曲空虚空 27

mudan tensai genkin desu -yuki

 黒服は右手の袖をひるがえす。だぼついたその中から、ひゅっと鋭い音が聞こえた。
 アキラは反射的に首をかばって身をかがめる。直後、頭の上を赤いものが通り過ぎた。激しく打ちつけるような音とともに、背後の床に亀裂が走る。
「うげ。なんつう威力だよ」
 傷ついた床を顧みるだに、今までの使用は相当手加減していたらしい。アキラの全身はぞっと粟だったが、今は慄いている間も惜しかった。彼は再び黒服へ向かおうとして、しかし嫌な予感に床の上へと伏せる。今度は後ろから前へと、空気が軋んで裂かれていった。
「ブーメラン……? いや、鞭か」
 黒服の右手の中に、赤い鞭がしゅるしゅると戻っていく。それは全部で三本あり、まるで意思のある蛇のようにうごめいていた。元のようにしまわれた鞭の先端は、手に張り付いて刺青のように見える。
 恐怖と嫌悪感を刺激する光景に、アキラは思わず半歩後ろへ下がった。エジードが首をひねる。
「降参か?」
「早すぎるだろ、それ」
 軽口を叩いてはみたが、半分は強がりだ。広範囲かつ自在の攻撃に、どう対処すればいいのかわからない。
 アキラは立位置を変えようとして、だが振るわれる鞭を前にたたらを踏む。赤い軌跡が床を打ち据え、タイルの細かい破片が周囲に散った。その破片から目を庇って腕を上げる。
「くそ」
 ――なんとか鞭をよけて距離を詰めたいが、タイミングがつかめない。
 これではまるで、大縄跳びの前で待っている子供だ。もっとも大縄跳びであれば、縄は子供を執拗に薙ぎ払おうとはしてこない。膝程の高さでしなってくる鞭を、アキラは真上に跳んで避けた。バランスを崩して転びそうになるのを、なんとか手をついて支える。
「めんどくせ……」
 今までの分は全てかわせているが、読みにくい軌道を持つスキルだ。いつまでもつかはわからない。アキラは反対側から戻ってきたそれを、とっさに床を転がってよける。
 そんなことを何度か繰り返しているうちに、いつのまにかあちこちの床にはひびが入り、タイルがかけてしまっていた。白い展望室は、たった数分で見る影もないほどのありさまになりはてている。
 その光景に責任を感じないわけでもないが、実際それどころではない。アキラは追いつめられた壁際で息を整えた。
「すき放題壊しやがって。覚えてろよ」
 背を伝う汗が気持ち悪い。疲労のせいか吐き気がする。このままでは体力的にあまり長くは耐えられなさそうだ。だが、黒服にどう対抗すればいいのか、まだいい案が浮かばない。
 チェンジリングは使いどころを選ぶスキルなのだ。何を入れ替えれば優位が得られるのか、有効な一手を考えなければならない。
 アキラは必死で頭を回転させる。その間にも鞭は空を切って彼に迫った。アキラは赤い軌跡を見て大きく横に跳ぼうとする。――だがそれは、完全にはうまくいかなかった。
「……痛、ってえ!」
 よけそこねた鞭の一本が脇腹をかすめる。
 自分の体を見下ろしたアキラは、厚手の服が破れ、その下に血がにじんでくるのをみとめた。これはまともに食らっては肉が裂けるかもしれない。
「ってか、空塔最上階で八つ裂きとかはかんべん……」
「死ぬのが嫌なら、諦めるという選択肢も君にはあるだろう」
「あるか、んなもん」
 ここで譲って失われるものは大きい。それは虚都人にはわからぬものかもしれないが、アキラは二人のプレイヤーと戦って、ますますそう感じるようになったのだ。
 じくじくと広がる痛みをこらえて、彼はまっすぐに立つ。黒服に向けて右手を上げた。
「お前と俺の、痛みを入れ替える!」
 相手の体がびくりと震える。苦痛の声こそあげなかったが、脇腹に痛みが走ったのだろう。鞭を振るおうとした手が止まり、赤い三本の紐が垂れた。アキラはその隙に走り出す。
 台座にはめこまれたシギル。それが意味するものは、都市の自由そのものだ。
 アキラは石の台座を背に、己の拳を握った。黒服にむかって大きく床を蹴る。
 赤い鞭はまだ動かない。きっと間に合う。
 白い仮面を前に腕を振りかぶって――だが、アキラはその時ふと違和感を覚えた。
 振りぬこうとした手が止まる。シェラの声が聞こえた。
「アキラ!」
 警告か悲鳴かわからない叫び。
 彼の体は次の瞬間、部屋の端まで弾き飛ばされた。
 

『好きにしなさい。それが君を救うと思うなら』
 男はそう言った後、少し考えるような顔を見せた。横たわるアキラにむかって付け足す。
『もしいつか君が、知りたかったことを見つけられたのなら。その時は――』

 数秒の間気絶していたのかもしれない。
 気がついた時、アキラは床にあおむけになっていた。プレイヤーの少女がその上に覆いかぶさるようにして歯を食いしばっている。白かった彼女の袖は引き裂かれ、血で黒く染まっていた。アキラはそれを見て跳ね起きる。
「っ、ぐあ……っ!」
「アキラ!」
 あまりの痛みに頭の中が真っ白になる。
 どういう状態であるかはわからないが、黒服の攻撃を至近から浴びたのだろう。アキラは激痛にあえぎながら、それでもシェラの体を両腕で抱き寄せた。くるかもしれない追撃から彼女をかばおうとする。
 しかし恐れていた攻撃はいつまで経ってもやってこない。代わりにアキラの耳にはエジードの嘆息する声が聞こえた。
「降参する気があるなら言うといい。私の目的は貴女たちに苦痛を与えることではない」
「よく言うよ……」
 アキラにはそれだけ答えるのがやっとである。シェラは彼の腕の中でみじろぎしたが、何も言わなかった。
 寄り添う傷だらけの二人をエジードは真面目くさった目で眺める。
「場違いな感想とは思うが、そうしてあがいている君の姿を見ると、ますますこのシステムを手に入れなければ、と感じる」
「は……? 頭おかしいのか、あんた」
 意味のわからぬ戯言に怒りの言葉を返す余裕もない。アキラは目を閉じて深く息を吐き出した。傷口の上でそっと動く白い手。彼はシェラを抱く腕を少しだけゆるめる。
「正直な気持ちだ。私も実際この世界を体験するまで、半信半疑だったところはあるのだからな。だが、君を見て確信した。博士の試みは成功だった。このプログラムとデータを応用すればもっと多くのことが可能になるだろう」
「意味わかんねーよ」
 呼吸が楽になる。アキラは浅い息を繰り返す。胸の上でシェラが唇を噛んだ。彼は少女の背に回していた手を下ろす。拳を握って指の感覚を確かめた。
 淡々とした男の声が、壊れかけた部屋に響く。
「わからないというのなら彼女に聞けばいい。君には知る権利があるはずだ」
 弧を描く窓に傷はついていない。見える空は濃い紫だ。
 広がる第八都市の景色。整然として美しいその眺めにエジードは目を細める。
 男のもとに、台座からシギルをはずした代行者が歩み寄った。白にも銀にも見える小さな珠。掌におさまるほどのそれを、エジードは黙って受け取る。
「あとはこれを屋上の台座に納めるだけか……。もっともそれだけでは不足だ。チェンジリングのスキルストーンがなければな」
「――っ」
 とどめを刺されることを警戒して、アキラは起き上がろうとする。
 だがそれを、シェラの手が留めた。彼のすぐ上に浮きあがった彼女は、顔だけでエジードを振り返る。
「スキルストーンを抽出すれば、彼を見逃してくれますか」
「シェラ!」
「彼を殺さなくてもそれが可能だというなら。いや、貴女なら可能なのだろうな。スキルコードへの干渉くらいたいした問題ではないのだろう」
「不正行為のように言わないでください。プレイヤー権利を放棄すればいいだけです」
「シェラ、やめろ」
 ――ここで負けては、都市が滅びてしまうかもしれない。
 それは死ぬことのない都市人一人よりも、よほど重要な問題だ。
 アキラは契約者を止めようと手を上げる。強張って伸ばした指が、かろうじて彼女の服をつかんだ。
 少女はその手を見て息を飲む。黒い瞳にいくつもの感情が衝突して跳ねた。
「少し……彼と、相談させてください」
 猶予を求める声が絞り出されると、エジードはあっさり頷く。
「わかった。決心がついたのなら上の台座まで来るといい。貴女の立会いをもって、私はこの勝負を終えよう」
 男は視線を巡らすと、黒服の代行者に部屋の片隅を示した。そこには金属のハシゴが壁に打ちこまれており、天井の非常出口へと続いている。その先は屋上になっているのだろう。黒服はさっさとハシゴを上りはじめた。一方宙を歩く男は、憐憫に似た目でアキラを見る。
「君には先ほどの質問について答をもらっていないが……聞かずともわかるな」
 男の声は、まったく違う世界から来る言葉のようだ。ひびわれた部屋をただ感慨もなく流れていく。
「君にとってやはり『死』は軽いものでしかない。永遠に姉を喪った彼女の後悔を、まったく理解できていないのだからな。タイプEでこれとは、空恐ろしいことだ」
 小さな嘆息が聞こえて、エジードの姿は空に続く出口へと消えた。
 アキラは天井を仰ぐ。
 探しているものは、そこにはなにも見えなかった。

 敗北感を味わうことは初めてではない。
 そのようなものは、今まで何度も味わってきた。普通に生きてきた人間なら、それはけっして珍しい経験ではないだろう。
 けれど今ほど強い焦燥に駆られたことは、きっとなかった。アキラは自分のすぐ上にいるシェラを見上げる。
「降参とか、しないよな」
「でもアキラ。あなたが」
「俺のことはいいって。前から言ってるだろ。それよりも都市の方が大事だ」
 言いながらもアキラは、言葉にできないある種の予感を覚える。
 それはまるで、どうしても聞き取れない囁き声のようで、忘れてしまった夢の欠片のようだ。そこになにかがあることはわかるが、なんであるかはわからない。
 シェラとエジードの応酬において、はしばしに感じられた齟齬感。二つの世界の違い、思い出せない記憶。最後に男が向けてきた憐れむような視線が、見えない不安をあおりたてる。
 シェラは、じっと自分を見上げてくる代行者の視線に、小さくかぶりを振った。けれどそれは拒絶というより、迷いを打ち消すためのものに見える。細い指が、震えながらアキラへと伸ばされた。
「話さないでいようと思っていました。あなたたちに言うようなことではないと」
「いいよ、言ってくれ。――俺はシェラの、なにを理解できてないんだ?」
 予感が強くなってくる。
 波打ちながら近づいてくるそれは、アキラの喉元にこびりついたまま動かない。正体も知れない。だが目の前の彼女であれば知っているのだろう。
 少女の小さな手のひらがアキラの頬に触れる。彼女はそうして、泣き出す寸前のように顔を歪めた。
「アキラ……全ては、私の姉のためのものだったのです」
「ニーナの?」
 生まれつき病弱だったニーナ・ハーディ。
 稀代の歌姫ニーナ。
 同一人物だったという女の名は、どこかでなにかを呼び起こす。
 シェラは頷く代わりにゆっくりとまばたきした。長い睫毛が作る影は、白い肌にひどく映えて見える。
「姉は生まれつき寿命を宣告され、ベッドから出ることもままなりませんでした……。だから父は研究を重ねて、不自由な体に縛られず生きられる世界を用意したのです。大切な娘が、せめて最後の数年を幸福に過ごせるようにと」
 黒い双眸が、涙を湛えて彼を見下ろす。その涙は、しかし彼の上には落ちてこない。ただ鏡の空へと還っていく。
「アキラ――この世界は最初から造り物なのです。あなたたちの住む十二都市とは、父が構築した仮想現実で……つまり、姉のための巨大なホスピスだったのです」
 シェラ・ハーディはそう言って、濡れた瞳をきつく閉じた。