忌み姫 03

mudan tensai genkin desu -yuki

クリスティネの父である王は皇后に溺愛され育った息子だった。
だが母の言うことを聞いてよく国を治めてきた王はある日、ひとつだけ母の意に添わぬことをする。
それは彼が恋した女を王妃として娶ったこと。
貴族の娘であった彼女の何に問題があったのか、他人は知る事ができない。
ただ皇后は王妃を疎み、もともと体の弱かった妃はそれでますます神経をすり減らしていった。
そんな緊張関係も第一王子が生まれたことで少し緩んだ。束の間の平穏が宮殿に訪れる。
だがそれも二人目の子、クリスティネが出来た時に変わった。
腹の中にいた時に既に女と分かった子を、皇后は母に似る子が生まれるであろうとして堕胎するよう命じたのだ。
さすがに王が割って入ったが、日々執拗な嫌がらせが続き、ついに限界に達した王妃は城を逃げ出した。
そして城下町にて一軒の庶民の家に身を寄せ、腹の子を守って暮らす日々を送ることになったのである。
「その家には老夫婦の他にもう一組の若夫婦がおりましてね。
 妻はお妃様のご友人でいらっしゃったのですが、彼女も同時期に懐妊していたのです。
 お二人は城の援助を影ながら受けて共に生活し、やがて日をおかずして子を生まれました。
 けれどある日、ご友人のお子様の方が亡くなってしまった…………。
 そしてそのことで心痛を感じられたのか、ご友人ご自身も後を追うようになくなってしまったのです。
 だけどお二人の死が夫であった男性を狂わせた。彼は生きている王妃様のお子……クリスティネ様こそが自分の子だと言い張って
 森の神の守護が得られるよう命と引き換えに魔法をかけて印を……」
「それが私の……?」
クリスティネは自分の背中に手をやる。
今はもうない神の印。
生まれた時からあったという印は、妻子を失った男が嘆きのあまり為したことだというのか。
老婆は涙ながらに頷くと話を続ける。
「王妃様は慌ててクリスティネ様を連れて城に帰られました。
 ですが皇后様に見つかり、彼の方は予言者に命じて不吉な予言を広められた。
 王が気づかれた時には既に取り返しのつかないほど予言は国に広まってしまっていたのです。
 陛下は皇后様の手前それを訂正も出来ず、むしろ皇后様の刺客からあなた様を守る為に城の部屋に閉じ込められました。
 皇后様はご存知の通り昨年亡くなられましたが、もうとても予言を拭うことは叶わず……」
「ということでやっぱり災いうんぬんは完全に嘘だってこと。安心していいよ」
苦笑するウィルの言葉にクリスティネは張り詰めていた糸が切れたかのように椅子の上に崩れ落ちる。
部屋の全員が彼女を見つめた。
その話が本当なら、今まで彼女は偽りによって軟禁されていたことになる。
だがたとえそれが愛情からの行いだとしても、十八年は長い。
急には飲み込みきれない年月にクリスティネは両手で顔を覆った。
ルイスが老婆を促して部屋を出て行く。
残ったウィルは彼女の傍に歩み寄ると、そっと薄茶の髪を撫でた。
声無き嘆きを積み重ねた人生。
絡まりきった苦痛を温もりによって少しずつ解きほぐすように。

自分の執務室で書類を処理していたルイスは、部屋の中に転移してきた姉に書類を見たまま声をかけた。
「どうです? 姉上」
「ばっちり。森の神とやらはもう人間界にいないみたいだったから、イツに頼んでそれっぽく演じてもらった。
 予言は訂正してきたわよ。災いは拭われたって」
フィストリアの報告にルイスは少しだけ微笑みながら頷く。
「上々ですね。お疲れ様です。で、例の件ですが」
「ああ、あなたの言う通りだった。母親の肖像画が残ってたし。でもそういうの気にしないのがうちのいいところでしょ」
「こちらはそうですが。予言が拭われたなら国に帰りたいと彼女が言い出したら不味いじゃないですか」
「それはウィルが何とかするしかないでしょ。彼女のこと好きみたいだし。私はそこまでは面倒見られないよ」
両手を広げてみせる姉を見てルイスは眉を寄せる。
だが結局はその通りなのだ。
彼らは卓越した魔法技術を以って紋章を消すことや、精霊によって神を演じさせることは出来るが、人の気持ちを操ることまではできない。
できたとしてもそれはしてはいけないことだろう。
力に溺れてはならないとは彼らが両親から常々言われてきたことである。
人の心を変えさせたいのならまず自分から誠意を見せるしかない。
そして王の三人の子供のうち、もっともそういった行いに優れているのは次期王たるウィルなのだ。
フィストリアは軽く手を振って部屋を出て行こうとする。その背に弟の声がかけられた。
「ご結婚相手が見つかったようですね、姉上」
「何よ。行き遅れにならなくて残念だったわね!」
「とんでもない。淋しくなります。たまには城都にも顔を見せてください」
姉は弟の言葉に闇色の目を軽く瞠る。
だがすぐに心からの笑顔を見せると「当たり前よ」と扉を閉めた。

紋章は消え、予言は拭われた。
自分を縛るものはもうないのだと言われても、クリスティネにはいまいち現実味がない。
まるで少女の頃描いた空想のようだ。
目を閉じれば消えてしまうかのような夢。
それを当たり前と思い、期待し過ぎてしまえば後で辛い目にあうだろう。
悲しみも苦痛も、そしてその後に来る喜びも全て、本来は彼女のものではなかったのだから。

お茶の時間、その日現れたウィルは肩の上に小さな赤いドラゴンを乗せていた。
初めて見る生き物にクリスティネは驚き、まじまじとドラゴンを見つめる。
「今日は遠出しよう。父上からナーク、このドラゴンを借りたから」
「お仕事はよろしいのですか?」
「それも父上に借り。やってもらってる」
もっとも今の王は父上なんだけどね、とウィルは笑う。
どうもファルサスは先代からの慣習なのか、王は退位1-2年前になると王子に仕事を譲って半隠遁してしまうらしい。
現王であるオスカーも普段は城の奥宮におり、クリスティネもまだ会ったことはなかった。
一度だけ城の図書室でウィルの母親のスタシアに会ったのみである。
「高いところは平気?」
彼の問いにクリスティネは頷く。
そして彼女は差し伸べられた手をとって、空の散歩へと出かけた。

遥か上空から見下ろすファルサスは美しかった。
ドラゴンはゆっくりと羽ばたきながら豊かな国土を回っていく。
クリスティネは眼下の世界に見惚れながら、ふと北東のイルシュトがある方角を振り返った。
小さな森の国。城の自室しか知らない国。
お世辞にもよい思い出は多くはない。
それでもあそこは確かに彼女の祖国なのだ。
物思いに耽るクリスティネに気づいて、ウィルは微苦笑する。
「イルシュトに帰りたい?」
それはいつか聞かれるであろうと思った問いだ。
クリスティネは無意識に片手で胸を押さえる。
「いつまでもお世話にはなれません」
「俺はいて欲しいな。嫌なら諦めるけど」
「でも、私はイルシュトの王女ではありません」
さらっと口に出された言葉にウィルは息を呑む。
誰かが彼女に教えたのだろうかと疑ったが、それを知る人間はフィストリアとルイスしかいない。
ならばクリスティネは自分で気づいたのだろう。彼女は哀しげに微笑んでいた。
「ウィル様、私は母からある童話を聞いて育ったのです。
 歌の上手な娘と彼女に恋した魔法士のお話……。
 乳母の話が本当なら声を出してはいけないなんて予言は必要ございませんでしょう。
 もっと早くに生贄にするよう予言させれば済むだけです。
 それを声と十八歳に限ったのは、私の声が本当の母親の……歌の上手かった娘に似ていては困るからではないですか?
 大人になれば顔が似てくるかもしれない。王妃様とは違う、本当の両親の顔に」
童話の中で二人は結婚し、やがて娘が生まれ三人で幸せに暮らす。
それは王妃が彼らを憐れに思って作った失われた家族の姿であったのだろう。
本当に死んでしまったのは王妃の娘、真の王女の方だったのだ。
そしておそらく産後の肥立ちが悪かった王妃の友人も亡くなり、あとには子を失った母と母を失った子が残された。
欠けた母子。
埋められない悲劇。
それを覆い隠す為に、誰が最初に思いついたかは分からないが、子は入れ替えられた。
母がいない赤子を憐れに思ったのかもしれないし、王妃の立場を慮ったのかもしれない。
結果としてクリスティネは王女として城に連れて行かれることになったのである。
だが一人それに異議を述べたのであろう魔法士の父親は、命を賭して奪われる自分の娘を守る為、印を刻んだ。
本来父親の深い愛情を示す為の紋章は、神の所有の証として娘の人生を狂わせることとなったのだ。
「いくら皇后様のお力が強かったと言っても、お父様、いえ陛下が予言を訂正できないほどではないでしょう。
 陛下もまた私の声や顔が表に出ることを嫌ったからこそ予言は続けられていた。私が自分の子ではなかったから。
 私の考え、違っていますか?」
悟りきった彼女の声音に、ウィルは小さく溜息をつく。
「…………十八歳で生贄というのは皇后が出した案らしい。王も王子も君の命は救いたいと思っていたよ。
 だから君をガンドナに連れ出したんだ」
或いは全てを知っていたアルキスは、彼女を妹としてではなく愛していたのかもしれない。
それは今となっては分からない、暴くべきではない感情だ。クリスティネはほろ苦い笑みを見せる。
「私は王女ではありません。ただの娘と、魔法士の子供です。
 本来、ウィル様に優しくして頂く権利などないのですわ」
「様つけはやめて欲しいんだけど……」
ウィルは眉を顰めてこめかみをかく。ドラゴンの背を軽く叩いて方向転換させた。
ファルサス北東にある森に向かってナークは飛び始める。
「優しくされる権利ってのはさ、人がその人のことを好きかどうかじゃないかな。生まれも身分も関係ない。
 それに君は王女として十八年間ずっと一人で戦ってきたんだ。それは既に王族たるに充分な力だと俺は思うよ」
みるみるうちに眼下にファルサスの深い森が近づく。
ドラゴンは広大な森の上をゆっくりと飛んだ。
この全てを統べる王になるであろう青年は目を細めて自国の景色を見下ろす。
「ファルサスは多分大陸の国家の中では一番血を重んじる国家だ。
 だけどそれはアカーシアがあるからであって、伴侶となる人間の身分を制限するわけじゃない。
 姉にも弟にも、そして俺にも魔女の血が流れているしね」
さらりと投げられた言葉にクリスティネは目を瞠る。
故王妃の血を引かない彼にも魔女の血が継がれているというのなら、一体いつその血はファルサス王家に入ったのか。
あまりにも予想外な真実に彼女は何も言えない。
驚きに満ちた視線に気づいてウィルは笑った。
「でもアカーシアがあるから俺は魔法は使えない。君と同じだ」
「同じ? 私とあなたが?」
「ところどころ。でも俺の方が楽してるかな。皆に助けられてるし。
 実は魔法も習ったことがあるけど向いてないのか全く駄目だった」
そう言ってウィルは舌を出す。空そのもののような瞳が彼女を見つめた。
子供のような、それでいてずっと大人のような不思議な男。
思わずつられて笑ってしまったクリスティネは「そういう顔していてくれた方が嬉しい」と言われて顔を朱で染めたのだった。

ファルサスに来てから一年後、クリスティネは王妃としてこの国に永住することになる。
彼女の夫が治める国において、彼女のことを忌み姫と呼ぶ人間は誰もいない。
遠い祖国を思い出す時、クリスティネはそこに何かしらの愛情を感じる。
死した両親、王妃、王、そして偽りの兄。
もつれてしまった過去は、けれど無意味なものではなかったはずだ。
彼ら全ての愛憎を経てクリスティネはただ一人の男の隣へたどり着く。
それは定められた宿命ではなく、おそらく人の願いが選び取る不確定な未来の一つであるのだから。