曲空虚空 25

mudan tensai genkin desu -yuki

 美しい声だった。
 絵本を読んでくれる姉の声。その声が好きだった。
 だから「歌手になればいいのに」と言ったことがある。
 その時姉は微笑って、「そうね。なってみたいわ」とシェラの頭を撫でた。
 姉が舞台に立てるような体ではないと、父から聞いたのは同じ日の夜のことだ。
 シェラはその時ようやく、姉の負っているものの重みを知った。



『亡くなった姉、ニーナ・ハーディ』
 その言葉は、アキラに「理解できないもの」として届いた。
 わからない、と思いながらも、何を聞いていいかわからない混乱。彼はこめかみを手で押さえる。
「……え? 亡くなった? どういうことだ?」
 シェラを見上げると、彼女は蒼白な顔でアキラを見返していた。薄く開いた唇から、細く息を吐く音が聞こえる。それはなんらかの言葉と繋がろうとしているかのようで、しかし声になるよりも早く、エジードによって遮られた。
「君は彼女から聞いていなかったのか。ニーナ・ハーディは知っているだろう? こちらの世界では有名な歌手だ。つい先日持病で亡くなり、だからこのゲームが始まった」
「ニーナ……?」
 その名はもちろんよく知っている。十二都市においてもっとも高名な歌手ニーナ。
 だが、彼女の姓をアキラは知らない。姓などなかった気がする。
「なに言ってんだ……? ニーナはニーナだろ。虚都人じゃない」
 彼女は他の歌手と比べてあまり派手な舞台に出ることはなかったが、それでも何度かライブを行ったことはあるのだ。アキラ自身は見たことはないが、ミヤなどからその時の話は聞いている。少なくともニーナはさかさまではなかった。いたって普通の、美しい女性だったはずだ。
 そんな彼女が、シェラの姉のはずがない。第一シェラは、姉を助けるためにこの都市にやって来たのだ。
 そう思うアキラの脳裏には、ただ一瞬、ずっとイヤホンをはめていた少女の姿がよぎった。
 淋しげな、深い後悔を宿した瞳。家族について語る時、いつも物憂げであった彼女を、アキラは見上げる。
「シェラ? 姉貴って虚都で病気になってるんだよな?」
「アキラ……」
「なるほど。彼女は君にそのような説明をしていたのか。――無理もない。こちらの世界では『死』という概念からして希薄だからな。事実を話しても、理解を得られないと思ったのだろう」
「死、という概念?」
 異物のような単語は、アキラの意識の中に溶けることなく転がる。それを「知っている」と思いながら、だが同時に彼は「わからない」とも感じた。
 なかば呆然としているアキラに、エジードは興味深げな視線を向ける。
「ちょうどいい。こちらの世界の住人と話をしてみたかった。そう、君たちにとって、死とはどういうものであるのか」
「死が、どういうものであるのか?」
 飲み込めない問いを、アキラはそのまま反芻する。
 シェラは動かない。彼女は人形になってしまったかのように凍りついていた。
 いつかどこかで聞いたような質問。アキラは軽いめまいを覚える。
「俺は……」
「質問の意味からしてわからないのか? 概念の希薄とともに単語も消失してしまったか」
「エジード・バレ……やめなさい」
「どうしてだ? このようなゲームに巻き込んだのだから、確認しておいた方がよいだろう。もっとも私たちプレイヤーにとっては、そっとしておいた方が好都合な問題なのかもしれないが」
 震える手で額を押さえるアキラを、男はまじまじと眺めた。観察と探求の目。エジードはあっさりと結論を口にする。
「この世界の人間は、死を迎えてもそれで終わるわけではないのだろう? 記憶を消され、新たな肉体を得て、子供時代からやりなおす。別の人間としてではあるが、次の生が保証されているとは、どういう気分なのか。私はそれを聞いておきたい」

 エジードの声は、教師を連想させる抑揚のないものだ。だがその言葉は、今度はおおよそが理解できた。
 アキラは呆然としかけていた気を引き締めると、あらためて男をにらむ。
「それがどうした? 当たり前のことだろ」
 アキラの指は、無意識に自分の耳の後ろに触れた。その奥にあるのだろうチップを意識する。
 ――人の脳には、みな小さなデータチップが埋め込まれている。
 それは一人一人の核のようなもので、肉体が限界を迎えて機能停止した際に回収され、新たな体に埋め込まれるのだ。
 培養層によって作られ、六年間保管された子供の体は、チップを入れられて初めて人間となる。約一ヶ月の睡眠を経てチップと体をなじませ、目覚めた後は初等部へと入るのだ。
 もちろん体が入れ替わると同時に、容姿や名前も変わる。性別は同じままだが、記憶はまっさらな状態に戻るのだ。そうなればもはや別の人間と言った方がいいだろう。アキラも今の自分が終われば、「瀬戸アキラ」はそれでおしまいだという認識を持っている。
 だがそれはそれとして、次に新たな人生が待っていることは事実だ。人はそうして、何度も違う生を渡っていく。十二都市において「終わり」を深く嘆かれるのは、ニーナのような特別な人間だけで、普通の人間はその終わりを親しい人間たちに惜しまれながら、だが希望をもって見送られるのだ。
 エジードはアキラの返答を聞いて、「なるほど」と呟いた。
「意識の違いを知りたいのなら、こちらの常識について伝えておくべきか」
「そっち? 虚都のことか」
「そう。こちらでは、全ての生き物には『死』という厳然とした終わりが存在する。肉体が機能停止した後に続くものなどない。何の保証もないのだ。別人になることも戻ってくることもない」
「え? 阿呆か。それだと人間絶滅するだろ」
「生殖によって増えていくから問題はない。私たちは君たちと違い、自らの体によって次世代を生み出す。最初からチップなど必要ないのだ」
 スーツ姿の男は、表情こそ変わらぬままであったが、アキラとのやり取り自体に関心を抱いているようだ。知らなかった話を聞く少年の眉の動き一つにさえ、注目している気配を感じた。
 アキラはそのことに薄気味の悪さを覚えつつ、シェラを振り返る。
「あいつの言ってること、本当なのか?」
 シェラは、すぐには返事をしなかった。
 だがその目を見れば肯定か否定かはわかる。アキラは内心「だからシェラは捨て身の行動を嫌がるのか」と納得した。
 マティルドを退けた後、シェラは涙ぐみながら『私とあなたでは、生死の常識が違う』と言ったのだ。その時は意味がよくわからなかったが、彼女はこの差異を知っていて、それを悲しんでいたのだろう。
 黒い瞳には、収まりきらぬ焦燥が浮かんで見えた。
 アキラが彼女へと手を伸ばした時、だがエジードの声が続ける。
「君たちにとって、死の持つ意味は軽い。それがどのような意識の変化を及ぼすのか、私は聞いておきたいのだ。たとえばマティルドはこのゲームにおいて多くの人を殺害したが、それは大した問題視もされていないように思える。もちろん報道はされていたが、私などから見ると『扱いが軽い』と思うのだ」
 事務的に処理される人の終わり。事故などの原因はきちんと調査されるが、多くの人間は、人の終わり自体を重大事とは思わない。「同じことが繰り返されなければいい」と、ただ願う。他の多くのニュースと同じように通り過ぎていく。
「それに君自身も、自分の身をかけることにさして抵抗を抱いていないのだろう? 私たちプレイヤーを攻撃することについてもそうだ。スガやマティルドのやり方は誉められたものではなかったが、君は彼らに実力行使することを選んだ。そこには死の不在による倫理観の差異が影響しているのではないか?」
 喉の奥が乾く。
 男の声は、やけに遠くから響いているようだ。夢の中で聞くに似たそれに、アキラは軽い苛立ちを覚える。

 世界が違って、生死の常識が異なって、それがなんだというのか。
 死がない世界ならば、人や都市を軽んじていいのか。踏みにじってもいいというのか。
 興味がある、という男の物言いは、実に傲慢なものに聞こえる。
 それはアキラ自身意識していない奥底の何かを、汚しているような気さえするのだ。

『――とははたして、なんであると思う?』

 白い記憶はあいまいなままだ。
 先ほどから妙に痛む頭を押さえて、アキラはシェラに向きなおる。
 虚都と十二都市が違うのだという話はいい。今はそれよりも聞きたいことがあった。
 苦しげに顔を歪ませた少女は、紅い唇をわななかせてアキラを見る。
「アキラ……」
「聞いていいか? ニーナがシェラの姉貴だって、本当のことなのか?」
 詰問するつもりはない。できるだけ落ち着いた声での問いに、ややあってシェラはかすかに頷いた。大きな眼が軽くうるむのを見て、アキラは聞いたことを後悔しそうになる。
 ニーナの訃報が流れたのは、シェラが来る数日前のことだ。シギルが置かれるよりも前の話。
 姉の治療法を探しに来たと、少女が言った時には既に、ニーナは十二都市にいた。都市にいて、「終わって」いたのだ。その食い違いがなにを意味しているのか、アキラは一つの答に辿りついていた。
「姉貴の容態が悪かったからか? だから死がないってこっちの世界に連れてきたのか。親父さんは……それに携わってたんだな」
 今更だ、と言っていた少女。それは歌手だった姉に会えなかったことを悔やんでいるのだろうか。最初の生に間に合わなかったことを、悲しんでいるのかもしれない。
 だとしても、この世界で「終わり」は絶望ではない。アキラが消えてしまった兄の無事を期待しているように、ニーナにも次があるはずだ。――そう思う彼に、シェラは長い睫毛を震わせる。
「い、今まで黙っていてすみません……」
「謝るなよ。それはいいんだよ。最初から言ってくれたってよかったんだ」
 それとも自分は、エジードの言うように彼女の気持ちを理解できていないのだろうか。
 アキラの渡した音楽プレイヤーを肩身はなさず持ち歩いていた彼女。騒がしい雑踏の中からでも姉の歌を聞き分けた彼女は、今までどのような思いでいたのだろう。なぜそれに気づけなかったのか、アキラは喉がつまるような感覚を覚える。
 シェラは小さく首を横に振った。
「嘘を、ついていて……ごめんなさい。私ただ、姉のいた世界を見たかったのです。だから無理を言って参加して……」
 消え入りそうな声。少女はアキラを見て、もう一度「ごめんなさい」と言った。