mudan tensai genkin desu -yuki
霧雨が降り注いでいるせいか、外からの音は何も聞こえない。その代わり倉庫内に響き渡るのは、聞いたばかりの彼女の名前だ。
「シェラ・ハーディィィィ!」
コンテナの裏に身を潜めたままのアキラは、スガの剣幕に首をすくめた。
「できるならこのまま逃げて二度と会わないってのを希望したい」
「無理でしょう。同じ都市にいる限り、いずれは遭遇します。向こうに代行者がいない今のうちに手を打った方がいいです」
「俺は心の準備が欲しかったよ」
石橋を叩いて渡るというほどではないが、何でも勢いで行動できるような性格ではない。契約についてもしっかり説明を聞いてから決めたかったとは思うが、そうしていてもやはり同じ結果になるのかもしれない。アキラは、少女の真剣な横顔を視界の隅にみとめる。
二人は近づいてくる気配に耳を澄ませ、タイミングを計った。足音がない代わりに、罵声とコンテナを蹴る鈍い音がこだまする。
「出てこい、クソが! シェラ! ここで逃げたって、てめえに逃げ場なんてねえぞ! 他のプレイヤーはてめえを邪魔に思ってるぜ! だからスキルが割れてるんだろうがよ!」
鉄骨が組まれた天井に、赤い火花が散る。
その光を眼下に見下ろしながら、だがシェラはもう動揺を見せない。彼女は両腕の中に抱えたものへと視線を移す。
「うまくいくでしょうか」
「そんなのわかるか」
成功するかどうかなど、アキラの方が聞きたいくらいだ。下敷きサイズの薄い鉄板を手にした彼は、なかば自分に言い聞かせるようにして言を重ねる。
「だめだったらすぐ次だ。いつまでも同じところでこだわっててもしかたないだろ。みんなそうやってるし、いつかはチャンスが巡ってくる」
シェラはそれを聞いて、何か物言いたげな目でアキラを見た。だが結局は長い睫毛を伏せて頷く。それを了承の意と見て、アキラ自身も覚悟を決めた。
「この街ごと潰してやろうか! シェラ! お前の親父がどんな顔するのか見物だぜ!」
狂犬を思わせる叫びは、悪意にまみれた醜悪なものだ。
だがそれは、今に始まったものではない。アキラは鉄板を持ち直すと少女に合図する。シェラは頷いて移動を始めた。また震えそうになる手にアキラは力を込める。
「気をつけて、アキラ」
「そっちもな」
彼女の言葉を背に、アキラはコンテナの影から歩き出す。
広い部屋の真ん中にいる男までは直線で八メートルほど。アキラは低い声で呼びかけた。
「おい」
「ああ?」
コンテナを蹴っていたスガは、ゆっくりとした動作で振り返った。左目を細めたままなのはシェラによって傷つけられたからだろう。黒いキャップを元通りかぶった男は、左手で首を押さえている。
「テメエから死にに来たか、代行者」
「実は俺もいまいち状況がわかってないんだけどな」
「今さら謝っても手遅れだ。オレが空塔を制圧したらこの都市はまっさきに潰してやる」
「……は?」
その宣言が単なる冗談ではないことは、男の傾いた目を見れば明らかだ。アキラは思わず息を飲む。
――この男は、街の象徴たる空塔を制圧し、第八都市自体をも潰すという。
突然空の向こうからやって来て、何もかもを蹂躙してやるというのだ。
さかさまの闖入者一人が都市を相手に、いったい何ができるというのか。短絡的すぎて意味がわからない。正気かどうかも不明だ。
だがそれら全ての困惑をよそにおいても、向けられる悪意だけは本物だった。
アキラは息を止める。
じりじりと頭の中が熱くなる。苛立ちが湧きあがり、それはすぐに憤りとなった。アキラはぽつりと呟く。
「……わかった」
「何か言ったか?」
「やってやる、っつってんだよ!」
埃のつもる床の上を、アキラはスガに向かって駆け出す。男は乾いた笑いを見せると右手を上げた。光る指先。それを見たアキラは大きく横に跳んで閃光を避ける。スガはさらに少年を追って腕を振るうと、光を打ち出した。
「逃げるばっかりか? あ?」
挑発の声にアキラは答えない。彼はスガを中心として弧を描くように走った。途中、積まれていたコンテナの裏に入り光をさえぎる。飛び散る火花が鮮やかに倉庫内を照らし、ぱちぱちと音を立てて消えた。
「これ、凶悪な花火だよな」
アキラはうすら寒さを覚えながらも、そのままそこに身を潜めるようなことはしない。すぐにまた男の視界へと飛び出した。スガの攻撃に捕まらぬよう走る。
――相手の動きは鈍い。
虚都人は空中を機敏に移動できないのだ。だが、その有利も接近しすぎれば無になる。アキラは鳩尾に食らった一撃のことを忘れていなかった。近づく代わりにズボンのポケットから薄いスパナを取り出す。
「うまくいけよ……」
アキラは倉庫の隅で拾ったそれを、振りかぶるとスガに向かって投じた。スパナはくるくると縦に回転しながら飛ぶ。間を置かずアキラはその後を追って、自分も走り出した。
「は? やけになったか?」
スガは嘲笑を浮かべて赤光を放つ。スパナを狙ったのだろうそれはしかし、空中に赤い火を弾けさせただけだった。飛来する金属は勢いを止めぬままスガの脇腹に命中する。男はわずらわしげにそれを払った。
「バカか、効かねえよ」
「知ってるっての!」
スパナを投げたのは単に接近するための時間稼ぎだ。そしてスガが向かってくる攻撃に対してどう動くか見たかった。
スガまで残り二メートル。アキラは右に跳んで次の閃光を避ける。そのまま半時計回りに走ると、すぐには転回できぬ男の後ろへと回り込んだ。首をひねって振り向こうとするスガの視界外から、後頭部を素早く蹴りつける。
「テメエ!」
「前向いてろ!」
相手が俊敏に動けず、閃光に頼りきっているなら、たんに正面から挑まなければいい。アキラは後ろに向けられようとする右腕を思いきり蹴り上げる。
「……ぐ……っ」
衝撃が肩に響いたのか、男は苦痛の声を上げた。アキラはもう一度スガの頭を蹴ろうとして――だがびくりと動きを止める。
焼け付く痛みが左耳に走る。
バランスを崩してアキラはよろめいた。赤い光が背後のコンテナにぶつかって爆ぜる。
声は出ない。ただ光がかすめていった耳がひどく熱い。触れずともそこが血濡れているのがわかった。
指だけを曲げ、閃光を撃った男が振り返る。
「クソ、外したか」
こめかみを打ち抜くつもりだったと言わんばかりの舌打ちに、アキラは数歩後ずさった。
喉の奥がカラカラと乾いて痛い。不思議なことに、激痛を訴える左耳よりも渇きの方がずっと気になった。心臓の鼓動が早くなりすぎて、全てがやけに遠く見える。
スガは宙を踏んでアキラを笑った。
「いまさら怖気づいたか。住人ごときが調子に乗ってるんじゃねえぞ」
「……怖気づいてるわけじゃない」
「は? 強がりか?」
「巻き添え食らわないように、って思ってんだよ」
アキラの言葉と同時に、倉庫の天井から臭いのする液体が降り注ぐ。
それは真下にいたスガの両足を濡らし、服に染み込んで顔にまで滴った。
「なんだ?」
スガは顔をしかめて液体の降ってくる眼下を見下ろす。それを狙っていたように、空になった灯油缶が投げ捨てられた。くすんだ銀色の灯油缶は男の足にあたり、激しい音を立てて床に転がる。
アキラが男の注意を引きつけている隙に天井を移動していたシェラは、持っていた灯油を全てかけてしまうと緊張のまなざしで二人を見上げた。
その視線を受けてアキラは床を蹴る。彼は濡れて見えるスガに向かい、距離を詰めた。
シェラを見下ろしていた男は、彼に気づいて右手を上げる。
「バカか。意味ねえよ」
「言われなくても!」
濡れているように見えるのは、アキラの目にだけだ。
来訪者の彼らは、自分が濡れていると認識しない。ただ「液体と接している」と感じるだけだ。そしてそこからなんの影響も受けない。
だがアキラはそうとわかった上で、正面からスガへと肉薄する。
拳を振りかぶれば届く距離。男は当然のように赤光を放った。
鮮烈な敵意の光を、アキラは至近から鉄板で受ける。
飛び散る火花。その飛沫が灯油のたまるキャップのつばへとかかった。
アキラは息を飲んで起こる変化を待つ。
けれど彼の期待もむなしく、火花は消えて何も起こらなかった。
「クソ、だめか」
「火でもつけようってか? この程度でつくわけねえだろ」
「たしかに」
言いながらズボンのポケットに手を入れる。
スパナが入っていたさらに奥、目的のものをつかんだアキラは、それを素早く取り出した。同時に振りかぶられる拳を左手の鉄板で受ける。その濡れた袖口へと、汚れたライターを近づけた。カチリと音がして、オレンジ色の火が男の袖へと移る。
アキラはそれを確認して飛び退くと、小さなライターを手の中で振った。
「発火装置が壊れてるストーブで助かった。俺、ライターなんて持ち歩いてないからな」
引火した火はゆっくりとゆらめきながら袖をのぼり、スガの白いパーカーを燃やし始める。
しかし男はなんら焦ることなく、自身の様子を眺めた。
「それで? 火なら効くと思ったか?」
炎に包まれつつある男。アキラはその動きに注意しながら、スガ自身の目に今の状況がどう見えているのか気になった。だがそれは、みるみる体中に舌を伸ばす火を、男が消し止めようとしないことからも明らかだろう。
アキラは耳の激痛を他人事のように感じながら、呼吸を整える。
そしてスガを指さし宣言した。
「俺の確信が生む五感と、あんたの五感を入れ替える」
スキルの使用。相対者へと向かう意志。
脳の奥がかっと熱くなる。軽いめまいがアキラを襲った。
しかしそのめまいも、続く男の絶叫を前にかき消される。
アキラの五感によって火だるまを味わうことになったスガは、不恰好な人形のように宙をのたうった。
「ぐああああああぁぁぁぁ!」
アキラの目にその姿は、まるで滑稽な遊びのように映る。
セロファンで作られたような平たい炎が、スガの全身に貼り付けられ、ゆらゆらと震えて見えるのだ。
シェラの言葉を借りるなら、おそらく未契約の虚都人にのみそのように見えているのだろう。天井付近に浮いたままの彼女は青ざめた顔で、もがくスガを凝視していた。
アキラは入れ替わった五感への驚きから覚めると、スガに向かって駆け出す。
――入れ替えはもって三十秒だ。その間に勝負を決めねばならない。
彼は袖をまくった腕を振り上げ、暴れるスガに狙いを定めた。
「お前が! 帰れよ!」
勢いのまま全体重をかけて、アキラは拳を叩き込む。
固く握った拳はセロファンにしか見えぬ炎を越え、男の鼻を割り砕いた。黒い血が飛び散り、スガが濁った悲鳴をあげる。アキラはそこで手を休めることなく、再び拳を振り上げた。何かにとりつかれたようにスガを殴り続ける。
「――アキラ!」
頭の中がじんじんと熱い。
シェラの叫びがやけに遠く聞こえる。
ただひたすらに、拳を振るった時間。
その終わりにスガは、パキンと乾いた音をたて、その場から消えうせた。
冷え冷えとした静寂が戻ってくる。標的を失ったアキラは、茫然と何もない空間を見つめた。
炎も、灰のひとかけらもそこには残っていない。
ただ男を殴り続けた手には黒い血がこびりつき、彼の両腕は焼けて皮がひきつれるように痛んでいた。床には空の灯油缶と、小さな赤い石が転がっている。
「……終わったのか?」
「ええ」
ゆっくりと下りてきたシェラが、手を伸ばしてその石を拾い上げた。彼女は、いびつなビー玉に似た石をアキラの前に示す。
「スキル石を置いての消失……これはつまり、彼がプレイヤーから下り、元の世界に転送されたということです。もう二度とスガはこちらの世界には来られない。――あなたの勝ちです」
「俺の、勝ち」
勝利の言葉は、今までの平凡な人生からはどこか浮き立って聞こえる。アキラは火傷を負った手で、血の流れる左耳を押さえた。先ほどまでただ熱く脈打っていただけのそこは、今はじんじんと痛みが増してきている。
「なんつーか、夢だとしたら痛いな……結構後味悪いし」
「すみません」
顔を曇らせて謝る彼女は、最初の頃の強引さがみじんも残っていなかった。戦闘が起きるなど予想外のことだったのだろう。消沈した姿はずぶぬれであることとあいまって、ひどく頼りなく見える。アキラはそんなシェラの様子に小さく息をついた。
頭の中を支配していた憤りと高揚はすでに消え、後には吐き気にも似た気だるさが残るだけだ。スガの異常さにあてられて、自分もおかしくなっていたのかもしれない。アキラはわきあがる眩暈を悟られぬよう軽い口調で返した。
「あー、まぁ、俺じゃなくて、俺たちの勝ちだろ」
「え……」
「よし、バッグ回収して帰るぞ。雑誌も残ってたらラッキーなんだけどな」
もっとも雨のせいで荷物はぐちゃぐちゃになっているだろうし、彼自身もぼろぼろである。寮に戻ったら友人たちに原因を聞かれるだろう。アキラは適当な言い訳を考えながら歩き出す。
シェラがその後をもたもたと追ってきた。
「私も行っていいんですか?」
「他に行くところあるってなら好きにしろよ」
「行きますっ!」
あわてての返答に、彼は気の抜ける思いを味わう。体が少しだけ軽くなった気がして、宙に浮く少女を振り返った。
「じゃ、帰ってから詳しい話聞くから」
「はい……よろしくお願いします」
今はまず、怪我の手当てと濡れた服の着替えが必要だ。それから先のことはその後に考えればいい。
アキラは虚脱した体を引きずって空倉庫を後にする。
彼の歩いた後には、血と泥が点々と重なりあい、いびつな線を描いていた。
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