曲空虚空 31

mudan tensai genkin desu -yuki

 空である鏡面体の上には、同じ鏡面を空とするさかさまの都市――「虚都」がある。
 まるで子供の空想のような話。けれどその一節は実際、十二都市全ての記録に共通して記されており、都市公認のものとなっている。そして記録にはそれ以上の記述はない。
 都市に生きる者はみな、なにも知らぬまま平穏な毎日を送っている。
 色の変わる鏡の空と、白く美しい空塔を誇りに思いながら。

 エジードの手から落ちたシギルは、石畳のひび割れにすっぽりとはまりこんでいた。
 身をかがめてそれを拾い上げたアキラは、台座を振り返って笑う。
「ほら、あったぞ」
「投げないでくださいね。落としちゃうかもしれませんから」
「わかったよ」
 アキラは少女の待つ台座にまで戻ると、手に持ったシギルを差し出す。
 宙に浮かぶシェラはしばらくそれをじっと見ていたが、やがてとても貴重な宝石に対するように、両手のひらで珠を受け取った。彼女がそれを胸に押し戴くさまを、アキラは静かな目で見つめる。
 ──決して楽なゲームではなかった。
 アキラもシェラもともに負傷し、特に彼はずたぼろの有様だ。チェンジリングが解けたミヤは、契約が消失した反動か気を失って眠っていた。
 だがそれでも勝利を手にすることができた。自らの手で都市を守りきったのだ。
 シェラはその証たる珠を両手で掲げる。上から下へ捧げられるシギル。透明な珠はコトリと小さな音を立て台座に置かれた。
 次の瞬間、シギルからはまばゆい光があふれだす。
「……っ」
 あまりのまぶしさに、アキラは腕で目を覆った。
 脳の中までを焼く白光。上下の感覚が消え、宙を漂っているような感覚が襲う。もしかしてここで全てが消え去ってしまうのかもしれない。──そう思うほど外も内も全てが溶けあって、何もわからなかった。
 だが目を固くつむっていたアキラは、ふっと光が消えたことで腕をおろす。
 そうして瞼をあけて息を飲んだ。
「──シェラ」
 淡い緑色のサンドレス。宙に広がる黒髪。現実のものとは思えぬ繊細な美貌。
 アキラの目の前には、あの日と同じ、さかさまの少女が浮いていた。
 腕や背を汚していた黒い血も、今は綺麗に消え去っている。雨に濡れていない以外、その姿は何一つ最初と変わらない。アキラは時が巻き戻ったかのような錯覚に言葉を失った。今までのことが全て夢だったのかとさえ一瞬疑ってしまう。
 だがこれは夢ではないだろう。
 もっとも空に近い場所。瓦礫だらけの広場をささやかな風が吹いていく。
 少女の閉じていた双眸がゆっくりと開かれた。その瞳を見た時、アキラは一つだけ残る変化に気づく。
 強い感情をたたえて彼を見る目。震える声が彼を呼んだ。
「アキラ……」
「──帰るのか?」
 それは聞かずともわかっていたことだ。
 彼女は帰る。彼女の世界で、この世界を守るために動き出す。だからアキラが助けられるのは、ともにいられるのはここまでだ。
 シェラはじっと彼を見つめていたが、やがて濡れた睫毛を揺らして首肯した。
「ええ……今までありがとうございます」
「そっか。そうだよな」
 それ以上の言葉がうまく出てこない。言うべきことがあったはずなのに、必要な言葉はどれも見つからなかった。シェラは淋しそうに微笑する。
「あの、私……」
 空の色が変わり始める。
 赤から紫に、そして澄んだ青に、世界の境界線は色を変える。
 シェラは逡巡を表に出すと、言いかけた言葉を切った。目を伏せて小さくかぶりを振る。長い睫毛を伝って涙がこぼれていくのを、アキラはじっと見ていた。
「ア、アキラ。私、きっとあなたに応えます。この世界を守りますから……」
「ああ……気をつけろよ」
 台座に置かれたシギルが不意に音を立てて砕け散る。
 驚くアキラの目の前で、シギルの破片は白く光る粒となって舞い上がった。少女の髪に、服に、腕に次々吸いついていく。そしてそれらが触れた部分もまた、白い粒となってゆっくりと空気中に拡散しはじめた。
「あ……っ」
 散っていく己を見てシェラは小さく声をあげる。
 嗚咽にも聞こえる声。あまりの光景に愕然としかけたアキラは、この時ようやく残された時間がもうないのだと実感した。探していた言葉が喉を突く。
「っ、シェラ! むこうで困ったら俺を起こせ!」
 何が現実を定義するのか。その答は自分に決まっている。
 だからどちらの世界でも変わらない。アキラにとってその時目の前に広がる世界こそが現実だ。二つの世界は等価で、その両方を受け入れられる。踏みしめる地を信じて進む。
「かならずお前を助けてやる! 名前が違っても、顔が違っても、俺は俺だ! かならずお前の力になる!」
「アキラ……っ」
 くしゃくしゃの泣き顔になっていたシェラは、その言葉を聞いて嬉しそうに笑った。
 裸足のつま先が消えていく。長い黒髪が宙に散り、その体も次第に薄れていく。
 シェラはせいいっぱい細い両腕を伸ばした。アキラはその手を取って少女を引き寄せる。
 寄せられる体。やわらかな温もり。
 空を泳ぐ魚のように、彼女はしなやかに自分の上下を変えた。
 黒い髪が尾を引いてアキラの視界に広がる。何よりも深い瞳が涙に濡れてまたたく。
 頬に触れる手。額と額が触れあう。その一瞬に思い出がよみがえる。
 そうして彼女はただの少女のように笑うと──目を閉じてそっと彼に口づけた。
 偽りではない温もり。唇が離れた時、最後の言葉が伝わる。
(ありがとう)
 澄んだ響きはアキラの中に溶けて消える。
 やわからかな風が吹き抜ける。
 彼女の消える音は、何よりも澄み切って空の下に響いた。
 腕の中から消える温度。アキラは少女の姿を追って顔を上げる。
 見上げた空は、美しい青色だった。