曲空虚空 29

mudan tensai genkin desu -yuki

 ――白い天井を見上げる。
 兄がいた病院の天井もこんなだった、とアキラは思い出した。
 とは言え、視界はあまり広くない。カプセル状の被験台から見える範囲はほんのわずかで、すぐにそれも閉ざされることになるだろう。彼は今までに何人かから聞いた長い説明を反芻する。兄も同じ説明を受けたのだろうかと、頭の隅でちらりと考えた。
 隣で機器を調整している男が、手元を見たままアキラに話しかけてくる。
「なにか質問は?」
「特にない、と思う」
「あるなら今のうちに。意識の変換がかかれば、本来疑問に思うようなことも気づかなくなる。もっとも、最初のうちは君も六歳の子供に戻る。思考も感情も相応に退行するから、それどころではないかもしれないな」
「うっわ……でもすぐに戻るんだろ。一年が百日ないっていうし、その一日も短いって聞いた」
「それは事実だが、中では時間の感じ方が変わる。せっかくの機会だ。子供時代を楽しめばいい」
 楽しめばいい、と言われても、男の声は事務的なものでしかない。アキラは肩を竦めたくなったが、上腕も肘も既に固定されていて動かなかった。あらためて意識してしまった窮屈さに、アキラは「もう早く始まればいい」と心の中で念じる。
 しかし準備をする男の手は一向にとまることがない。アキラが思わずあくびをしそうになった時、男は唐突に口を開いた。
「死とははたして、なんであると思う?」
「はあ?」
 なぜ急にそんなことを聞かれるのか。平坦な連絡事項でも、上滑りする世間話でもない言葉に、アキラはあっけにとられた。しかし男はその反応にかまわず続けてくる。
「死とは、なんであると思う? 人が死に、失われるとはどういうことだろうか」
 ――難しい話をされるのかと思った。
 だが、男が聞きたいのはそういうことではないのだろう。アキラがどういう理由で被験体を希望したか、相手の男は当然知っているはずだ。
 三年前に亡くなった兄が「めちゃくちゃおもしろい。お前にも見せてやりたい」と言っていた仮想現実。それを直接体験したいと希望したアキラに、許可を出したのはこの男本人だ。その後もいくつか質問に答えた。アキラの事情は完全に把握されている。
 簡単に答えることがはばかられる問いに、彼は少し考えて返した。
「俺にはわからない」
「だが君は、知っているはずだ」
 知っているというなら、たしかに知っている。家族を失う非現実感を、後からやってくるどうしようもない喪失感を、アキラはよく知っている。
 だがそれは「死」そのものの答ではない。男が求めているものも、そのようなものではないのだろう。
 アキラは過ぎ去ってなおうずく思い出を振り返った。
「知ってるけど、わからないんだ」
 あるいはわからないから、この旅を希望したのかもしれない。
 兄がなにを見たのか、なにを喜んだのか、知りたいと思った。
 憤りと後悔ばかりを抱いた最初の半年。それから一年は思い出を振り返った。そのあとの一年半は……兄のことを考えない日の方が、多かった気がする。そんな時ふっと空白の時間を得て、アキラはもう一つの世界のことを思い出したのだ。
 男のため息が聞こえる。
「私はもうすぐ、それを知ることになるだろう」
 ――彼の娘は、もうあと二年ほどしか生きられないのだという。
 アキラと前後して仮想現実の中に入るという彼女。この世界はもともと、彼女のために作られたものらしい。だがそうして苦労を重ね作ったものが、ほぼ完成した今にいたっても、男は少しも嬉しそうではなかった。
 男は額のしわをより一層深くして、機器から手を離す。アキラは横目でその姿を眺めた。
 兄はもういない。だが、その生きてきた足跡を見たいと、アキラは思う。
 しかし男が見ているものはまるで逆だ。まだ生きている娘に、未来の死を見て悲しんでいる。
『今を大事にすればいい』――アキラはそんなことを言いかけて、だが言葉を飲み込んだ。そのようなことはわざわざ言うようなことでもないだろう。男もきっとわかっている。ずっと長く悩んできたに違いないのだ。
 だからアキラは、自分のことだけを口にした。
「俺は、あなたが知ってることを探しに行く」
 仮想世界で生きるということ。そこで得られるものはなんなのか。男はおそらく既に知っている。知っているからこそ娘にそれを贈るのだ。
 だからアキラも探しに行く。被験体として、己のデータを提供することと引き換えに。
「俺は――」
 急に視界が眩しく感じられて、アキラは目を細めた。意識がゆっくりと薄れていく。
 事前に投与された薬が効いてきたのかもしれない。男の声がぼやけて聞こえる。
「好きにしなさい。それが君を救うと思うなら」
 苦味の混じる囁き。だが男はそう言った後、少しの間を置いて付け足した。
「……もしいつか君が、知りたかったことを見つけられたのなら。その時は、私の娘にもそれを教えてやってくれ」
「あなたの娘に? 会えるかな。歌手になるんだろ」
 とたんに強い眠気が襲ってくる。アキラは耐えきれず目を閉じた。記憶の中から兄の面影を拾う。子供だった兄はあの日、軽く笑ってアキラを見下ろしていた。
『お前もくるか?』
 後悔はない。迷いもない。
 差し出された手を取る旅に、そんなものは必要なかった。

 急速に意識が浮上する。
 それは夢から覚めるよりもずっとあっさりとしたもので、その代わり思い出したはずの多くのことは、目を開けると同時に止める間もなく霧散してしまった。
 ぼやけていた視界がクリアになり、体の感覚が戻ってくる。
 座りこんだままのアキラは、血に汚れた体を見下ろした。そこにはシェラの手でありったけの治療シートが貼り付けられ、伝わる痛みを麻痺させている。エジードにわからぬよう彼女が行っていた手当ても、時間が経ってだいぶ効いてきたらしい。アキラは指が動くことを確かめると、床に手をついて立ち上がった。
 窓の外に見える都市は普段と少しも変わらない。整然とした美しい街並み。住人たちが、そしてアキラや友人たちが平穏に暮らす世界。
 ――自分は、兄の後を追ってここに来たのだ。
 そのことだけはもうわかっている。兄がもう、いないのだということも。
 だがそれ以外の本来の記憶は、やはりどうしても思い出すことができなかった。自分について考えてみても「瀬戸アキラ」だということしかわからない。
 もっとも他の記憶など、今この場において必要なものではないだろう。アキラは手についた血をジーンズで拭う。頭の中は多少混濁していたが、気分はすっきりしていた。
「喉渇いたな……」
 そう呟くと、シェラがあわてて小さなボトルを差し出してくる。礼を言って口をつけると、鉄の味がするぬるい液体が、痛んだ喉を潤していった。そのあまりのリアルさに、アキラはつい苦笑してしまう。
 反転した二つの世界。現実は何によって定義されるものなのだろう。
 彼はこの世界において、ただ一人自分と対称である少女を見つめた。
「シェラ」
「はい」
「お前は、この世界をどうしたい?」
 ニーナ・ハーディのための世界。彼女が死んだ今、これらの都市をどうするのか。
 問われた少女は目を瞠る。飲み込めないものを嚥下するように、彼女は長い睫毛を震わせた。
「私は最初、ただこの世界を見てみたいと思っただけなのです……。姉が最後を過ごした世界を見て回って、その歌を聞いてみたいと思いました。それだけでいいと思っていたのです。父はこの世界を維持するために、全てを犠牲にして他を顧みていませんでしたから」
「淋しかった?」
「どうでしょう。わかりません」
 微笑んで見せる少女は、まるで懺悔をしたいかのように見える。黒い大きな瞳が急にうるんだ。
「でも私、ここに来て色々わかったのです。あなたと一緒に過ごして、笑ったり食べたり怒ったりして……ああ、姉が見ていたものはこういうものなのかって」
 この世界の一つ一つに驚き興味を持っていた少女は、そうして姉のいた世界の欠片を拾っていたのだろう。アキラにとっての普通が、彼女にとっては何もかも新鮮だったに違いない。
「私はだから……この世界を今のままに保ちたいです」
「シェラ」
 伏せられた目。その名を呼ぶと、少女の目から不意に涙がこぼれる。震える声に、細い嗚咽が混じった。
「ずっと向きあえなかったけど、わ、私、姉のこと、大好きだったんです。いまさら遅いって思うけど、でも、ここにはまだ、姉の歌が残ってる。お、お姉ちゃんを覚えてる人がいる……。だから、私は……」
「わかったよ」
 それが聞ければ充分だ。
 そして、アキラもそう思っている。
 ――仮想が現実よりも、価値がないなどということはないだろう。
 そうでなければ彼女が泣くはずもない。アキラがここまで来ることもきっとなかった。
 作り物だろうと虚構だろうと、彼が立つ世界は在る。兄やニーナは、この世界を現実として生きて、きっと充足を得ていたのだ。
 そしてアキラもまた、ずっとこの都市で友人たちと暮らしてきた。都市も人も、外から勝手に好きにされていいものではない。真実を知ろうとも変わらない思いを確認して、アキラは両手を固く握る。
 自分を、世界を肯定する意志。
 記憶の中の兄を思い出し、彼は頷いた。
「俺もこの街が好きなんだ。だから後の難しいことはシェラに任せる。その代わり──」
 白い天井を、アキラは見上げる。
「シギルは俺が獲る」

 空は赤く染まっていた。
 はじめて見る鏡面の色。のしかかってくるような不吉な赤は、空塔頂上の広場から見上げてすぐ上に広がっている。
 風はない。空気も薄くはない。ハシゴをのぼって外に出たアキラは、広場に立ってまずそのことに安心した。背を支えるシェラに言う。
「おどおどすんなよ。なめられるぞ。最初の時みたいに高慢になっとけって」
「……私、高慢だったつもりはないですよ」
「気位の高いわがままお嬢様って感じだった」
 シェラは頬を膨らませたが、すぐに破顔する。美しい顔に勝気な笑みが乗った。
「なら行きましょう。絶対勝ちますよ」
「オーケー」
 常人が立ち入れる場所ではない頂上は、白い円形の広場になっていた。直径三十メートルほどの広場を中心として、外周には白い柱が六本見える。それらの柱は、王冠のように広がって上の鏡面体を支えていた。美しくはあるが細すぎるそのフォルムに、アキラは苦笑をこぼす。
「よくよく考えてみりゃ、こんな柱だけで空が支えられてるってのも変な話だよな」
「空塔は十二ある都市サーバのメインシステムに相当するのです。規定外の運用があっては困るので、空塔管理部は全員タイプAかタイプBです」
「そりゃ、優秀な人間でも受からないことがあるって言われるわけだよな」
 アキラは頭をかきながら広場の中へと踏み入る。中央にはシギルを置くためのものだろう、空の台座があった。
 その向こうには二人の人間が彼らを待っている。
 広場から数メートル上の宙に立つエジードは、手にシギルを持っていた。
 そして彼よりも後ろの石畳には、さっきの黒服が立っている。今はもう仮面をかぶっていない顔。人形のように表情がない幼馴染の少女を、アキラは無言で見すえた。
「で、そいつに何したんだよ」
「驚かないのだな。君にもう一度挑む気があるのなら明かしておこうと思ったのだが」
「付き合い長いから、近くまで行きゃ顔隠しててもうすうすわかる。俺への嫌がらせか?」
「いや違う。プレイヤーを二人もくだした君の素質を評価して、近しい者を選んだだけだ。今の状態は……契約の副作用のようなものだな。適応者以外のタイプは、代行者となるとプレイヤーの操作下に入る」
「いいかげんイラっとくる。わかりやすく言えよ」
「サガワ・ミヤはタイプC。君とともにいて、君の言動からこれまで学習してきた人工知能だ。──だからこそ君にもっとも近い働きが期待できる」
「……ミヤが?」
 下ろされたフード。いつも高い位置で二つに結ばれている髪は、今はただ下ろされている。虚ろな目は普段の彼女からは想像もつかないもので、だがその分異様な美しさがあった。
 背後でシェラが表情を険しくする。しかしアキラは小さく息をついただけだ。
「アキラ」
「いやもういいかげん驚かないって。それが本当でも嘘でも知ったことか」
 なぜミヤとたびたび同じクラスになっていたのか。誰からも好かれる彼女が自分にまとわりついてきていたのか。腐れ縁の理由がわかっても何かが変わるわけではない。
 ミヤはミヤだ。アキラにとってはそれが現実だ。
「それより、あのプレイヤー送り返せばミヤは戻るのか?」
「ええ。おそらく」
「了解。ミヤも俺が変に過大評価されたせいでいい迷惑だよな」
「彼女は迷惑とは思っていないでしょう。あなたの力になりたがっていました」
「お人よしっていうんだよ、そういうのは」
 空の台座をはさんで、アキラはミヤの正面に立つ。
 武器を持ってこなくてよかったのかもしれない。いくらなんでも、彼女を警棒で殴る気にはなれなかった。アキラは空を見上げて気が抜けたようにぼやく。
「まったくなあ……普通でよかったんだけどな」
 だが、きっとこれでいい。
 普通であるからこそ自分は、当然の怒りと希望を抱いてここに立つのだ。