曲空虚空 09

mudan tensai genkin desu -yuki

 白。
 どこまでも白い空は、それ以上何もない壁のようにも、あるいは無限に広がる茫洋のようにも思える。
 あおむけに横たわるアキラは、他に何も見ていない。目を閉じても白い光が瞼の裏にまで忍び込んできた。
 息を止める。
 そして吐き出してみる。
 そこに意味はない。ただ必要があるように思えただけだ。アキラは強張る指を握ってみる。
 兄はいない。それはわかっている。
 わかっているからこそ、ここでこうして白い空を見上げているのだろう。
 まるで失われた思い出を取り戻そうとするかのように、アキラは空を仰ぐ。希望をこめて前へと手を伸ばす。
 彼は目を閉じた。知らぬ男の声が響く。
「――とははたして、なんであると思う?」
 遠く聞こえる問い。その疑問に答える言葉を、彼は持っていない。
 探しているのは別のものだ。だからアキラはただ「わからない」と呟く。
 あいまいな過去の記憶。白い空は次の瞬間、急速に彼の上から遠ざかった。

 ブラインドの隙間から淡い光がすべりこむ。
 窓越しに伝わる冷気とともに降りそそいでくる朝の陽は、アキラをゆっくり眠りの中から引き起こした。身を縮めてベッドで横になっていた彼は、薄目を開けると手足の肌寒さを自覚する。
「あれ、布団……」
 蹴って落としたのかと手で探ったが、伸ばした指は空振るだけだ。あきらめて仰向けになったアキラは、定まらない目で天井を眺めた。――そして沈黙する。
 丸めて放り投げたかのような白い布団。それは不思議なことに、真上の天井に張り付いて落ちてこない。怪訝に思ってよく見ると、細い腕と足がぎゅっと布団を押さえこんでいる。太股まであらわになっているしなやかな足を、アキラは意味のわからぬものを見るように、まじまじと眺めた。意識が覚醒すると同時にそれがなんであるのか理解して跳ね起きる。
「――って、おい!」
「ふぁ……?」
 布団の中から現れた黒い髪。目をこすりながら体を起こしたシェラは、両手で白い布団を抱きしめた。とろんとした瞼はいとけなく、昨日の真摯をまったく感じさせない。
 無防備に浮いている姿は愛らしいのかもしれないが、非現実的でいまいましいこともたしかだ。アキラは寝起きの少女から視線をそらしつつ、自分がかけていたバスタオルを投げる。
「起きろって。俺、学校がある」
「あ……私も行かせてください……」
 のろのろと動き出すシェラは、おりてきて布団をたたもうとしている。どういう仕組みかはわからないが、彼女の持ったものは彼女自身と同様、上に向かってゆるやかな重力がかかるらしいのだ。
 だから布団を抱いて寝れば天井に落ち着くし、アキラが貸した服の裾もめくれあがることはない。けれどそれも、本人の寝相がいまいちでは何もならないだろう。アキラは落ち着かなさとともに教科書を通学バッグに押し込んだ。
「今日、買い物も行くから」
「何を買うのですか?」
「お前が使うもの。色々いるだろ」
「ああ……布団をお借りしてしまいましたし……」
「先に服を気にしろ」
 まだ寝ぼけているのか、ふらふらとしているシェラは、目を離せば布団と一緒に天井へ落ちていきそうである。
 アキラはそれを無視して乾いた制服を手に取った。
「洗面所で着替えてくるから。お前もちゃんと着替えとけよ」
「はい」
 子供相手ではないのだから、いちいち面倒は見ていられない。
 彼女を放置して鏡の前に立ったアキラは、顔を洗おうとして耳に貼ったシートに気づいた。手に貼ったものとあわせて剥がしてみると、無事完治している。こびりついていた血は濡らしたタオルで拭って落とした。
「よし、これでいいか」
 制服もなんとか乾いたことだし、昨日の影響は残っていないと見ていいだろう。
 だが一晩でリカバリーがきくとしても、面倒な目にあわないにこしたことはない。万が一のことがあっては困るし、普通でいたいのなら普通なりの生き方というものがあるのだ。
 そのことをよく知るアキラは、前髪を上げて鏡で額を確認した。
「とはいっても、もう遅いんだよな……」
 少女の白い手が触れた場所には、彼にしか見えぬ数字がうっすらと青く焼きついている。
 ――シェラのプレイヤーナンバーを表す13。
 そう昨晩説明を受けたアキラは、だがふと眉を寄せた。
「十三? 都市は十二だろ。いったい全部で何人いるんだ?」
 もし都市の数よりプレイヤー数の方が多いなら、勝負は早いもの勝ちになるか、下手をしたらまた戦闘だ。のんびり構えていられる余裕はない。
 部屋に戻ってそのことを確認するアキラに、着替えを終えたシェラは苦笑した。
「今回の来訪者は全部で十二人ですよ。私が末席です」
「あれ? 順番に番号振られてるんじゃないのか」
「二番から順番ですね。スガはたしか六番でした」
「一番は欠番なのか?」
「ええ」
 たいした意味もない問いに、裸足で天井に立っていた少女は微笑する。その様子はどこか薄い壁を感じさせ、アキラは無意識のうちに、それ以上問うことをやめた。代わりに別の質問を口にする。
「そういや姉貴のために探してる治療法って、あてがあるのか? 今日あたりデータベース覗こうと思ってるんだけど」
「……ああ、そうですね」
 どのような病気の治療法を探しているのか、それさえもわからないのでは探しようがない。シェラは少し首を傾げたが、すぐに聞きなれない病名をあげた。日本語ではない響きを持つそれは、さすがに心当たりが微塵もない。怪訝な顔になったアキラに、少女は微苦笑した。
「大丈夫です。データベースの操作は私がやりますから」
「できる?」
「できます。割と得意です」
 そう言うシェラの声音には、幾許か自嘲が漂って聞こえる。黒い瞳も今は不透明な膜がかかったように、感情が読めなくなっていた。
 アキラが軽く眉を上げると、彼女はそれに気づいてか長い睫毛を伏せる。
「すみません。無理ばかりを言って」
「いやそれはもうあきらめてるけどさ。なんかあるなら言えよ」
 ――なりゆきとは言え、自分たちはパートナーになったのだ。なにか心配事があるのなら言ってほしい。
 そう思ってのアキラの言葉を、しかしシェラは「教えられてないことがあったら困る」と受け取ったらしい。「すみません」と頭を下げた。
「元の世界では私、データの取り扱いを専門にしてたんです。ので、調べ物などは自分でできます」
「ならいいけど、なんでそんな顔するんだよ」
「いえ……少し、自分のことを思い出しまして」
 シェラはそこで言葉を切る。
 少しの逡巡が宿る目。少女は何かを考えるように一度唇を噛むと、上目遣いにアキラを見た。
「攻略には関係ないのですけど、いいですか?」
 苦味を感じさせる問いに、彼は頷く。少女は口元だけを造り物のように歪ませた。
「私は、こういってはなんですが、わりと早熟な子供だったのです。幸運と言っていいのかどうか、早くから周囲に才能を認められ、研究の場を与えられました」
「専門にしてたってやつ?」
「ええ。私は分野こそ違いますが、父も研究者でしたから。環境には恵まれていたのです。論文が認められ、正式に研究者の身分を得たのは十歳の頃でした」
「うわ。それってすげえんじゃないの」
 空中にさかさで浮いているこの少女は、虚都ではかなりの才媛なのかもしれない。
 けれどシェラは、アキラの感嘆に悲しげな目でかぶりを振っただけだった。
「あまり誉められた話ではないのです。私は自分の能力が認められたということに甘えて、家に帰ることもほとんどしなかったのですから……。姉の具合がよくないとは知っていたのです。ですが、私は研究所に詰めたまま、父や姉と向き合うことをずっと避け続けていた……姉がどのような暮らしをしていたのか、まったく見ようともしていなかったのです」
 後悔のにじむ響き。くすんだ声は床の上に落ちていく。
 シェラは、自分の小さな右手のひらを見た。
「……そんな私がいまさらとは、思うのですけど」
 大きなため息を吐き出して、そうして困ったように笑う少女は、アキラの目に、まるで泣き出す寸前の子供のように見えた。
 朝の冷えた空気。窓からの光が桟に置かれたミニチュアを照らし、薄い影を作る。
 シェラは重くしてしまった雰囲気を恥じてか、ぎこちなく微笑みなおした。
「姉のことを理由に参加を決意した私が、他のプレイヤーから私欲で来たと謗られるのも、無理はないでしょう。ですが、だからといって勝負をおろそかにするつもりはありません」
 長い睫毛が揺れ、黒い瞳がまっすぐにアキラを見つめる。
 本来はプレイヤー間で戦闘をするような勝負ではなかったというこのゲームに、偶然が重なったとはいえアキラを巻き込んでしまったのはシェラだ。彼女はシギルを確保してこの都市を守ることで、彼の協力に応えたいと思っているのかもしれない。
 アキラは彼女の気負いに気を取り直すと、軽く手を振って返す。
「そりゃ確保できればこっちもありがたいけど、姉さんの方を第一にしていいからな。変な遠慮しないで何かあったら言えよ」
 制服の前を止めると、アキラは床に置いてあったバッグを拾い上げる。壁の時計を見ると、いつもならばもう寮を出ている時間だ。今日は転移ポートを使わねば遅刻してしまうだろう。
「よし、そろそろ行くぞ」
 ドアノブに手をかけたアキラは、ついてこないシェラを振り返る。
「どうしたんだよ」
「いえ……すみません……」
「早く来いって。学校に遅れる」
 急かすために手を伸ばすと、シェラはあわててその手を取った。細い体が宙を泳いでアキラの後を追う。廊下に出ると、小さな声が彼の耳を打った。
「あの……どうして親切にしてくれるんですか? 私、無理ばかり言ってるのに」
「あー」
 ――理由については、いつか聞かれる気もした。
 アキラは過去の記憶に風化しきらない感情を覚える。よみがえる白い空の記憶。しかし彼は感情を表に出すことはせず、さらりと答えた。
「俺もさ、昔、兄貴がいたんだ」
「お兄さん、ですか?」
「今はいないけどな」
 アキラはそこで話を打ち切ると、部屋のドアを後ろ手に閉めた。