mudan tensai genkin desu -yuki
彼の足元を水滴が音もなく濡らしていく。
お互い見つめあって静止していた時間は、ほんの数秒であったろう。
意味のわからぬ邂逅がもたらした硬直は、唐突に彼女の方から解かれた。少女は宙に浮いたまま、まじまじとアキラの全身を眺める。
「あなたは、適応者?」
「は?」
「入ってすぐ光が見えました。あれはあなた?」
言われてアキラは肩にかけていたスポーツバッグを見た。その中に押し込んだおもちゃの杖を思い出す。
「光って言ったって……確かに俺かもしれないけど」
「やっぱり。私が見えているのだから、そうなのでしょう?」
「いやちょっと待てって。全然意味がわからない」
「今はわからなくてもいいです。私、急いでますので」
「待て待て。ちょっと質問させてくれよ」
まず何を問うのかなど決まっている。幻覚かどうか相手に聞いてもしかたない。それよりもアキラの中にはこの時、無視できぬ可能性が湧き上がってきていた。彼はさかさに浮いている少女と、その遥か上にある空を見上げる。
「まさか……虚都から来たなんて、言わないよな?」
――空である鏡面体の向こうには、同じ鏡面を空とするさかさまの都市「虚都」があり、そこにはさかさまの住人が暮らしているという。
誰も空を越えることができないのに、なぜそのような話が広まっているのか。馬鹿馬鹿しいと思いながらも気になってしまうアキラの眼前で、少女は数秒考え、そして頷いた。
「ええ。私は空の向こうから来ました」
「やっぱり幻覚か……」
「聞いておいてなんですか、その態度は!」
少女が怒り出すことは予想外であったので、アキラは目を丸くする。彼女は不満げな顔で腕組みすると、ゆっくりと高度を下げてきた。このままではぶつかると判断したアキラは慌てて二歩下がる。
少女は二人の目の高さが同じになったところで止まり、彼を正面から見すえた。
「私と話しているということは、私が見えているのでしょう? 幻覚で片付けるとは何事ですか」
「視力と常識だったら視力を疑う」
きっぱり返すと、少女はますますアキラをにらんだ。その表情は生気に満ちており、先程の触れがたい神秘さとはまた印象が異なって見える。淡い緑のサンドレスを着た彼女は、長い裾を空に向かって揺るがせながら首を傾けた。
「常識を疑うべきでしょう。あなたは空の向こうの存在を知っているのではないですか」
「知ってるっていうか――」
公式記録に書いてあるからみんな知ってるだけだ、と言い返しかけてアキラは言葉を飲み込む。「常識を疑え」という言葉。なぜ自分がよく空を見上げているのか、子供の頃の記憶を思い出しかけた彼は、思考を打ち切ってかぶりを振った。
「幻覚じゃないっていうなら風邪引くぞ」
「風邪? どうしてです」
広がる髪から水を滴らせつつ、少女は目をまたたかせる。アキラは呆れてその姿を指さした。
「さっきからどんどん濡れてるだろ。っていうか、俺も濡れてるし。――帰るか」
雑誌を入れた袋は腕でかばっているが、このままここに居続ければ制服もびっしょりと濡れてしまう。明日も学校は休みではないのだ。アキラは幻覚の少女に付き合っている自分、という状況を再認識して溜息をついた。
「じゃ、俺はこれで」
「待って!」
立ち去りかけたアキラへと鋭い声が飛ぶ。振り返ると、少女は驚いた目で彼を見ていた。
「濡れてるって私が?」
「俺も濡れてるけど。雨降ってるだろ」
「あなたには、私が濡れて見えるんですか?」
くどいほどの念押しにアキラは顔をしかめた。一体なんだというのか、不可解さにわずらわしさが勝る。
「濡れて見える。雨の下にいるんだから当然だろ。今もどんどん濡れてるぞ」
少女はそれを聞いた瞬間、黒い両眼を大きくみはった。取りつくろったところのない素の表情は不思議な愛らしさがある。アキラの視線はつい彼女へと引き寄せられた。
「……なんだよ」
「あなたにします」
「ん?」
「それだけ素質が高いのなら充分です。本当は私のキースキルからいって、弱い適応者を選んだ方が効果的なのですが、あなたもちゃんと弱っちそうですし」
「おい。幻覚のくせに嫌味か」
「あなたを私の『代行者』とします」
白い右手がアキラの方へと伸ばされる。
開かれた手のひら。そこには薄青く光る何かのコードが浮かんでいた。二十桁を越える数字と幾何学模様で構成されるそれを、彼は唖然として見やる。
少女は小さな手のひらを彼の額に触れさせようとした。
「ちょっ……」
「動かないで」
「断る」
大きく一歩下がったアキラに、少女は空振りして態勢を崩した。浮いているため転ぶまではいかなかったが、その分じっとりと彼女はアキラをにらむ。
「どうしてよけるのです!」
「普通よける」
「急いでいるのに……」
唇を噛む少女の目には、あせりが色濃く浮かんでいた。まるで本当に困っているかのような表情に、アキラは若干の罪悪感を覚える。
しかし彼が罪悪感を味わっていられたのもそこまでだった。
浮いている少女の向こう、雨の降る空に赤い光が見える。
それは先ほど彼女を包んでいた白光と同様、まっすぐ地上に墜落していくところだった。
だが赤い光は、なぜか途中でぐんと進路を変える。そのままアキラたちのいる方へと、恐ろしい速度で向かってきた。
「……あれ、なんだ?」
「え?」
彼の指さす方を振り返った少女は、向かってくる光を見て一瞬絶句したようだった。けれどすぐにアキラの方へと両手を伸ばす。
「逃げて……っ!」
「って、なんだそりゃ!」
伸ばされた手を掴む。
アキラは引き寄せた少女の体を、さかさまのまま右腕で抱えた。
赤い光はもう間近に迫っている。
車は来ない。彼は車道めがけて跳んだ。
頭の後ろを巨大な何かが通り過ぎていく。ちりちりとした熱が痛みを伴って背を焼いた。
抱えられたままの少女が、彼の腕にしがみつく。
「逃げて! 早く!」
「意味わからんわ!」
何とか転ばず路面に着地した直後、背後で耳をつんざく炸裂音があがった。
周囲が赤い閃光に照らし出され、アキラはさすがにぎょっとする。
だがすぐに少女の言葉にしたがって、彼はその場から走り出した。
彼女を抱えたまま振り返らずに車道を横断し、そばにあった脇道へと入る。これ以上見通しのいいエリア道にいては、逃げられないかもしれないと思ったのだ。
「って、逃げられないかもって……何だこの状況」
「不吉なことを言わないでください! 追ってきます!」
何が追ってくるというのか――ともかく身を隠したいと思ったアキラは、一番はじめの角を曲がる。
その時、彼の全身は無形の圧力に総毛だった。
向けられたものは、おそらくただの視線だ。角を曲がった瞬間それを感じ取った。
だがその視線だけで、ぞっと背筋が粟立つほどの戦慄が走ったのだ。
これは追いつかれたらどうなるかわからない。
アキラは混乱する思考を抱えつつ、見えてきたT字路を曲がる。
エリアの境界にあたるこの近辺には無人の倉庫ばかりが建ち並んでいる。誰かに助けを求めるなどということは期待できそうにない。
彼はしかし、そのようなことは考えず、ひたすら雨の中を走っていった。
着実に濡れていく制服。けれどそれを冷たいとは思わない。ただ重く張りついてくるのがわずらわしく、少しだけ走りにくかった。アキラは右腕に抱えたままの少女を見る。
胸のすぐ下を抱きこまれている少女は、よく見ると即頭部にがつがつとスポーツバッグがぶつかっている。けれど本人はそれについて、雨と同様まったく気にしていないようだった。
「どうかしましたか!」
「いや……」
つい脱力しそうになったアキラは言葉を濁した。
バッグをぶつけているのは悪い気もするが、教科書の入った通学バッグを投げ捨てる気にはなれない。そこでアキラはふと、左手に持っていたはずの雑誌の袋がないことに気づいた。おそらくは車道に跳び出した時に落としてしまったのだろう。
「あ、くそ。もう最悪だ。せっかく買ったのに」
「何をですか?」
「付録。落としてきちまった」
高い塀にそってアキラはまた角を曲がる。
先ほど感じた視線は、今は彼らを捉えていないようだ。彼は塀の切れ目に見えてきた通用門が開いたままなのを見つけ、倉庫の敷地内に滑り込んだ。やわらかい土の上を駆け出す。
「誰かいたりしないか……? 無理か?」
もし人に会えたとしても、何を言っていいのかわからない。アキラ自身、今の状況がさっぱり意味不明であるのだ。
倉庫の外周を回っていた彼は、入れるドアがないか、手当たり次第ノブを回してみる。こういった倉庫は中に物品移送用の転移ポートを備えていることが多い。それを使えないかと思ったのだ。
しかし彼の希望もむなしく、鍵のかかっていないドアは一つもないようだった。
息が切れてきたアキラは、雨の降りかからない壁を選んで寄りかかる。
「よし、そろそろ説明しろよ」
アキラの腕から解放された少女は、再び彼の眼前に浮いている。あいかわらずさかさまなその姿は彼に頭痛を誘ったが、申し訳なさそうな顔を見ると、声を荒げて詰問する気にはなれない。
アキラは、額を濡らす雨か汗かわからぬものを手で拭った。
「今の状況を手短に説明して、切り抜ける案があったら申告希望」
「追ってきているのは私と同じ来訪者……『プレイヤー』です。こちらに来る前に、私たちはそれぞれ各都市に分かれて飛ぶと取り決めていたのですが、誰かが取り決めを破ったのでしょう。私が『代行者』を選ぶ前に排除しようと出たようです」
「やっぱり長くてもいいからもうちょっとわかりやすく頼む」
説明を頼んですぐ返ってきたのはありがたいが、何を言われているのかさっぱりわからない。アキラの要請に少女は困り顔になった。
「追っ手の目的は、おそらく私です」
「そいつも虚都から来たのか?」
「あなたたちの言葉で言うならば」
「自分の正気を疑いたい」
「常識とはそれほど強固なものなのですか?」
なんと言われても、「上下反転の都市に住む人間」のことなど、まともに考える方が馬鹿馬鹿しいと思われているのだ。空の向こうについての記述はいわば、公式記録の誤植のようなものであり、真剣に考えても意味がない。
だがアキラは目の前で実際浮いている彼女を見て、深い溜息をついた。
「なんで狙われてる? この状況だと俺も巻き添えなのか?」
名前も知らない相手のことだ。発言の全てを鵜呑みにはできないが、聞くと聞かないとでは聞いておいた方がマシだろう。アキラはバッグを近くにあった小コンテナの上に下ろした。
少女は長い睫毛から水滴をしたたらせつつ、難しい顔になる。
「理由は……はっきりとはわかりません。私たちはそれぞれ目的があってこちらに来ていますから。ですが、逆に言えば私たちは、お互い競争相手でもあると言うことができます」
「競争相手を蹴落とそうってか。いい迷惑だな」
「普通の住人であれば、私たちの争いには巻き込まれないはずなのですが」
「ん?」
それは、アキラだけであれば無事で済むということなのだろうか。
引っかかる物言いに、彼は落としてきてしまった袋のことを思い出した。あの時、彼女の言うままに逃げなかったらどうなっていたのか。考えてみようとしたがよくわからない。
少女は雨にけぶる景色を、黒い目を細めて見つめた。
「生物無生物に限らず、私たちは基本、この世界のものを直接傷つけることができません」
「え。そうなのか?」
「ええ。それくらい世界の違いというものは大きいのです。おそらく大多数の人々は私たちを見ることさえできないでしょう」
「俺、見えてるな」
ぽつりとアキラがこぼした感想に、苦笑して見せる少女は掛け値なしに美しい。
しかし彼は不意に、今見えている彼女がやはり自分だけの錯覚なのではないかという疑いに捕らわれた。
他の人間には見ることができない少女。そんな相手が見える理由とは何か。
少女はアキラの表情から疑問を読み取ったように続ける。
「あなたのように、私たちの世界に近い素質を持った人間のことを、私たちは『適応者』と呼びます」
「それ、さっきも聞いたな」
「ええ。適応者には私たちの姿が見える……特にあなたはその傾向が強いみたいです。来訪者である私が、この世界の物質に影響されているように見えた」
「影響されているように?」
体を起こして聞き返そうとしたアキラはしかし、表の通りに近い内塀が赤く照らされたのを見て押し黙った。音を立てないように、そっとバッグを回収する。
「来ましたね」
「まだ全然聞いてないってのに……」
せめて現状の傾向と対策をもう少し確認しておきたい。アキラは赤い光から距離を取ろうと、少女の左手を引いて走り出した。彼女は呆気にとられた顔で彼を見る。
「……私を置いていかないのですか?」
「まだ話が終わってないから。一応な」
「なら、私の代行者になってください」
「それはだからなんなんだよ」
「そのままです。私と契約して私の代わりに動く人間のことです」
「とりあえず断る」
反射で少女の要請を切り捨てながら、アキラは内心「もうこれが全部夢だったら面倒くさくないな」と思い始めていた。徒歩で帰っていただけでこのような訳のわからないことになるなら、以後の行動も考え直した方がいいかもしれない。足下を見るとスニーカーがぬかるんだ土を踏んで、すっかり泥だらけになってしまっている。アキラは思わず溜息をついて天を仰いだ。
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