曲空虚空 19

mudan tensai genkin desu -yuki

 視界から幼馴染の姿が失われる。
「──っ」
 呆然としかけたアキラの腕を、シェラの足が蹴った。彼女はまるで飛び込みでもするように、落ちていくミヤを追って消える。
 その衝撃で我に返ったアキラは、見えない向こうを指さした。
「ミヤと俺の、位置を入れ替える!」
 ゆがむ世界。脳内に激痛が走った。思わず目を閉じたアキラは、刹那の浮遊感に奥歯を噛む。
 足もとの床がなくなる。風が顔に吹きつける。静寂が消え、空気の音が耳を圧した。
 ──だがそれも、ほんの一瞬のことだ。
 床の感触が戻ってくる。アキラは嫌な予感を覚え、後ろへ跳んだ。目を開けると顔のすれすれを包丁の刃が通りすぎていく。
「あっぶね!」
「スキルの無駄づかいをしているからよ」
「無駄じゃない」
 態勢を完全に立て直す間もなく、背後から男の腕が襲いかかってきた。アキラは身をよじってその腕をよける。すれちがいざまに振り回した警棒は、偶然腕の中ほどに当たった。
 しかしそれはたいした威力にならなかったようで、腕は宙を旋回して彼に向きなおる。
 ニ対一となった状況。けれどそれも、シェラを信じればこそ持ちこたえるつもりがあった。アキラはマティルドと腕の両方から数歩距離を取る。
「位置の入れ替えは、たしかに初期状態じゃコンマ一秒も持続しないって言われたけどな。……ゼロじゃないんだ」
 そして、ほんの一瞬でも落下を止めることができるならば。
 シェラはきっと間にあう。アキラはそう信じてマティルドをにらむ。
 女は面白くもなさそうに唇をゆがめた。
「だから? 今は自分を心配した方がいいわ。まずはお前からよ?」
「それでシェラを排除したら次はこの都市を滅ぼすのか? ──お前は、第八都市を壊そうってやつに協力してるのかよ」
 吐き捨てた言葉の半分は、マティルドにではなく隠れたままの男へむけたものだ。
 返事はない。だが息を飲む音が聞こえた気がした。アキラは警棒を握りなおす。
「知ってんのか? この騒ぎが虚都から空塔を操作する権利を賭けたものだって。こんな女を勝たせたら都市が滅ぶぞ! 好きにさせていいのかよ!」
「ずいぶんな言い草ね」
 マティルドは高いヒールを鳴らして天井に降り立った。硬質な音を聞いて、アキラは気を引きしめる。
 虚都から来た人間は、機敏な動きはできないと思っていた。だがそれは、彼らに上方への緩やかな重力がかかっているためで、何かを蹴って移動すれば俊敏な攻撃も可能になるのだ。
 アキラはマティルドを見ていてそれに気づいた。おそらくシェラもそうだろう。頭の中に伝わってくる声に、アキラは深く息を吐き出す。
 男の腕は動かない。だが指先はかすかに震えていた。マティルドは不快げに片眉をあげる。
「動きなさい。お前も他の人間のようになりたいの?」
 びくりと男の腕が震えた。弾かれたように動き出すそれを、アキラは険しい目で見やる。今のやりとりだけで彼はおおよそを察した。
「何人も首を絞めたのは、代行者を作るためか?」
「そうよ。本当はタイプEが欲しかったのだけれど。見つからないからDで妥協したの」
「……ふざけんなよ」
「ふざけてなどないけれど? お前はどちらのタイプだったのかしら?」
 過去形で語られた問い。女は言い終わると同時に天井を蹴った。同時に男の腕が跳ねあがる。
 ニ方向からの攻勢に、アキラは考える間もなくコンクリートの上を転がった。向かってくる腕のすぐ下をくぐりぬけ、両手をついて跳ね起きる。
「だから、言いなりになってんなよ!」
 目標を失った腕に向かって警棒を振りぬく。今度の攻撃は、避けられることなく男の腕を強打した。
「ぎゃっ」
 短い悲鳴が後ろから聞こえる。
 それまではアキラの反撃を、さっとかわすことが多かった腕は、今は痛みのせいかもたもたと右に逃げようとしていた。彼はさらにそれを追って警棒を薙ぐ。風を切る音をさせ、銀色の棒は腕の中ほどを打ち払った。
 またもや上がる悲鳴と鈍い動きに、アキラはベランダでのことを思い出す。悲鳴の聞こえた方から計算して、彼はすばやく自分の体の角度を変えた。
 ──この腕は、おそらく使用者が目視で動かしているのだ。
 だからこそ腕を見えないようにしてしまえば、コントロールはままならなくなる。
 意図的にその状況を作ったアキラは、痛みにのたうつ腕へと、さらに警棒を振り下ろした。
 骨の折れる音。嫌な感触が伝わって、アキラの顔は自然とひきつる。暗がりの中から大きな叫びがあがった。
「ぐああぁぁぁああっ!」
 男の絶叫を聞いてつい振り返りかけたアキラは、しかし正面に向きなおると警棒を構えた。床を蹴って向かってきたマティルドの刃をとっさに警棒で外に払う。
 女の青い瞳が驚愕に染まった空隙。
 止まっていられる時間はない。躊躇は敗北に繋がるだろう。
 だからアキラはさらに一歩踏み込むと、左手で作った拳を、迷わず女の顔に叩きこんだ。

 マティルドは悲鳴をあげなかった。
 天井近くまで浮き上がった彼女は、空いている方の手で鼻を押さえる。細い指の隙間から、憎悪に燃える目がアキラを射抜いた。
「この、クソガキが」
「……あんた、スガとは似たもの同士だな」
 呼吸を整えるため挟んだ軽口は、相手になんの効果ももたらさなかった。マティルドは包丁を握り、身をひるがえす。暗がりの中へと走り去る女を、アキラは逃げたのかと一瞬思った。
 しかしその考えはすぐに間違っていたとわかる。
 闇の中から男の絶叫が聞こえる。尋常ではない悲鳴は、あきらかにそれまでのものとは異なっていた。目の前でのたうっていた腕が跡形もなく消える。
「……え、まさか」
 当たって欲しくない予感ほど、おうおうにして当たる気がする。まもなく闇の中から現れた女は、包丁を握る右腕を胸の前に漂わせながら、残る左手で頬の返り血を拭った。
「最初からこうしていればよかったのよ。代行者なんて不要だわ」
「……あとの成績にロスが出るんじゃなかったのかよ」
「多少はしかたないわね。シェラ・ハーディの方が優先事項だわ」
「うぜえ。粘着すぎ」
 気分の悪さが胃の中にせりあがってくる。アキラは唾棄したい衝動をこらえて、血濡れた包丁を見上げた。天井に立つ女の左手のひらに、青いコードが浮かび上がっているのがわかる。
 マティルドは唇の両端をつりあげ、自分のコードを見つめた。
「さあ、そろそろ片づけてあげるわ。殺しはしない。お姫様にスキルが戻らないようにね」
 包丁の切っ先が、アキラへと目標を定める。いつ向かってくるかわからない刃。その切っ先に意識を集中させながら、しかし沸き起こってくるものは恐れではなく強い怒りだ。
 第八都市空塔を背にして立つ彼は、この都市に住む一人としてさかさまの女に対する。
「俺さ……今まであんたのこと、振り分けられた都市に帰れって思ってたけどさ、やっぱいい」
「屈する気になったということ?」
「まさか」
 脳内に感じる熱はおさまっている。
 もう一度スキルを使える余裕はあるだろうか。あるはずだ。現に相手はずっとスキルを使い続けている。チェンジリングが彼らのものより特異なスキルだろうと関係ない。
 慣れと集中、そして確固たる意志。全て持っているはずだ。今この場を勝ち抜くくらいには。
 アキラは空を切って警棒を払う。
「お前にはどこのシギルも渡さない。──俺が、ここで排除してやる」
 肺の中の息を全て吐ききる。彼は静かに燃える目で女を見た。
 上下反転した人間。別の世界で生きる女。美しいと、誰もが認めるであろう彼女の顔はその時、赤くゆがんで醜いものになっていた。マティルドは狂ったように哄笑する。
「ならお前から死ね!」
 弾かれたように向かってくる腕。アキラは警棒を下ろした。背後から警告の声が飛ぶ。
「アキラっ! 危ない!」
 シェラの声に、今は振り返らない。
 まっすぐ飛んでくる腕。アキラは左手を上げて女を指さす。
「お前と俺の、視界を入れ替える!」
 スキルの発動を宣言する。眩暈が生まれ、見えている景色が変じる。
 さかさまの世界。自分を見る自分。アキラは目を閉じる。そうして女の視界を頼りに、彼は包丁の刃をすれすれで避けた。左手でその腕をつかむ。
(シェラ! 引きずりおろせ!)
 戻ってきた少女が、それを聞いてくるりと体を回転させた。両足で思いきり床を蹴る。
 細い手を伸ばし、必死の形相で飛びかかってくる少女。迫りくるその光景を見て、アキラはまるで自分がつかみかかられるような錯覚を覚えた。──だがこれはマティルドの視界だ。
 アキラは二人に向かって走り出す。視界の中、駆けてくる自分がちらりと見えた。
 しかしそれもすぐにシェラの手で遮られる。
「マティルドっ!」 
「なんで見えないの……っ! シェラ・ハーディ? 離せ!」
「おとなしくしなさい!」
 視界入れ替えの持続時間を、アキラは忘れてはいない。二人はもつれあい落ちてくる。
 酔いそうになる視界を見ながら、彼は暴れる腕をつかんで二人の前へと立った。視界の中の少年は、女の手がきつく握る包丁を、その持ち主へと向ける。
(離れろ)
 少女の体が離れる。アキラは両目を薄く開いた。
 狭く薄暗い視界。マティルドが見たものは、黒服の真ん中に刺さろうとする大振りの刃物だ。
 女は快哉を叫ぶ。
「死ね!」
 包丁は使用者の命じるままに前へと突き出された。鈍い光を放つ厚刃が、深々とマティルドの胸に食い込む。遅れてチェンジリングの効果が切れた。
「あ……?」
 己の胸に刺さる刃物。それを見下ろした青い目が、理解できないと大きくまたたく。
 アキラは青ざめた顔で彼女を見下ろした。
「二度と来るな」
 生温い風が吹く。敗者へと送る宣告はたったそれだけだ。アキラは大きく息を吐く。
 次の瞬間廃ビルには、女の絶叫が響き渡った。

 短い衝突の後に残ったものは、包丁と床にしたった黒い血、そして灰色のスキルストーンだけだ。
 それらを見たアキラは激しい疲労感を味わうと、シェラを振り返る。
「これであいつは権利剥奪か?」
「ええ。虚都に送還されたはずです」
「ミヤは?」
「下に寝かせてあります。一応ビニールシートをかけてきましたが……」
「あー、制服回収しないとな」
 今の状態でミヤが起きたならおかしな誤解をされかねない。服の回収をシェラに頼もうとしたアキラは、けれど彼女が自分をきつくにらんでいることに気づいた。
「……なんだよ」
「どうしてあんな危ないことをしたのですか」
「危ないって。そんな危なくもないだろ。視界の入れ替えは前にも試したことあったし」
「あんなぎりぎりまで引きつけて……刺されちゃったかもしれないじゃないですか!」
 拳を震わせ訴える少女は、どうやら心配を通り越して憤っているらしい。アキラは内心あわてて言いつくろった。
「引きつけないと誤認させづらいだろ。包丁手放さそうだったし」
「最初から狙ってたっていうんですか?」
「あーまぁ、半分くらいは」
「黒い服を着てきたのも?」
「マティルドはこっちで服買うようには思えなかったし」
 薄暗いところで同じ色の服。おまけに激昂した状態で視界を入れ替えれば、誤認するかもしれないとは思ったのだ。だがここまでうまくいったのは、たんなる幸運と言っていいだろう。
 ぬぐえない疲労感に肩をほぐしていたアキラは、ふとシェラを見てぎょっとした。大きな黒い瞳からは、今にも涙がこぼれ落ちそうになっている。
「な、なんだよ」
「……も、もう少し、自分を大事にしてください」
「って言われても」
「私が原因なのはわかってます。でも」
 シェラはそこで唇をぎゅっと噛んだ。普段から頼りなげな姿が、表情のせいかよりいっそうしおれて見える。
 アキラは冗談で場をとりつくろおうかと考えて、だがそれを思いなおした。
 今日ずっと考えていたことを、自らの中で整理する。彼は頭をかきつつ、正面から少女に向きなおった。
「これは俺の考えだから、シェラは気に病む必要はないんだけどさ」
「……はい」
「俺に何かあっても、スキルがシェラに戻るっていうなら、俺は、いざっていう時に捨て石になってもいいと思うんだ」
「アキラ、それは!」
「まあ聞けって」
 食いついてこようとする少女を、アキラは手で留める。
「俺が無事でも、変なやつに都市を握られたら意味ないだろ。だったら相打ちでもなんでもそいつを排除して、あとは次の代行者に任せればいい。……そりゃ、こんなのに巻き込まれて終わるのは嫌だけどさ。事情が事情だろ。どうしても嫌ってほどじゃない」
 自分が、全てを背負えるようなヒーローではないとわかっている。
 だがそれでも背負わなければならないなら、いざという時の優先順位は見失わないでいたい。
 その結果、「瀬戸アキラ」が失われるのだとしても、それは無駄な喪失ではないだろう。むしろ平凡な一高校生の選択としては最善のはずだ。
 冗談や投げやりで言っているわけではない。
 シェラにもそれは伝わったのか、長い沈黙の後、彼女は溜息をついた。
「私とあなたでは、生きる世界も、生死の常識も、考え方も違うことはわかっています」
「うん?」
「それでも私は……代行者は、あなたがいいです」
 後ろから突き飛ばされるような感覚。思わず彼が目を丸くすると、シェラはどこか傷ついたような表情で顔をそむけた。そのまま目元を押さえて背を向けた少女を、アキラはあっけに取られて見上げる。
 泣いているのか怒っているのか紅潮している両耳。細い両肩が震えている。
 その様子を心配するより先に──アキラは「かわいいな」とふと思った。
「……っ、もういいです! 早くミヤさんの制服回収してください!」
「って、俺が?」
「トークももう切りますからね! 先行ってます!」
「あ」
 シェラは真っ赤になった顔を隠してビルの外に消えた。
 戻ってくる静寂。アキラは言いようのない気まずさを味わう。
「あー……トーク忘れてた」
 よけいな雑念が伝わらないよう気を引きしめていたのだが、どうやら最後の最後で失敗してしまったらしい。
 そのせいで取り残されることになったアキラは、激しい虚脱感に襲われながら、一人マネキンの服を脱がす作業に取りかかったのだった。