曲空虚空 01

mudan tensai genkin desu -yuki

 今日の空は緑色だった。
 透き通るようなエメラルドグリーン。人気の高いこの色が空を彩るのは実に十八日ぶりのことだ。予定天候は十七時から霧雨。五月は夕暮れの霧雨が多くて、一体誰の趣味かと問いたくなる。だがもう七年も続いている傾向であるからして、それは「季節」であると空塔管理部は主張したいのかもしれない。学校帰りのアキラは明るく澄んだ空を仰いだ。人影のないエリア道の片隅で、高校の黒い学生服は染みのごとく浮いて見える。
 彼の視線が向かう先、きらきらと地上の光を反射する空の正体は、各都市に一つずつある空塔を支えとして、遥か上空に張られた鏡面体だ。そこには空塔からの命令を受けて予定通りの空が映し出され、場合によっては雨が降る。そしてアキラの住む第八都市の天候予定では、あと三十分後には霧雨が降り出すことになっていた。彼は腕時計を確認する。
「ぎりぎり間に合いそうだな……」
 このまま行けば雨の降り出す五分前には寮へ帰りつけるだろう。アキラは買い込んだ雑誌を濡らさぬよう足を早めた。横を見れば埃っぽい車道を色褪せたちらしが飛んでいく。遠くに見える解体工事中のビルの隣、巨大な壁面ビジョンでは、若手歌手の訃報が流されていた。彼は薄灰色の建物群から、また空へと視線を戻す。
 級友たちは転移ポートを使わず徒歩で移動する彼を変わり者と笑うが、アキラはこのように色の変化していく空を見ながら自分の足で歩いていくことが好きだった。一つの翳りも見えない緑の空に、彼は「向こう側」が見えないものかと無意識のうちに目を凝らす。近くのビルの壁面に設置された看板が、視界の隅で魚の鱗のようにきらめいた。緑の空はその反射も受け止めて、穏やかに透き通った光を地表へと返す。アキラはしばらくの間、目を細めて鏡面を注視していたが、均一に調整された緑の向こうには一つの影も見えなかった。
「ま、虚都人が見えるなんて、あるわけないんだろうけど」
 空である鏡面体の上には、同じ鏡面を空とするさかさまの都市「虚都」があるという――それは子供の空想などではなく公的な記録にも載っている話ではあったが、そこに見られる「都市が存在している」という記述以上の詳細を知る者は、一般に知られている限りどこにもいない。
 何しろ今まで鏡面を越えて向こう側へと渡った人間は一人もいないのだ。金や身分があれば鏡面体を越えられるわけではない。ただこの地上に、空塔の下に、誕生した者は皆、鏡面の先へ行く手段を持っていない。それは鏡面体に最も近い空塔に勤めている者でさえ同様であり、越えることの出来ない空は、いわば世界の果てを示す壁と思った方がいいのだろう。
 アキラは舗装された街路を、時折空を見上げながら歩く。広がる空の向こうには上下反転したさかさまの住人が生活していると聞くが、実際に虚都を見てきた者などいない。「どこからそのような話が出てきたのか」とは、地上の住人であれば誰でも一度は抱く疑問であったが、今やそれは考えても仕方ない子供じみた問いとみなされていた。虚都の住人のことなど、天候予定よりもずっとずっと彼らの生活には関係がない。そのようなことを気にしているのは学者か夢想家くらいのもので、空を見ることが好きなアキラもまた、級友たちなどからはロマンチストとからかわれることがあった。
「蒸してきたな……」
 霧雨の時刻が近づいてきたせいか、気温と湿度が少しずつ上がってきている。アキラは学生服の襟を緩めようかと手を上げたが、それをするより先に、反対側の歩道から軽い足音が聞こえてきた。見ると街路樹の下を、顔見知りの少女が制靴を鳴らして走ってくる。紙袋を抱えた彼女の方もアキラに気づいたのか顔を上げた。
「アキラくん! 雨降ってきちゃうよ!」
「知ってるって」
 アキラがそう返すと、彼女は大きな目を丸くする。急に立ち止まったせいで、耳の上で二つに結ばれている髪がふわふわと揺れた。その様はどこか耳の大きな小型犬を連想させ、アキラは口の中で笑いをかみ殺す。白いシャツに灰色のプリーツスカートという制服姿の彼女は、車道を挟んだ距離から目ざとくそれを見咎め、形のよい眉を寄せた。
「ちょっと、なんで笑うのよ」
「笑ってない。気のせいだろ」
「気のせいじゃないよ。アキラくん、いつもそうなんだから」
 唇を曲げてにらんでくる少女の名前は佐野ミヤ。アキラとは同じ高校に通う一年生で、今は同じクラスに所属している。すらりと長い手足に整った顔立ち、そして人懐こい性格で、校内では他学年にまで広く顔を知られている有名人の一人だ。彼ら二人は初等部から数えて七度同じクラスになっており、お互いにそろそろ腐れ縁だと認識してきている。ミヤは左右を見回すと、車道を横断して彼の元に駆け寄ってきた。
「また本屋? また付録を買いに行ったの? アキラくんって本当に付録大好きだよね」
「付録付録言うな。ちゃんと雑誌もついてる。あと今回のやつは一年間買い続けると、十二都市のジオラマが完成するんだぞ。もちろん空塔と空ドームつき」
「ふーん。がんばってね」
 どうでもよさそうな反応はいつも通りのものだ。ミヤは小走りに彼の隣へ並ぶ。細い指がエメラルドグリーンの空を指さした。
「この色珍しいよね。ラッキー?」
「基本、短時間しか見れないからな。それも月に一回あるかないか」
「わたしが空塔管理部に就職したら、毎日この色にしちゃおうかな」
「お前が管理部に就職できるはずがないし、万が一できてもそんな仕事は回されない」
 気分屋の幼馴染をそう両断すると、ミヤは大きく頬をふくらませた。緑の空から視線をはずし、隣のアキラをねめつけてくる。
「っていうか、アキラくんはあいかわらず転移ポート使わないんだね。放浪好きはいいけど、何も雨予定の日にやらなくてもいいのに」
「徒歩で帰るだけで放浪とまで言われるとは」
「だってそんなことしてる人、アキラくんくらいだし。だから孤独を愛するすみっこ男とか言われちゃうんだよ」
「へえ。いつからそんな風に言われてるんだ?」
「わたしが言い出してからかな」
「そうか。孤独を愛するとすみっこはどっちか片方で充分だからな」
 軽口で返してはみたが、繁華街から郊外へと向かうこのエリア道には彼ら以外の人影はない。やはりポートを使わずエリア間を移動する人間などほとんどいないのだろう。
 広い車道も先ほどからまったく車が通らず、辺りは整然とした生活観の感じられない風景に占められている。乾いた路面の上には風に乗った砂が薄く降り積もり、見る者もいない信号機が青緑を示して、遥か向こうにまで続いていた。
 なかなか周囲の理解を得られない散策癖を持つアキラは、友人の中では比較的付き合いのいい少女を見やる。
「ミヤはこのまま徒歩で帰るのか?」
「それでもいいけど……あ、やっぱり途中で学校に寄る。生誕祭準備の買い出ししてたんだ」
「ああ、それがあったか」
 六月頭にある「生誕祭」は、地上に十二ある都市全てが総力を挙げて行う大イベントだ。五日間続く祭りの中には彼らの所属する青山北高の学園祭も含まれている。しじゅう人から頼みごとをされるミヤは、学園祭においてもいくつかの役割を掛け持ちしているらしい。アキラは感心の目でクラスメートを眺めた。
「よくやるなぁ。そんなばたばたしてて当日まで持つのか?」
「あと六日しかないんだよ! って、みんなを待たせてるんだった! もう行かないと。あ、これあげる」
「はいはい。気をつけてな」
「アキラくんも。最近天候予定が狂うことが多いらしいから気をつけてね」
「天候予定が狂う? はじめて聞いたな」
「わたしもカイくんに聞いただけだけど。今までは全部真夜中だったみたいよ」
「へえ」
 うさんくさい話だとばかり思っていたが、やはり初等部からの付き合いであるカイは、嘘をつくような人間ではない。彼は将来、空塔管理部に勤めたいと言っているだけあって空塔絡みの情報にも詳しく、とたんに話は真実味を帯びて感じられた。真面目な顔で頷くアキラに、ミヤは駆け出しながら手を振る。
「じゃあね! あんまり空ばっかり見てると転ぶからね!」
「誰が転ぶか」
 そっけなく返すと、ミヤはくすくすと笑った。そのまま走り去っていく小さな背は、あっという間に近くの角を曲がって見えなくなる。おそらく近くのポートへ戻るのだろう。せわしない級友にアキラは苦笑し、別れ際に押しつけられたものを見やった。
「……なんだこれ」
 手の中にあるものはおもちゃの杖だ。銀一色で星のついた杖は、十年前ならばアキラも無邪気に喜んだかもしれない。彼はそれを目の上にかざしてみる。
「劇の小道具か何かか? なんで俺に渡すんだよ」
 あげる、と言われた以上、アキラのものなのだろうが、このようなものをもらっても処置に困る。彼は杖を手の中でくるりと回した。綺麗に貼られた銀紙がそれにともなってチカチカと空からの光を跳ね返す。
「使い道不明……」
 今は人通りがないとは言え、寮近くになれば同じ高校の生徒と遭遇する可能性は高い。そのような時、子供のおもちゃを手に提げていたなら何を言われるかわからないだろう。アキラはスポーツバッグを開け、教科書の上に銀の杖をつっこんだ。そうして再びバッグを持ち直した時、手の上にぽたりと水滴が落ちる。
「え?」
 どこかから何かの水が飛び散ったのかと、疑ったのは一瞬だった。空を見上げたアキラは、ぽつぽつと降りだした雨を見て唖然とする。
「天候予定と違うだろ……」
 霧雨が降りだす十七時まではまだ三十分ほどある。おまけに降ってきているのは、数こそ少ないが大粒の雨だ。アキラはミヤに言われたばかりの忠告を思い出したが、これは予定が狂っているというより設備の故障か何かだろう。我に返った彼は雑誌の入った袋を濡らすまいと胸に抱え込んだ。寮まで走り出そうとした時、けれど緑の空の片隅で、何かが光る。
「ん?」
 また看板かと思った。それ以外の心当たりなど思いつかなかった。
 だが、白く輝く光は、アキラが見上げる真ん中を一向に消えず揺るがず迫ってくる。雨粒を追い越し、墜落する勢いで宙を貫いた。それは落雷よりもまばゆく、後に残る軌跡が白金色の柱となる。――そして落ちてくる真下にはアキラがいた。
 逃げた方がいいと思うのだが、体が動かない。アキラは空を仰いだまま、ただ茫然と近づく光を見ていた。彼が衝突を覚悟したのは、光がまさに彼に降りかかる寸前のことだ。全身を白く照らされたアキラは、魅入られたかのようにそれを凝視する。

 もし光がそのままぶつかってしまったのなら、事態はもっと面倒なことになっていただろう。
 しかし白光は、地上から約三メートル、彼の眼前で音もなく消え去った。代わりに中からはしなやかな黒髪が広がる。小さな白い顔と細い体。たゆたう長い髪の隙間からは淡い緑の服が見えた。アキラは口を大きくあけて、頭上に浮かぶ「その人物」を見つめる。
「は……?」
 それは、さかさまに浮く一人の少女だった。すっと通った鼻梁と小さな赤い唇、長い睫毛を持つ瞼は閉じられていて、どのような目であるのかわからない。しかしそれを差し引いても繊細な容貌は芸術品と言っていい美しさだった。年齢はアキラと同じか少し下に見えるが、かわいらしいなどという表現はそぐわない。「綺麗すぎて近づきがたい」という印象に加えさらに異様さを覚えるのは、今のこの状況が大きく影響しているのかもしれなかった。
 アキラは無意識のうちに止めていた息を吐き出すと、じろじろと得体の知れない少女を見上げる。
「なんだこれ……幻覚か?」
 空から墜落してきた少女。今なお彼の頭上に浮いている彼女は、どう考えても普通の状態ではありえない。アキラは彼女の存在そのものを目の錯覚だと片付け、距離を取りかけた。だがその時、あることに気づく。
「え。濡れてる?」
 天候予定から外れて降りだした雨が、少女の黒髪を濡らしている。透明な滴は髪に染みこみ、漂うその先を伝ってぽつりとアキラの顔に落ちた。少しだけ温かく感じるそれを彼は指で拭ってみる。
「へ?」
 幻覚が濡れるなどということがありえるのだろうか。
 アキラは一瞬ぽかんとしたが、改めて少女を見上げると、そっと右手を上げてみた。ためらいながらも揺れている黒髪へ指をのばす。
触れてどうしようと思ったわけではない。ただ確かめてみたかった。
 そうして広がる髪にぎりぎり指が届くかといったところで、彼が背伸びをしかけた時――少女は不意に両目をあける。黒々とした大きな瞳が、真っ直ぐにアキラを見た。
「あ……」
 深い黒。夜の空と同じ色の目。
 落ちてきた少女はさかさまのままアキラを注視する。艶のある睫毛が軽く震えた。
 雨が降っている。霧雨ではない雨。後にこの時の出会いを思い起こす時、彼はまずその記憶を引き寄せる。
 だが少なくとも今この時、アキラは彼女以外の何も見てはいなかった。