曲空虚空 30

mudan tensai genkin desu -yuki

 怪我を負った体はシートの鎮静が効いてはいるが、普段どおりには動かない。
 勝負を長引かせては、負けるのは自分たちの方だろう。アキラは白い石タイルの感触を靴で確かめた。台座越しにミヤを見る。
 黒い右袖からは三本の鞭がこぼれ、しゅるしゅると動いていた。そういえば劇で彼女は、魔女の役をやることになっていたのだ。案外あれがそのまま衣裳なのかもしれない。衣裳合わせを見ていなかったアキラは苦笑する。
「ちょっと待ってろよ、ミヤ」
 さっきは致命的な一撃を食らってしまったが、一応シェラと簡単な打ち合わせはした。どこまで上手くいくかはわからないが、まずはやってみるだけだ。
 白い石タイルには頭上の赤い空が映っている。周囲には足がすくむほどの絶景が広がっていた。アキラは一度深呼吸すると走り出す。直線上にある台座を左に避け、ミヤにむかって距離をつめた。エジードが少女に命じる。
「足を狙え」
 命令と同時にふるわれた鞭は、石畳すれすれを薙いでいった。しかしそれを予測していたアキラは、三本全てを跳び越えて走る。がらあきになった少女へと肉迫した。
「ミヤ!」
 握った右手を振りかぶる。
 腹を狙って気絶させようとした拳。けれどそれは、だぼつくローブを殴っただけで空を切った。大きく後ろに跳んだ少女は右手を上げる。
 ──鞭が戻る。
 アキラは身を伏せてそれをよけようとした。空気の鳴る音。遅れて背中に痛みが走る。
「痛っ……」
 どうやら鞭の一本が背を掠めていったらしい。アキラは態勢を崩して片膝をついた。ミヤの目が彼を見下ろす。一瞬の空隙。だが少女は迷わず右手を振り下ろした。
「ちょ……っ!」
 なかば反射的にアキラは横転して鞭をよけた。赤い縄が彼のいた場所を強打する。
 つややかな石のタイルに大きな亀裂が走り、石の破片が周囲に飛び散った。立ち上がったアキラはうんざりした顔になる。
「これ以上出血したら貧血で倒れるだろ……」
 じんじんと熱い背中がどうなっているか、自分では見ることができない。だがそれは、石畳についた血を見れば見当がついた。
 少女の手に戻った鞭が宙をくねる。ミヤは再び右手を振り上げた。しかしそれが空を切るより早く、彼女の背後にシェラが取りつく。シェラはミヤの右腕をつかんだ。
「アキラ! 今のうちに!」
「わかった」
 倒れそうな全身を酷使してアキラは走る。シェラともみあうミヤに手を伸ばし、細い肩をつかんだ。鳩尾に拳を叩き込もうとする。
 けれどアキラの右手は彼女に触れる直前で止められた。何かが絡みつく感触に自分の手を見下ろした彼は、奇怪な光景に思わず唖然とする。赤い鞭三本のうちの一本が、途中からさらに細い糸として枝分かれし、びっしりとアキラの手を絡み取っていたのだ。
「げえ、ってなんだこりゃ!」
「そのスキルは『ヴァイン』と言う。チェンジリングほどではないが、応用の利くスキルだ」
 エジートの補足が耳に入ったが、それについて考えている余裕はない。
 赤い糸は見る間にアキラの拳から腕、腕から肩へと先端を伸ばしつつあり、捕まった右手は引こうとしても動かせなかった。
 アキラは残る二本の鞭のうち、もう一本も同様に解けるのを見てはっとする。
「シェラ! 離れろ!」
「あ……」
 ミヤに取りついていたシェラは、それを聞いて空中に逃れようとしたが、何もない宙ではとっさに動けない。アキラは左手で彼女を指さす。
「シェラと俺の、かかる重力を入れ替える!」
 宣言と同時にアキラの体は浮き上がった。代わりにシェラは石畳へと落下し、赤い糸の先端から逃れる。小さな悲鳴をあげて少女は石の上を転がった。
「ミヤから離れてろ!」
 シェラは猫のようにタイルに手をついてすばやくその場から逃れる。
 さかさに浮いたアキラは、左手で赤い糸をたぐりよせると鞭の枝分かれする部分を握った。一メートル下の石畳を見ながら叫ぶ。
「解除する!」
 下へとかかる重力。アキラはその勢いを利用して両腕に力をこめた。体を半回転させ石畳に着地しながら全身のバネを使って両手を振り下ろす。
「っ、せっーの!」
 そこまでうまくいくと思ったわけではない。だが小柄なミヤの体は鞭ごと綺麗に投げだされた。アキラの右手から赤い糸が離れ、少女はボールのように石畳の上を軽く跳ねて起き上がる。
「ってか、怪我すんぞ! 鞭放せよ、お前!」
「スキルは離れませんよ……」
 戻ってきたシェラはわずかに青ざめて言ったが、すぐに険しい表情でつけたした。
「ヴァインというからには本来は鞭ではなくつる草を模したスキルなのでしょう。扱いやすさと攻撃力のために、普段はあえて三本に縒ってあるのではないでしょうか」
「ひょっとして、さっき俺を吹っ飛ばしたのもアレか?」
 アキラの体の前面は、広範囲に渡って裂傷が走っている。中には相当深いものもあり、スキルによって生み出された赤い糸の強度を思わせた。
 二人の奮闘を見たエジードが小さな溜息をつく。
「まだ諦めるつもりはないのだろうか。私はあまりハーディ嬢を傷つけることはしたくない」
「本物の人間だからか?」
「ビジネス上の問題だ。ここでの禍根を現実で引きずりたくない」
 男からすると、この争いなど本当に作られた盤上のゲームに過ぎないようだ。外野にいるかのような物言いに、当のシェラは怒りで紅潮し、アキラは胸糞の悪さに吐き捨てた。
「で、お前は高みの見物か。いい身分だな」
「私からすると見上げている気分なのだがな。ここは実に──不思議な空間だ」
 男の目が第八都市を睥睨する。憧憬とも感嘆ともつかない視線は、しかしすぐに理性的な光へと取って代わられた。エジードは立ち上がったミヤに言う。
「長引かせるな。彼を無力化しろ」
 表情のない少女はは右手をあげる。手の中の糸はすでに三本の鞭に戻っており、アキラを打ち据えようと動いていた。先ほど投げられたせいか乱れた前髪の隙間から、青いプレイヤーナンバーが浮き上がって見える。
「額に7って。似合わないな。写真撮っといてやろうか」
 アキラはなかば本気でそのようなことを考えたが、後でミヤに見せても覚えているかどうかわからない。──むしろ覚えていない方がいいだろう。自分がしたことを知ったなら、ミヤはきっと傷つく。アキラは友人にそんな思いをさせたくなかった。
 後悔にかげりかけた思考を、だがシェラの言葉が支えてくる。
「大丈夫です。彼女はあなたにきっと応える」
「ん? ミヤが?」
「ええ。彼女はあなたの友人で……もう一人のあなたです」
 特定の人物について学習するというタイプC。それが真実であるのなら、ミヤは自分のうつし鏡なのだろうか。だがどう考えても「違う」としか思えない。自分はあんなふうに、誰からも好かれて誰にでも優しいお人よしではない。
「全然似てないって」
「そうですか?」
 似ているところなど一つもない。彼女ならきっとどのような苦境に立たされてもあきらめず笑って乗り越えるだろう。アキラはずっと一緒にいた友人の、しなやかに背筋の伸びた姿を思い出す。今のミヤはそんな彼を、感情のないガラス球のような目で見ていた。
「──そうか」
 小さな思いつき。アキラは疲労のたまる足を軽く叩いた。
 トークでシェラに指示を出そうとした彼は、しかしあることを思い出すと小声で告げる。
「な、お前さ、父親に『好きにしなさい』って言われたって言ってたよな」
「……ええ」
「それたぶん、俺も同じこと言われた。こっちの世界に来る前に。うっすらだけど覚えてる」
 それは、あるはずのない記憶だ。記憶の濁流の中に混ざっていた断片。
 月日が経ち兄の年齢を越した彼は、ある時兄の足跡をなぞりたいと望んだのだ。
 そしてその時、誰かに言われた。
「好きにしなさい、ってさ、突き放してるわけじゃないんだ。自由でいろ、ってことなんだよ」
「え?」 
「チェンジリングはきっと、そのためのスキルなんだ。シェラがこの世界を自由に体験できるようにって」
 プレイヤーとして飛び込んできた彼女には、多くの制限が課せられた。さかさまであること自体その一つである。だがおそらくハーディ博士は、その枠内において娘にできるだけの自由を与えようと考えた。そうして与えられたチェンジリングは本来――この世界の住人と彼女の感覚を入れ替えるためのものだったのだろう。
「だからシェラ、あんまり気に病むなよ。お前はちゃんと家族だ。親父さん言ってたぞ。『もし自分の娘に会うことがあったら、色々教えてやってくれ』って」
「それは……でも、お姉ちゃんのことじゃ……」
「違うって。俺言ったんだよ。『歌手なんて会えるかどうかわからない』って。そしたら『もう一人の娘の方だ』って言ってた」
 ――教えてやって欲しい。いつか君と、同じ道をたどるかもしれない私の娘に。
 あいまいな記憶の中で淋しそうに微笑む男は、ひどく不器用な人間に見えた。
 その不器用さは、シェラもまた持っているものだろう。けれど、家族とはえてしてそういうものだ。
 いつまでも後悔にうつむく必要などない。そう示すアキラに、シェラは小さく息を飲む。
「けど、それならどうして父は私のスキルを……」
「そんなの、うざいやつら排除のために決まってんだろ」
 シェラに体験を与えるためのチェンジリングは、裏を返せばステータス書き換え権を持った最強のスキルである。
 どのような状況からも逆転の可能性を導くスキル。それが父から彼女へ贈られたものだ。立場上表立って競争者を追い払えない博士の代わりに、欲をかきすぎた者たちを排するための武器。博士は食い下がってゲームの内容を問うてきた人間だけに、その存在を伝えた。
「まったくな、期待されすぎって気もするけど」
 偶然か必然か、博士の言っていた娘に出会い、その手を取ったアキラは苦笑する。少女は大きな目を見開いて彼を見下ろしていたが、ふっと表情を崩すと泣き出しそうな顔で微笑んだ。
「……私は、そうだったら嬉しいです」
「そうだろ。現に俺たちは勝ってきたんだ」
 だからここで負けるつもりもない。広がる世界は彼にとって、決してゲームのための盤上ではないのだ。

 トークで打ち合わせた内容はほんの二、三言だ。
 短い了承の言葉を聞き、アキラは再び白い広場を走り出した。
 体はすでに限界に近づきつつある。
 動きにもそれはあらわれているのだろう。よけたと思った鞭は、彼の爪先を払っていった。
 顔からタイルに突っ込みかけたアキラは、とっさに両手をついてそれを回避する。追撃を用心して跳ね起き、さらに右へ跳んだ。彼を追う鞭が顔のすぐ横を薙いでいく。アキラはあらためて息を整え、広場の様子を確認した。
「なかなか壮絶な眺めだな……」
 すでにあちこちのタイルはミヤの攻撃でひび割れ、場所によっては大きくめくれがあがってしまっている。注意していなければすぐつまずいてしまいそうな有様は、アキラが逃げ続けているためのものだった。
 しかしミヤはそれにはかまわずアキラを追尾してきている。二人は一定の距離を保ちながら台座近くをじりじり移動していた。
 代行者の戦闘を見守るプレイヤーは、今は宙にたたずんでいる。広場での戦いから離れ台座の上にいるシェラが、エジードに何かを話しかけた。彼女の手招きに応えて男は高度を下げる。
 ──ねらっているのは一度のチャンスだ。
 アキラは慎重に全ての距離を測った。少しずつ迫ってくるミヤの足もとに目を凝らす。ゆらゆらと首をもたげる鞭の輪郭が、唐突にぶれた。
「──っと!」
 高さを変えて薙いでくる三本の鞭。顔と腹と足を同時に狙った攻撃を、だがアキラは鞭の間に飛び込んですりぬけた。石畳を前転して起き上がり、めくれあがったタイルを跳び越えて下がる。体に痛みは走ったが、彼はそれを無視した。
 ミヤはアキラを追ってまた歩を進める。ひるがえされたローブが風をうけて台座にかかった。
 彼女は何も言わない。エジードが作る影が、少女の整った顔を陰鬱なものに見せた。黒い裾の下からちらりと足が見え、アキラは思わずふきだす。
「なんだそりゃ。そんなのでここまで来たのかよ」
 ミヤが履いていたのは学校指定の上履きだ。おそらく学校にいるところを連れ去られたのだろう。カイが伝えたかったメッセージもそのことに違いない。彼女ははたして劇には出られたのだろうか。出る前にここへ来てしまったのか。ずっと今日の日のために駆けずり回っていた少女の姿を思い出すと、アキラは苦いものを覚える。

 ガタガタになったタイル。少しずつ移動させてきたミヤ。
 最低限の布石はそろった。アキラは少女の足もとの瓦礫を見やってうなずく。
 目を閉じた。頭の中をクリアにする。そして彼は、吐き出す息とともに宣言した。
「ミヤと俺の、視界を入れ替える」
 暗闇を少女へと押しつける。鞭を振るおうとした彼女の手は、だがバランスを崩して下ろされた。視界を失った少女はタイルの瓦礫につまずく。よろめいて膝をついた彼女は、様子を探ろうと右手を前に出した。その手をすばやく駆け寄ったアキラが鞭ごとつかむ。
「解除」
 ミヤは顔を上げる。
 人形のような貌は、空っぽな、それでいて泣きそうなものだった。
 見慣れすぎて多くがわかってしまう顔。アキラはそこに感情を見て、だから笑いかける。
「そんな顔すんなよ、ミヤ。いつもどおりでいろよ」
 赤い鞭の一本が音もなくほどける。それはアキラの両足にからみつき、静かに肉を圧した。残る二本が大きく宙をしなる。その様子を見たシェラが二人の頭上で顔色を変えた。
「アキラ! あぶない……!」
 この場から動くつもりはない。ここが最後の地点だ。
 迫りくる鞭の音を聞きながら、アキラは静かに宣言する。
「ミヤ。お前と俺の、タイプを入れ替える」
 少女の目が見開く。
 アキラの両眼から意思の光が消える。
 だがそれでも鞭はとまらない。彼の背後に黒髪が飛び込んでくる。
 風を切って動く赤は、そのまま激しくアキラの背へと叩きつけられた。
 音が消える一瞬。ゆっくりと崩れ落ちる体をミヤは両腕で抱く。
「あ……アキラ、くん?」
 震える声。唇をわななかせたミヤはその時、床に倒れている少女を見た。
 ずたずたになっている背は、鞭とアキラの間に割って入ったのだろう。長い黒髪の少女は、わずかに顔を上げると、ミヤに向かって真上を指さす。
 目に見える空は赤い。
 少女の指を追ってミヤが鏡面を見上げると、そこには灰色のスーツの男が浮いていた。
 男の顔に驚愕が浮かぶ。
「そんなまさか」
「ああ、そっか……」
 細めた双眸から涙がこぼれる。
 ミヤはそうして左手を上げると、自らの契約者である男を、鞭が消えるまでくりかえし薙ぎ払ったのだった。