曲空虚空 03

mudan tensai genkin desu -yuki

 まるで子供が風船を引いて駆けるように、さかさまの少女の手を取って走るアキラは、倉庫の裏に出たところで足を止める。見上げた空はいつの間にか群青色になっており、大粒の雨は少しずつ本来の霧雨へと移行しているようだった。
「やりすごせると思うか?」
「わかりません」
「話し合いの余地は」
「交渉ならあるいは」
 そう言う少女の表情は、けれど険しいと言っていいものである。そもそも話し合いが通じる相手ならば、最初から問答無用で攻撃してきたりはしないだろう。
 アキラは少女を壁際に寄せ、自分は倉庫の角に隠れて表の様子をうかがった。
 先ほど内塀を照らしていた赤い光は見えない。だが楽観的な気分にはなれなかった。神経をとがらす彼の隣で、少女は深い青色の空を見下ろす。
「万が一の場合には、早めの離脱をおすすめします」
「既に万が一になってると思う」
「普通の住人であれば、先ほど言った通り、私たちが何をしても害されるということはないのです。ですがあなたは――私が雨に濡れて見えるほど高い素質を持っている。来訪者である私を、この世界の中に在ると確信的に認識しているのです。それは類稀な意思ではありますが、逆に考えればあなた自身の身を危うくもします」
「なんで」
「あなたにとって、私たちは幻ではなく現実だからです」
 少女の細い指がアキラを示す。形のよい爪の先からまた水滴がぽたりと落ちたが、彼女はそれを見もしなかった。アキラはぬかるみの中に消える滴を目で追う。
 ――幻に殴られても痛くはないが、現実に殴られれば怪我を負う。
 つまりはそういうことなのだろう。彼自身の確信が、彼を危険な状態にしているのだ。
「うわ……。俺、なんでそんな無駄な素質が……」
「私にもわかりません。私たちの世界について研究していたとかですか?」
「いまどき小学生の自由研究だって、もうちょっと中身のあることやる」
 数年前には虚都をテーマとして書かれた小説や漫画が流行ったりもしたが、アキラ自身そういったものを読んだことはほとんどない。一度だけクラスで回し読みされていた漫画に目を通しただけで、その時の感想としては「作り物くさい」というだけのものだった。
 濡れた前髪を手でかきあげた彼は、何かを感じると手振りで少女に黙るよう示す。
 赤い光は見えない。しかし、雨音とは異なる水滴の音が跳ねた気がした。
アキラはほとんど霧雨となった周囲を見回す。泥の中に埋もれていた鉄パイプを見つけると、バッグを置いて代わりにそれを拾い上げた。誰かが現れたらすぐ動けるようにと、倉庫の角に狙いを定める。
 少女は何か言いたげな表情になったが、先ほどの手振りを受けてか沈黙を保っていた。
 水滴の音が聞こえる。
 足音はしない。視界は霧雨にけむっている。
 アキラは息を殺してじっと待った。緊張でわめき出しそうな思考を抑える。
 そうして三十秒ほどが経過した時──その男は、倉庫の影からぬっと姿を現した。
 鉄パイプを構えたアキラは、思わず苦い声をあげる。
「げ……こいつもか」
 現れた人間は、既に先ほどの赤い光をまとってはいなかったが、それでもなお、見た目からして普通ではなかった。
 背後の少女と同様、さかさまに浮いている男。
 年は二十代半ばほどだろうか。上下反転している以外は、白いパーカーにジーンズというこちらの世界と大差ない格好だ。短く刈り込んだ頭に、さかさでも落ちていない黒のキャップをかぶっている。
 人相は、街で見かけたならまず避けて通るだろうというくらい目つきが悪い。男はアキラの腹くらいの高さから、わずらわしげな表情で彼をにらんできた。
「適応者か?」
「……さぁ」
「ふん。代行者じゃないようだな。下がってろ、住人」
 男はもう鉄パイプを構えるアキラから興味を失ったようだった。奥に居る少女へと視線を移す。
「住人をたぶらかして逃走ですか。まったくお嬢さん、あんたも人が悪い」
「何がです? それよりあなたの方こそ、取り決めを破ってどういうつもりです」
 少女の反問を聞いてアキラは我に返った。
 さかさではあるものの、平凡な服装の男が現れたので忘れかけていたが、先ほど赤い光を帯びて二人にぶつかろうとしたのがこの相手なのだ。油断すれば何をされるかわからない。アキラはぞっとするような視線を浴びせられたことを思い出し、警戒を強める。
 男は少女の全身をあざわらうかのような目で撫でた。
「あんな取り決め、時間がかかってしかたない。お嬢さん、あんたもそう思うでしょう? 早く帰りたいとは思いませんか?」
「だからプレイヤー同士直接争おうというのですか。それは当初の意図から外れています」
「おかしなゲームよりもよほどわかりやすいと思いますがね。――戦って勝ち残った人間が己の目的を果たす。それでいいじゃないですか」
 ぱちんと指を鳴らした男は、自分が少女をねじ伏せられると疑っていないようだった。目の前にいるアキラを見ようともせず、その斜め後ろにいる彼女を相手にしている。
 じわじわと圧してくるような男の言葉に、少女は毅然とした態度で首を横に振った。
「私たちに与えられた課題は直接の戦闘ではありません。それぞれが取り決められた都市を攻略することこそが肝要でしょう。それに、このようなやり方をしていればいずれあなたの身が危うくなる。他のプレイヤーが黙ってはいませんよ」
「他のプレイヤー、ですか」
 男は喉を鳴らして笑う。お世辞にも好意的とは言えぬ笑声は、濡れた倉庫の壁にぶつかって響いた。
「他のプレイヤーの誰が、あんたの味方になると思うんです? お嬢さん、あんたはこの勝負にお情けで参加が許されてるってことを忘れちゃいけない。あんた一人なんですよ、くっだらない私欲でこのゲームに参加しているのはね」
 霧雨が世界の音を吸い取っていく。
 部外者としてわけもわからぬまま居合わせているアキラは、それでも男の嘲りに胸糞の悪さを覚えた。重く感じてきた鉄パイプを握りなおす。
「オレのことを心配してくれなくたって大丈夫ですよ。お嬢さん、あんたがここで退場したって誰も惜しまない。――だから、さっさと帰っちまえよ」
 男の指が、浮いている少女を指す。
 その指先が赤く光ったと、一瞬思ったのは気のせいなのかもしれない。
 だがアキラは確かに「見た」と思った。
 思った瞬間、反射的に鉄パイプを振り下ろす。
半ばパイプの重みに任せての動き。錆びて泥だらけの鉄棒は男の腕を打ち、その手はあっさりとぬかるみの中へ突っ込んだ。直後、ジュっと物の焼けるような音がする。
 ――あのまま何もしなければ、焼かれていたのは自分か彼女だったかもしれない。
 アキラはとっさの行動に安堵しかけたが、それで終わりではなかった。
 男はまったく眼中にいれていなかった少年の行動に、いらだちの表情を見せる。
「このクソガキ……。先に殺してやろうか」
「逃げて!」
 向けられる視線は、それだけで人を萎縮させる力があった。
 だがその敵意はかえってアキラを突き動かす。彼は半ば防衛本能によって、土に埋まりかけた鉄パイプを振り上げた。
 男は泥に汚れた手を引き抜くと鼻で笑う。
「やってみろよ」
「っ、この」
 挑発にのって鉄棒を打ち下ろす。
 男はそれをよけようともしない。仁王立ちのままアキラを見ているだけだ。
 相手が動くと予想していたアキラはぎょっとしたが、重みのある鉄パイプを止めることはできない。中途半端な速度で繰り出された攻撃は、そのまま上下反転している男の股間を強打した。
「うわ……っ」
 手に跳ね返ってきた衝撃に、思わず呻いてしまったのはアキラの方だ。彼は鉄パイプを取り落とすと少女の隣まで下がった。
 一方、男はというとまったく効いている様子がない。にやにや笑いで二人を見ている。
「どうなってんだ、っていうか俺が痛い……見てるだけで痛かった。精神的にきた」
「……そうなるのではないかと思いました」
 濡れそぼった少女は頭を抱えて溜息をついた。
 二人のさかさま人間と共にいるアキラは、いいかげん上下の感覚が狂いそうになってくる。増してくる焦燥感に、彼は頭を振って水滴を飛ばした。
「そうなると思ったなら先に言えって!」
「それが、今のではっきりしたのですが――あなたの確信はあなたにしか通用しないのです。たとえば私は、自分が濡れているように見えません」
「へ?」
 アキラは彼女に向かい言われた意味を確認しようと思ったが、男の笑い声がそれをさえぎる。目つきの悪い男は、口元をゆがめて不ぞろいな歯を見せた。
「それで終わりか?」
「……っ!」
 のしかかる視線。
 アキラは身をひるがえしながら少女の手を取る。
 すばやく逃走に転じた彼は、だが相手への牽制も忘れてはいなかった。駆け出しざま足下の泥を男へと跳ね上げる。やわらかくぬかるんでいた土は、期待以上にべったりと男の顔にはりついた。
「クソ! てめぇッ」
 響き渡る罵声を無視してアキラは走る。先に見えてきた倉庫の角を左へ曲がった。雨でやわらかくなった地面に足を取られそうになるも、なんとか態勢を保って前へ跳ぶ。
 ――このまままっすぐ行けば、通用門から表へ出られる。
 だがそれは相手もわかっていることだろう。逆周りで待ち伏せされたら終わりだ。
 アキラは通用門へ向かうべきか、別のルートを探すべきか短い間に逡巡する。その時、少女が左前方を指した。
「あそこに」
「窓か」
 壁の途中に見える両開きの窓は、だがたしか鍵がかかっていたはずだ。彼は少女の手を離すと、走りながら身を屈める。泥の中に埋もれていた石を拾い上げた。
「警備が来て俺だけ捕まるってのは勘弁してくれよな!」
 買った雑誌だけでなく通学用バッグも置いてきてしまったのだ。後で回収できなかったら泣くに泣けない。社会的なペナルティはもっとごめんである。
 アキラはそんなことを祈りながら、手の中に握った石をふりかぶった。錠が見える場所めがけて叩きつける。
 耳障りな音。一度目でガラスにひびが入った。二度目で亀裂が広がり小さな穴があく。少女はその穴にためらわず細い右手を差し込んだ。錠がはずされると同時に、アキラが窓に手をかける。
「行くぞ」
 ちらりと左側を見たが、男の姿は見えない。アキラは窓枠を乗り越えると暗い倉庫の中に下り立った。続けてさかさまの少女がするりと入り込んでくる。彼は反射的に彼女の手を取ろうと振り返った。
 薄暗い中でもよく見える白い手。繊細な彫刻のような少女の手は、傷一つついていない。鍵を開ける際、破片で怪我をしてしまうのではないかと危ぶんでいたアキラは、なめらかな肌に少しだけ安心する。――そんな自分に気づいて苦い顔になった。
「どうかしましたか?」
「……早く目が覚めりゃいいって思ってる」
 顔をそらしてぼやくと、少女は目を伏せた。
「ごめんなさい」
 消え入りそうな謝罪には、みじんの偽りも感じられない。
 アキラは決まりの悪さを覚えると、何も言わずに彼女の手を取って走り出した。