mudan tensai genkin desu -yuki
じんと、頭の奥が焼ける気がした。
だがそれは気のせいかもしれない。理解することを拒む感情が、きっとそのような熱を錯覚している。
理解する自信がないのだ。――この世界が、仮想のものであるなどとは。
「嘘ついてる……わけじゃないよな、シェラ」
彼女以外が口にしたのなら、はなから相手にもしなかった。今でもよくて半信半疑だ。
だがアキラの直感は、「彼女の話を聞け」と囁いてくる。まるでその先に、既知の事実が待っているかのように。
シェラは軽く目頭を押さえると首肯した。
「本当の話です……。この世界で『死』の概念が希薄であるのも、ここが『そうであるように』作られたからです。プログラミングによって生み出された住人たちが、繰り返し生の経験を積むことで、本物の人間に近づいていくようにと――」
「生み出された、住人」
アキラは血に汚れた自分の手を見やる。
その肌、皺や関節の一つ一つ、握り締めた感触さえも、虚実のものとは思えない。思考も感情も、作られたものとは思いたくなかった。アキラは笑おうとして、乾いた息を洩らす。
「信じられない」
「ええ」
少女はかすかに微笑む。自嘲的な表情は、彼女自身の負い目を表しているかのようだ。シェラは傷ついた彼の手を取る。
「けれど、アキラ……たとえば生誕祭とは、誰の誕生日を祝うものなのだと思いますか?」
「誰の?」
そんなことを不思議に思ったことなどなかった。
生誕祭は生誕祭だ。十二都市全てをあげて祝う祭り。だがそれが何に端を発しているのか、きっと今まで誰も考えたりはしなかった。それくらい当然のことだったのだ。当然すぎて、まるで考えてはいけないことでもあるかのように。
しかしそう思いながらアキラの口はひとりでに、ある女の名を呟く。
「ニーナが」
ニュースで何度も聞いた。ニーナはもうすぐ二十二歳の誕生日をむかえるところだったと。
その訃報を誰もが悲しんだ。
彼女を知る皆が泣いたのだ。死がないはずの世界で空までもが予定外の涙をこぼした。誰もが知る、誰よりも特別だった人間。そしてシェラの話を信じるなら――彼女はもう二度と戻ってこない。
「なんだ、それ」
アキラは我知らず息を止める。少女の硬質な声が耳の横を通り過ぎていった。
「ですが……姉が死んだことにより、この世界は当初の目的を終えたとみなされたのでしょう。父のもとには複数の企業や研究所から人がやってきて、こぞってプログラムの移譲や詳細データの公開を求めました。中にはサーバそのものを欲しがる者さえいて、私が父の研究所に駆けつけた時には揉みあいにまでなりかけていたのです。――そこで父は、今回のゲームを提唱しました」
淡々とした言葉には、ひとかけらの棘が含まれている。
娘の遺物にむらがり、それを得ようとする人間たちを、博士はどのような目で眺めたのだろう。
アキラは嘆息を飲み込む。握った手に力をこめると、シェラは「最初からお話します」と囁いた。
シェラとニーナの父であるハーディ博士が、大規模な仮想現実のプロジェクトを立ち上げたのは十三年前、ニーナの具体的な余命について医師から触れられた時だったという。
現実のコピーとして巨大な仮想世界を構築し、その中にリアルな人間の生活を再現するという試み。当初は絵空事と見向きもされなかったプロジェクトは、しかしある企業の出資により現実のものとしてスタートした。
博士は他にも協力者を得て現在の基盤となる仮想世界を作り上げたが、プロジェクト自体は出資会社の経営悪化により二年で打ち切られてしまった。しかしその後も博士はそれまでの研究で得てきた私財をつぎ込み、また副産物のデータを定期的に発表して資金に換えることで、精巧な仮想現実を維持し続けたのだ。
サーバの限界でそこはドームに覆われた巨大な都市という限定された世界になり、またさらにフィールドを十二に分割することになったが、その分内部は安定した。外部から逐一調整の手を加えなくとも、作られた人間たちで世界を回せるようになった時、博士はようやくニーナをその中に送り込んだのだという。
そして彼女はこの世界の時間で十年あまりを、普通の人間として自由に生きた。
シェラの言葉は流れるように耳に入ってきたが、その全てを理解することはできなかった。
アキラはすぐ上に漂う少女を見上げる。彼女は罪悪感に傷ついたような目で彼を見ていた。
「シェラ」
外の世界から来たさかさまの少女。宙に浮く彼女こそがしかし、本当の、普通の人間で――アキラたちはそうではないのだという。
固く繋いだ手。二人の手を少女の黒い血が伝い、アキラの服に小さな染みを作る。
──自分は今どういう顔をしているのだろう。
少なくともシェラの目に映る自分は、いつもと変わらないように見える。
変わらないのだ。普通で平凡な高校生。どこにでもいるただの人間だと思っていた。
シェラはじっとアキラを見つめている。
黒い、夜そのものの眼。その双眸が今は憂いにけぶっていた。悔いているような目が作り物に見えないのは、彼女が虚都から来た実在の人間だからなのか。
目を閉じる。
どちらが上でどちらが下かわからなくなった。かつて幾度も聞いた言葉がよみがえる。
『アキラくん。それは夢よ。お兄さんなんていない。現実じゃないの』
現実ではない。
では現実とはなにか。
今感じている痛みさえも作られたものならば、シェラを巻き込んで戦う意味はあるのか。
胸につかえる虚無感を、アキラは喉を鳴らして飲み干す。
シェラの手が、汗に濡れた彼の前髪をかきあげた。
「エジード・バレの属する企業の目的は、このプログラムを元に巨大な仮想リゾートを構築することです。ですから……もし私たちが敗北したとしても、第八都市の住人のデータはそのまま引き継がれる可能性が高いです。記憶は消されてしまうでしょうが……」
人が失われることはない、と。
シェラは続きを言わなかった。言うことができなかったのだろう。
息苦しさが、固形に変じてしまう気がした。
──昔、兄の存在を皆に否定された時、自分は泣いたのだろうか。
満ちてくる静寂の中、少女の手を取ったままのアキラは、ふとそんなことを思い返した。
かつて自分の現実を否定された時、自分が何者であるかさえもわからなくなったのだ。それはほんの子供にはすさまじい衝撃で……だが自分は泣かなかった、のだと思う。
ゆるやかな自失に似た空白。アキラは手に、たしかな温度を感じる。
「なあシェラ、ここは作られた世界なんだよな」
「……はい」
シェラとともに過ごしたのはたった一週間だ。だがそれだけの間に築いてきた信頼が、彼女の言葉を「嘘ではない」と断じていた。アキラは窓の外を眺める。
「それは、俺も作られた人間ってこと?」
「いいえ」
しんと響く声。なめらかな手のひらがアキラの頬に触れた。
「あなたはこの世界において一握りしかいない稀少なタイプ──父のプロジェクトに同意し、被験体として参加している、実在の人間です」
「被験体?」
アキラは床に手をつきながら体を起こす。繋いでいた手が離されると、シェラはくるりと回転し、さかさまに戻った。彼と同じ目線を保つ少女は、澄んだ目で少年を見つめる。
「仮想世界を作るにあたって、もっとも重要であったのは住人の存在です。父は考えた末、五つのタイプを導入しました」
「それ、DとかEとかあいつらが言ってたやつか」
「ええ。タイプAからEまで」
シェラはその一つ一つを端的に挙げていく。
──AからEまでの五つのタイプは、後者に行くほど割合が少なくなる。
タイプAは、単純なプログラムで動く作られた人間。主に、都市の生活の基盤を支える生産・製造業や、管理・行政業務に従事している人間たちだ。
タイプBは、自動学習型人工知能。人間のようにふるまい、人間のように成長していく。だがその行動には定型化されている部分が多い。
タイプCは、DかEの特定の人間について、その人間から学習していく人工知能だ。
そしてタイプDは、タイプEをトレースしたコピー。
最後にタイプEは、ニーナ・ハーディと同じく、実在の人間が動かしている人間。
五つのタイプから成る住人は、時が経つほどに互いに交流を持ち学習して、都市の現実性を高めていく。このプロジェクトははじめから、仮想現実をどこまで現実に近づけられるかという意図を持っていた。
「――死を排除して経験を蓄積させるというやり方は、リアリティという点で反対意見もありました。ですが仮想現実での生殖はいまだ困難がつきまといます。この方式は、まず中だけで完結したコミュニティを作ることが優先ということで、暫定的に受け入れられたのです」
少女の白い手が両頬に触れる。
包み込むような手のひらは、不思議と彼を落ち着かせた。アキラは自分の体を見下ろす。
「それって、俺も本当は虚都の人間ってことなのか」
「虚都というのはこちらからの呼び方ですが、そうです。本当のあなたがどんな人間か、私は知りません。名前も顔も年齢も今のあなたとは違うかもしれない」
「なんかもう、色々信じられないな」
「ですがあなたは、本来の自分の記憶を持っているはずです」
深い黒の瞳に自分の顔が映る。特徴のない、どこにでもいそうな顔。
だがアキラは、それが本当に自分の顔なのか、今は確信が持てなかった。
「私があなたを解析した時に得た情報は、あなたが実在の人間であるタイプEということ。そしてレベル1……一度も体を変えたことがないということです」
「体を変えたことが、ない」
「ええ。では、あなたが持っているお兄さんの記憶は、どこから来たのだと思いますか?」
白い空を見上げていた。
二人で、手を取って。
仲のいい兄弟だったと思う。兄は、アキラにも一緒に来ないかと聞いた。
白い、のっぺりとした──あれは、空ではない。白かったのは病院の天井だ。
リハビリに通っていた兄。あの時兄は、被験体にならないかという誘いを受けていた。
そして兄は、一人で、
「俺は……っ」
頭が痛む。
スキルを使った時とは違う、痺れるような痛みに彼は頭を抱えた。ひとりでに涙があふれてくる。
目が回る。経験したはずもない記憶が行き過ぎていく。
兄の顔。ミヤの顔。カイの顔。鏡面の空。本物の夕焼け。都市の顔。見知らぬ海。
全ては濁流のように押し寄せ、そして去っていく。
通り過ぎていく。
残るものは名前のない自分だけだ。どこの誰もない中途半端な自分。
何もない中空に放り出される。
そのままどこまでも落ちていきそうになる。
空のない世界。都市のない空。
茫洋としたデータの海で、人一人の自己はあまりにもはかない。
なに一つたしかではない。
だが、そうして遠ざかりかけた彼を、シェラの腕がそっと抱いた。
「アキラ」
透きとおる響き。伝わる温度。
染みこむ名に、アキラはただ目を閉じる。少女の呼び声が反響する。
一つ一つたぐりよせられる感覚。生まれる輪郭。
見えるもの。聞こえるもの。匂い。味。感触。重ねていく言葉。好悪。苦痛。渇望と憧憬。全ての感情。そして生きていく意志。
記憶の中を泳ぐ彼は、何色でもない空を仰ぐ。
頭の中で知らぬはずの声が──『好きにしなさい』と言った。
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