mudan tensai genkin desu -yuki
虚都人であるシェラは、もともと素質のある人間でなければ視認することができない。
それに加えてアキラと契約した今では、彼女の姿はもう、他のプレイヤーや代行者でなければ見ることができないのだという。
そのことをアキラは彼女に聞いて知ってはいたのだが、実際目の当たりにすると妙なものだった。会社帰りの勤め人も、犬の散歩をする中学生も、宙に浮いているシェラのことなど見ようともしない。時折訝しげに振り返る人間もいるが、それはシェラではなく彼女に呼びかけるアキラを不審に思っているのだろう。見つかって騒ぎになるのではないかと、緊張していたアキラは、結局誰に見咎められることもなく寮の自室に戻ってくることができた。
乾いたバスタオルを取り出した彼は、それを天井のシェラに投げる。
「適当にそのへん座ってて。着替えてくる」
「あ、はい」
少女はぺたりと天井に座ると、狭い室内を見回した。
六畳一間の部屋は、散らかっているというわけではないが、まったくすっきりはしていない。それはアキラの趣味の影響で、ワンルーム内のあちこちに食玩や付録の模型が飾られているためだろう。
部屋にあるものはシンプルなベッドと机、備え付けの本棚とクローゼットだけで、寮の他の部屋と変わりがない。ただし窓枠や本棚の一角は、ミニチュアビル群が所狭しと占領しており、ある意味圧巻の眺めだった。アキラが数年かけて集めたそれらは、どれも非常に精巧なものばかりで、充分な広さがあれば大規模なジオラマが作れるほどだ。
頭からバスタオルにくるまっていたシェラは、アキラが洗面所から戻ってくると、机の隅に置かれた小さな公園を指さす。
「こういうの好きなんですか?」
「うん。よくできてるだろ」
濡れた制服からTシャツに着替えたアキラは、ベッドに腰かけると備え付けの救急箱から治療シートを取り出した。簡単に血を流してきた耳と両腕にそれらを貼っていく。鏡で見たところ、耳も多少外側がえぐりとられているくらいで、シートを貼っておけば一晩で治るだろう。
アキラは天井に向かって手招きした。
「シェラも腕怪我してるだろ。貼っとけよ」
「湿布? それ貼るとどうなるんですか?」
「治る」
「え?」
「そっちにはこういうのないのか」
外傷はよほど大怪我でなければ治療シートでじゅうぶんまにあう。完治までにかかる時間はまちまちだが、鎮痛効果もあるのでさほど気にならない。
シェラは不思議そうな表情で説明を聞いていたが、アキラが再度手招くと天井から下りてきた。ハンカチを巻いただけの傷口を出そうとして、だが口を押さえると大きなくしゃみをする。白い頬ははじめに見た時より、若干青ざめていた。
「ひょっとして寒い?」
「う……はい」
「ちょ、それ早く言えって」
自分が濡れているように見えない、という言葉のせいで忘れていたが、アキラと契約した今はシェラも五感が変わったのだろう。よく気をつけて見れば縮こまってカタカタと震えている。濡れた服は華奢な体にべったりと張り付いたままで、彼女にタオルだけを渡していたアキラは、いささかあせって立ち上がった。
「とりあえず防水だからシート貼るぞ」
「はい」
「あと、そこ狭いけどユニットバスになってるから。入っとけ」
「お風呂、ですか……」
「嫌ならいいけど。風邪引いたら困るだろ。服は俺の適当に渡すから」
ベッドの下の引き出しを開けて着替えになるものを探そうとしたアキラは、遅れて彼女が困惑する理由に気づいた。さかさまの少女を見上げる。
「まさか、上下逆だと溺れたり?」
「かも、しれません」
「じゃあ、そこはシャワー使うとか、何とか」
それでも色々大変なのかもしれないが、体調を崩すよりはましだ。アキラは使っていないスウェットの上下と新しいタオルをまとめてシェラに渡した。少女は複雑な表情でそれらを抱えると、宙を漂いドアの向こうに消える。
彼女を見送ったアキラは、濡れてしまったバッグから中身を取り出そうとして――だがふと現状のおかしさに気づいた。
「あれ……なんだこの状況」
――寮の自室にかなりの美少女を連れ込んでいる。
しかもその相手にシャワーを使わせて、自分の服を着替えとして渡しているのだ。
これは色々削ぎ落として考えれば、非常に胸躍るシチュエーションなのかもしれない。
だがそう思って考えてみても、アキラの中には妙な落ち着かなさが沸くだけであり、特に嬉しいとは思えなかった。その理由はと言えば、やはり彼女の見た目にあるだろう。
「さかさに浮いてるってな。それだけで違う生き物って感じ」
単に浮いているだけならともかく、上下反転しているという事実は少女の美貌を相殺するに充分な不審点であるようだ。ずっと見ていると自分の感覚が危うくなってくる気さえする。
アキラはバッグの中から教科書を救出すると、それを机の上に重ねた。買った雑誌も幸い車道に残っており、少し濡れてはいたが付録に問題はない。透明のビニールに包まれた第八都市空塔の模型を、アキラは丁寧に取り出す。
白くすらりとした空塔は、それだけで美しい。
第八都市に生きる者のほとんどは、多かれ少なかれこの白い塔に誇りと憧憬を抱いていると言われるが、それは決して誇大な話ではない。アキラもまた例外ではなく、彼は満足感を抱いて人差し指ほどの塔模型をじっと見つめた。
その時ふとどこまでも白い空が、ぼやけた記憶をともなって脳裏をよぎる。
「姉貴のために、か」
あの異様な状況においてアキラが契約を決意したのは、言ってしまえばその動機に押されたからだ。シェラの言葉に嘘がないと感じたから引き受けた。
だが結局そういうアキラは、まだ自分の過去について納得しきれていないのだろう。彼は振り返って窓の外を眺めた。黄昏を終えた鏡面は、群青色から黒へと変じつつある。けれど暗くなっていく世界の中でただ一つ、高くそびえたつ白い塔が浮き立って見えた。
空面制御塔――通称空塔と呼ばれる建造物。
ここ第八都市にある空塔は、白く細い円柱の形をしており、その壁面には一ヶ月先までの天候予定が表示されている。
もっともアキラの部屋からでは遠すぎて、天候予定まではさすがに見えない。ただ空塔は青白いライトに照らされ、きらめくビルの向こうに静謐な空気をまとって佇んでいた。アキラはしばらく空塔を見つめていたが、肌寒さに気づくとブラインドを下ろす。
「そういや虚都の方にも空塔ってあるのか?」
「ありません」
「ないんだ」
反射的に答えたアキラは、ぎょっとして振り返る。見上げると天井には、いつ帰ってきたのかだぼつくスウェットを上だけ着たシェラが座っていた。濡れた髪を器用にバスタオルでまとめている彼女は、ちゃんと温まってきたらしく白い頬がうっすら上気している。並んで揃えられている細い素足につい視線をやったアキラは、あわてて目をそらした。
「なんで下履かないんだよ」
「長くて引きずってしまうんです。髪ってどうやって乾かすんですか?」
「普通にドライヤー」
引き出しからドライヤーを取り出したアキラはそれを天井に渡そうとしたが、コードの長さがどうしても足りない。
そのことを察したシェラは自分で下りてきた。ベッドに座る彼と同じ目の高さで宙に立つ少女は、もたもたと慣れない手つきで髪を乾かし始める。スウェットの下から覗く小さな膝頭を見ないように、アキラは手元でふやけてしまった雑誌を開いた。そこには十二で一つの円となる全都市の完成模型写真が掲載されている。
少女の澄んだ声がドライヤーの音に重なって聞こえた。
「空塔はこちらの世界特有のものです。私のいた方……虚都にはありませんよ」
「じゃあ空を支えてるのはこっち側なのか」
二つの世界で共有しているという鏡面体についてそう言うと、シェラは微苦笑した。
「こちらでは空と空塔は切り離せない存在のようですね」
「切り離したらやばいだろ。鏡面体が落ちてきたらどうするんだ」
「でも、たった十ニ本でこれだけのドームを支えられているというのも、不思議な話だと思いませんか?」
「そうかな。別に考えたことなかった」
空塔のテクノロジーについて、一般にはほとんどが伏せられている。
だが、それらを知らなくとも生きていくことはできるのだ。この地上に生きる人間たちが「虚都」について何も知らないように。
「向こうではみんなそうやって浮いているわけ?」
たいして考えもせず口に出した疑問に、シェラはくすくすと笑い出した。
「いいえ。こちらと同じように歩いてますよ。飛んだり浮いたりはできません。今、こうなっているのは私たち来訪者の存在属性が、元の世界のもののままだからですね」
「ふーん。よくわからないな」
「たぶん、街や文化自体はそれほど変わりがないです。私たちの方が進んでいるところもありますが、こちらにしかないものもあります」
「なるほど。まったく交流ないのに変な感じだな」
アキラは、腰まである長い黒髪に一生懸命ドライヤーをあてている少女を見上げる。
他の人間には見えないという彼女は、まるで幽霊のようなものだろう。虚都人がこちらに来ると、みなこうなってしまうのだろうか。だとしたら、今まで虚都について何も知られていないのも頷ける。
アキラはまだまだ時間がかかりそうなシェラの様子を見て、「夕飯買ってくる」と部屋を後にした。寮の一階に下り、小さな売店で食べ物を買い込む。自分のためにカップラーメンとおにぎりを選んだ彼は、契約相手である少女の食事に悩んだ。
「パンとかにしとけば食べられるか……? ぼろぼろ落とされても困るしな。あとはストローも買って、と」
「なに、子供でも遊びに来てるの?」
「うおっ」
突然背後からのぞきこまれたアキラは、思わずその場でのけぞった。見るとそこにはよく知った友人の姿がある。
帰ってきたばかりなのか制服姿のカイは、驚くアキラに目を丸くした。
「なんだよ。こっちが驚くよ。ってか、耳どうしたの?」
「や、悪い。急に話しかけられたから……。耳は、ちょっとその、ぶつけたんだ」
つい驚いてしどろもどろになってしまったが、よく考えてみればシェラは誰にも見えないのだからあわてる必要もない。アキラはそう自分を落ち着かせると話題をそらした。
「こんな遅くまで学校にいたのか? お前も生誕祭準備とか?」
「違うよ。空塔を見に行ってたんだよ。アキラは降られなかった? 予定外の雨」
「……ああ」
言われてみれば、そんなこともあった。
続く出来事が強烈すぎて忘れかけていたのだが、確かにあの雨のせいで必要以上に濡れてしまったのだ。そもそもその話を最初に教えてくれたミヤも「カイくんに聞いた」と言っていたのだから、この友人は前から変化に敏感でいたのだろう。
アキラよりもずっと優等生で知られるカイは、珍しく興奮ぎみにまくしたてた。
「実は前にもあったんだよ。全部真夜中だったんだけどさ。どんどん回数が増えてるなって思ったら、今日あれだろ? もうおれ、空塔まで行ってきてさ」
「わざわざ行ったのか!」
「ポート三つ経由しただけだし、すぐだよ。そうしたら天候予定の表示が全部消えててさ、他にも集まってきた人間けっこういたけど、ちょっとした騒ぎになってたよ」
「なんか発表とかは出てたわけ?」
「何も。システムトラブルが起きてるんじゃないかって噂だけど」
空塔マニアとして知られるカイは、肩をすくめて見せた。その手に新品のメモリースティックが握られているのは、大方今日空塔に行った際、撮影しすぎて古いメモリがいっぱいになってしまったなどの理由だろう。二人は無人レジに並ぶと学生証で清算する。学校施設内での買い物は、こうして学生証があれば全て事足りるので便利だ。
もっとも学生証での決算は個人口座のデータと直結しているので、残高を割ってしまえば自動的に使えなくなる。アキラなどは毎月の支給金額を上回って使うことはないが、クラスメートの中には、常に口座にぎりぎりの金しか残っていないという人間も珍しくない。
売店を出たアキラに、隣を行くカイは声を落として続けた。
「実はこれ、未確認情報なんだけどさ。この天候異常って、どうやら全都市で起きてるらしいんだよ」
「全都市で? そりゃ思ったよりおおごとだな」
各都市の天候は、それぞれの空塔によって制御されている。鏡面体である空は全てがつながったドーム型になっているが、実際の操作は内部でわかれているのだ。
その全てで異常が起きているのだとしたら、事態はかなり複雑だ。空塔管理部は今ごろ大あわてでいるのかもしれない。アキラは、空や空塔がどのようなメカニズムで動いているのか詳しく知らないため、他人事のように「大変そうだ」という感想を持つに終わった。
カイは廊下の前後を確かめると、さらに小声になる。
「それでさ、実は昨日の夜中、空塔に光が灯ったって話があるんだ」
「光?」
「そう。深夜二時過ぎに空塔の最上層近くに青白い光が現れたっていう……。映像には残ってないし、見たっていう証言があるだけなんだけど、何人か同じことを言ってる。それでやっぱりこれも、全部の都市で起きてるって噂があるらしいんだ」
「へえ……なんか変な話になってきたな」
どちらかというと、都市伝説や怪談に近いのではないかという話だ。
空塔には基本的に窓がない。そのため最上層近くで本当に光が灯って見えたのだとしたら、それは塔の外側に光があったということだろう。そのような上空にいったい何があるというのか、アキラは大きく首をひねる。
空塔の話や生誕祭の話をしながら三階まで戻って来た二人は、アキラの部屋の前で別れた。カイは笑って手を上げる。
「じゃ、またなんかおもしろい話があったら教えるよ」
「よろしく」
「アキラもなんか変わったことに気づいたら教えてよ。よく空見てるんだしさ」
友人の言葉に、まさか虚都人が降ってきたとは返せなかった。
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