忌み姫 02

mudan tensai genkin desu -yuki

クリスティネを伴ったウィルはガンドナに泊まる予定を変更し、早々にファルサスに帰って来た。
一番、異を唱えるだろうと思った弟は「彼女が気に入ったんですか。よいことです」と言っただけなのでひとまずウィルはほっと安堵する。
気に入ったのかと言われてもよく分からないが、放ってはおけなかった。
彼女の瞳が、そして頼りなげでありながら毅然とあろうと努力する姿が気になってしまったのだ。
色んな意味で型破りである彼の父も、同じようにして母をファルサスに連れ帰ってきたというが、その時の彼とは違いウィルは独り身である。
ならばひとまず婚約者としておけば不都合はないだろうし、もし彼女が別の道を歩きたいというのならその時は援助してやろうと思っていた。
部屋が用意されるまでの間、ひとまず小さな広間に通されたクリスティネが不安げな顔をしているのを見て、ファルサスの次期王は苦笑する。
「心配しなくていいよ。紋章も、姉上か……分かる人に見てもらうから。国は国で何とかする」
彼女は一瞬迷うような瞳を見せたが、すぐに小さく頷いた。
その仕草を見てウィルは首を傾げる。
「そう言えば、本当は話せるんだよね? 話していいよ。その方が楽だろう」
彼からすれば当然の言葉だったのだが、クリスティネは目を丸くすると顔の前で激しく両手を振った。
予想通りの反応にウィルは困った笑顔になる。
「呪詛とか神とか、そういうの一番気にしない国がここだと思う。みんな大抵のことに耐性があるしね。
 ファルサスの王妃が誰だか知っている? 今はもう亡くなっているけれど」
彼の問いにクリスティネは戸惑いながらも頷く。
大陸最強の魔女を娶った王。
魔女が生んだ二人の子は彼女の祖国であったトゥルダールの遺産を継いでいるという。
そしてそれはウィルの姉と弟だ。
魔女の絶大な魔力と知識を継ぐ国となったファルサスは小国の呪いくらい何とも思わないのかもしれない。
だがそうは言われても声を出すことには抵抗があった。
頑なさを表情に出すクリスティネにウィルがまだ何かを言おうとしたその時、部屋の扉が叩かれる。
入ってきたのは黒髪黒瞳の絶世の美女だった。ウィルは彼女を見て「姉上」と声をかける。
「見に来たわ。何? 神の紋章だって?」
「そう。背中にある。どんなものだか見てみて欲しいんだ」
「了解了解。あなたちょっと後ろ向いてなさい」
女はにっこりと笑うとクリスティネの後ろに回った。小さな声をかけて釦がはずされる。
ウィルは壁を見つめながら姉に尋ねた。
「どう? 俺には魔法陣にも見えるんだけど」
「そうね……ってあなた見たの!?」
「……ちょっと」
「責任取りなさいよ。変態」
「変態!?」
善意でのことなのに随分な言われようだ。ウィルは軽く項垂れる。
姉はまじまじと紋章を見てしまうと、クリスティネの服を元通り調え溜息をついた。
「これね、魔法陣じゃないわ。多分上位魔族の所有印」
「本当? じゃあその上位魔族と掛け合わないと駄目か」
「その必要はないと思う。だって紋章の図柄自体はそうだけど、為したのは多分人間の魔法士だわ。消しとく?」
何て事のないように言われた言葉。
それが意味することをクリスティネは咄嗟に理解できない。
生まれた時よりあった紋章が、彼女の運命を歪めた印が人の為したものだというのか。
そしてそれは、消してしまえるようなものだったのか。
あまりのことに彼女は凍りつく。
だがクリスティネの反応をお構いなしに、ウィルは更に問うた。
「あと何か声を聞いた人間には災いが訪れるって予言されてるらしいんだけど」
「何それ。言いがかりでしょ。呪詛とか何もないもん。話しても大丈夫よ」
女は軽く言うとクリスティネの肩を叩いた。闇色の瞳が驚愕に固まった彼女の顔を覗きこむ。
振り返ったウィルが穏やかに微笑んだ。
「ほら、大丈夫だろう? 今まで大変だったね。もう楽にしていいよ」
それはまるで微温湯のように沁みこんでくる言葉だ。
彼の声音に凝り固まったものが少しずつ溶かされる気がして、クリスティネは震える指をぎゅっと握る。
間近に見える女の顔を、そしてウィルの目を順番に見返した。
こうして普通の人間のように見てもらえるまで何年の孤独が必要だったのだろう。
この時になって初めてクリスティネは自分がそれをずっと欲していたことに気づいた。
深く息を吸い込む。
目頭が熱くなった。
彼女はそれでもまだ躊躇していたが、二人の視線に促されて頷く。
まるで消え入りそうな震える声で「ありがとうございます」と彼女が呟いたのは、ファルサス王妃となる一年前、彼女が初めて夫となる人間と出会った日のことだった。

「見事に売りつけられましたね、兄上」
必要処理を終えたらしいルイスは書類を片手に兄に向き直る。
今この部屋には三人の姉弟しかいない。クリスティネは疲れているようだったので部屋に寝かしてきたのだ。
弟の言葉にウィルは顔を顰めた。
「売りつけられたってどういうこと」
「そのままの意味です。中庭に出たのも呼んでいる人間がいると言付けられたのでしょう?
 それ多分、アルキス王子ですよ。彼が妹を兄上に引き合わせる為に呼んだんです」
「嘘」
「本当です。明日にはイルシュトを締め上げます」
冷徹なルイスはそう締めくくると書類に何かを書き込む。ウィルは慌てて立ち上がった。
「ちょっと待って。彼女そんな風には見えなかった」
「彼女本人は知らないんでしょう。軽く精霊に調査させたところ、彼女が二ヵ月後生贄にされるというのは既に国では周知のことでした。
 その前に逃がしたくてファルサスに寄せたんでしょうね。国家間の勢力的な意味でも魔法技術でもファルサスが一番適任でしょうから」
「そ、その為にあんなことまでしたのか」
乱暴されかかった妹を黙って睨んでいたアルキスの姿が思い出される。
言われてみればあの時彼は何かを堪えているような表情だった。
その全てがウィルの目を引く為のことだとしたら大した徹底ぶりだろう。
開いた口が塞がらないといった弟にフィストリアは苦笑する。
「まぁ結果的にはいいじゃない。向こうとしてもどうにもならないからあなたを巻き込んだんでしょうし」
「それにしてもやり方が気に入らない!」
「はいはい」
軽く受け流すフィストリアにルイスは視線を移す。
「姉上、紋章は消したんですか?」
「うん。所有印なんてあんまり気分のいいものじゃないだろうし。中々腕の立つ魔法士が施したみたいね」
「なるほど。何故そんなものがつけられたのか調査した方がいいでしょうね」
「ちょ、ちょっと待って。消えたならいいじゃないか。古傷をえぐるような真似はよくない!」
慌てて口を挟んだウィルを二人は目を丸くして見つめる。妙な間が部屋に訪れた。
ややあってルイスは溜息を、フィストリアはくすくすと笑って頷きあう。
「兄上はそれでどうぞ。彼女を慰めてさしあげてください。こちらはこちらでちゃんとしておきますから」
「そうそう。ここでなぁなぁにしちゃってイルシュトに舐められても困るし」
「待ってって! 事を大きくしないで!」
「しないしない。安心してよ」
「全く出来ないから!」
ウィルは机を大きく叩く。
だが、微塵も効力を発揮していない脅しにフィストリアとルイスはそれぞれの表情で聞く気がないことを示すと、その場から転移して消え去ったのだった。

古い童話。
母と乳母から聞かされたお話。
それは歌の上手な一人の娘と彼女に恋した魔法士のお話。
神の森にて出会った二人は紆余曲折を経て結婚に至る。
やがて二人の間には娘が産まれ、幸せに暮らしたというだけのお話。
だがクリスティネはこのお話が好きだった。
この童話を吟じている時は、まるで自分も幸せになったような、そんな気がしていたのだ。

ファルサスにおいてクリスティネは行動の自由を保証されている。
宝物庫など一部の場所を除いて何処に行ってもいいし、何をしてもいい。
申請し護衛をつけることが条件だったが、望めば城下町に下りることも自由とされていた。
急に広がった世界に彼女は困惑し、だがそれを上回る物珍しさに城内を歩き回る。
毎日決まった時間が来れば、ウィルが彼女の部屋の談話室を訪れお茶を飲んでいくのだが、それも不思議とくすぐったい時間であった。
まだ人と話すことに慣れない彼女の会話は訥々としたものである。けれどそれでも彼と話をすることは楽しい。
人に名前を呼んでもらうこと、そして自分が誰かの名を呼ぶことがこれ程まで嬉しいこととは今まで思ってもみなかったのだ。
六歳年上の彼は、まるで時に少年のように目を輝かせながら色んな話をしてくれる。
些細なことにも気を配ることに慣れた彼の所作は姉弟がいる為なのかもしれない。
兄はいてもほとんど一緒にはいなかったクリスティネはそれを羨ましく思った。
その日彼女は城の外周に繋がる渡り廊下を歩いていた。
風が気持ちよく薄茶色の髪をくすぐる。鼻歌を歌いたい気分だ。
角を曲がると訓練場が廊下の外に広がっていた。見れば多くの兵士が剣を打ち合い訓練をしている。
彼女はその中によく知る男の姿を見つけて足を止めた。
黙々と剣を揮い対戦相手を下していく男。
細かいことまでよくは分からないが、彼の腕が卓越しているのだということはクリスティネにも理解できた。
力強く鋭い動きに目を引かれる。彼女は廊下の柱に寄りかかりじっと男の様子に見入っていた。
そうしていたのは大して長い時間ではなかったに違いない。
だがどれくらい時が経ったのか彼女は意識していなかった。
不意に視線に気づいたのか彼が振り返る。クリスティネは慌てて柱の影に隠れた。
何も悪いことをしていないのに何故隠れてしまったのだろう。自然と顔が赤くなる。
振り返ったウィルは怪訝な顔をしたが、柱からはみ出たドレスに気づくと苦笑する。
彼はしばらくそのまま柱の影にいるであろう女を見つめていたが、彼女がいつまで経っても出てこないと分かると、残念そうな顔をして稽古に戻っていった。

ウィルの名目上の婚約者としてファルサスで過ごす時間。それは緩やかで温かい日々だった。
クリスティネには、ウィルやその姉に声を聞かせてしまったことでやはり何かあるのではないかとも恐れていたが、今のところはまったく何事も起きていない。
飛び出してきた祖国のことも確かに心配しているのだが、それ以上に初めての安らぐ暮らしが幸せだった。
そんな彼女の前に、一人の老婆がルイスによって連れてこられたのは、彼女の誕生日より一ヵ月前のことである。
部屋に通された老婆はクリスティネを見ると言葉もなく感涙にむせぶ。
その面影を覚えていた彼女は思わず立ち上がった。
「この人が誰だか分かりますね、クリスティネ王女。あなたの乳母をしていたカティアです」
ルイスの言葉に、やはりそうだったのか、とクリスティネは頷く。
だがすぐに信じられなかったのは、乳母は彼女が幼い頃病でなくなったと聞かされていたからだ。
彼女の声によって災いを受けた一人、ずっとクリスティネはそのことを悔いていた。
弟から事情を聞いたらしいウィルは困った目で彼女を見つめる。
「この人が死んだっていうのは嘘だったそうだ。予言を信じ込ませる為にそうしたらしい。
 本当に亡くなったのは病弱だった王妃だけだよ」
「な、んで……」
「クリスティネ様、今まで黙っていたことをお許しください。
 ですがイルシュトでは真実を知っている者は皆、口に出すことは禁じられていたのです。皇后様が……」
そして老婆は十八年前の真実を語り始める。
それは、人の愛情が絡み合い傷つけあう、痛ましい話だった。