから監視で行く。罠にかかったら僕に連絡をするように」
「かしこまりましたー。ばっちり働いちゃいますよ!」
「よろしく」
精霊の姿が消えると、ルイスは髪をかき上げる。伸ばしているつもりはないのだがいつの間にか伸びてしまった。
一度ばっさりと切った時に兄が残念そうな顔になったので、切ろうと思ってもそれを思い出す度つい切りそびれてしまうのだ。
「そろそろ戻るか。独断専行を怒られそうだ」
もう二十四歳の大の男なのだから放っておいて欲しいと思うのだが、城の年長者からすると、彼はいつまでも体力がなかった頃の少年のように見えるらしい。
それとも姉が結婚して城を出てしまった今、「彼女」の面影を伝える唯一の人間として必要以上の感慨を抱かれているのだろうか。
ルイスは面倒くさげに髪をまとめなおすと遠いファルサスの城に向って転移する。後にはただ濃い闇だけが雨音を孕んで沈黙していた。