曲空虚空 18

mudan tensai genkin desu -yuki

 おばけビルの中は不気味な静寂に満たされている。
 階段をのぼって上の階に出るごとに、シェラはペンライトでビルの中を探っていった。
 壁で区切られていないため一目で見通せる広いフロアには、しかし今のところ誰の姿も見つからない。そのまま八階まであがってきたアキラは、ついに外壁もなくなり視界の先に夜景が広がっているのを見て、げっそりした顔になる。
 もとからそうだったのか違うのか、この階には外側を覆うネットも見えない。正面の外周ぎりぎりには資材らしきものが積み上げられており、その上にはブルーシートがかけられていた。
 真向かいから吹いてくる生温い風。彼は足を振って疲れをほぐすと、軽くぼやいた。
「これ、どこまでのぼりゃいいんだ? あんま上行くと解体されてるだろ」
「それは大変ね」
 唐突な声は、頭上から聞こえた。
 それが誰のものであるのか、わかったアキラが身構えるより先に、シェラの悲鳴が響く。
「あああっ!」
「シェラ!」
 ペンライトが落ち、視界の半分が闇に覆われる。だがアキラは外からのわずかな明かりを頼りに、引きずられていこうとするシェラの手をつかんだ。軽い体を逆に引っぱる。
 細い足首に、男の手が取りついているのが見えた。
「離せよ!」
 腕だけのそれに、アキラは思いきり警棒を叩き込む。鈍い光を反射する警棒。ちょうどその先端が手首の部分を打ちすえた。
「ぐあっ」
 闇の中から男のうめき声が聞こえ、足首の拘束が緩む。そこから抜け出したシェラはふわりとアキラの背後に回った。逃げ出そうとする腕へ、アキラはさらに警棒を振りかぶる。だが追撃はすんでのところで空を切った。腕は外からの光が届かぬ場所へ消える。
「くそ。どこいった」
 すかさずシェラがペンライトを拾って天井を照らす。
 しかしそこにマティルドの姿はない。アキラは声の聞こえた方へと足を踏み出した。
「シェラ、離れるなよ」
「はい」
 敵の目的はシェラだ。アキラは死角から襲われないよう注意しつつ、近くにいるはずのマティルドへ声を張りあげた。
「来てやったぞ! つれていったやつを解放しろよ!」
「そうね。奥を見てみたら?」
 くすくすと笑う声がフロア内に反響した。歯軋りするアキラの横でシェラが囁く。
「アキラ。あれ……」
 壁のないビル。中には一定の間隔で太い角柱が立っているだけだ。そのうちの一本、正面奥の柱を少女は指した。夜景をバックに影になって見える柱の根元には、目をこらすと誰かが寄りかかって座っているようである。がっくりとたれて見える頭に、アキラの血は一瞬で凍った。
「ミヤ!」
「助けてあげれば?」
 悪意に満ちたマティルドの声は、どこから聞こえてくるのかよくわからない。
 今もどこかの影から彼らを狙っているのだろう女のあからさまな罠に、アキラは判断を迷った。けれどすぐに、決然としたシェラの声が頭の中に送られてくる。
(行きましょう)
「シェラ」
 ペンライトが照らす範囲は狭く、その光はあまりにも微弱だ。アキラは細い光が震えているのに気づいて、少女を振り返る。もしかしたら恐怖を感じているのかもしれない、と心配した彼女はしかし、表情を見るだに怒りと緊張で震えているようだった。
 大きな双眸を見返したアキラは、左手をシェラに差しだす。
「悪い。……行こう」
「ええ」
 見え見えの罠だとしても、ミヤを解放しないことにはここに来た意味がない。アキラはしっかりとシェラの手を握りながら、正面の柱に向かって進みだした。

 第八都市の街の灯が、人知れぬ衝突に淡い光を投げかけている。
 その中央では細い空塔が、夜景の中で青白く静謐な姿をさらしていた。
 今は黒となっている鏡面体。その先にあるという虚都に、アキラは皮肉な思いを抱く。
「突然来やがって。なんでも勝手にできると思うなよ……」
 彼の呟きが聞こえたのか、どこからか女の含み笑いが聞こえてきた。
「お前はまだシェラ・ハーディを信じているの? 嘘つきなお姫様を」
「そっちには関係ない」
 管理者の娘であるというシェラへの揶揄は、悪意に満ちたものである。
 十二人のプレイヤーのうちもっとも異質である少女は、繋いだ手に力をこめた。
「マティルド・ウジェ。私に全てが継がれるだろうという、あなたの推測は間違っています」
「だからなに? 見逃して欲しいのかしら。お姫様」
「いいえ」
 深い黒の瞳は冷えて空塔を見すえる。
「好きになさい。こちらも退く気はありません。……あなたのやり方は目に余る」
 シェラからの宣戦に、マティルドの笑声がこだました。自らの優位を疑ってもみない嘲笑は、数秒ごとに場所を変えながら二人を包みこむ。
 アキラと目配せをした少女は、ペンライトの明かりを消した。闇に慣れつつある目には、近づいてくる外の光でだいたいが見通せる。柱の影に座っている人間が、見覚えのある制服を着ていることを見てとって、アキラはひとまず安心した。
 柱まではもうあと数メートルだ。思わず足を速めようとした時、だが右側の柱の影から何かが飛び出してくる。
「っと……っ!」
 男の腕めがけて、アキラは警棒を横薙ぎにする。しかし腕はそれをよけ、アキラの右膝をつかんだ。そのまま足を引っぱられるアキラに、横からシェラが抱きつく。
「アキラ!」
 少しだけ体が浮き上がるような感覚。上への重力に支えられ、アキラは尻餅をつくことをまぬがれた。左足だけで踏み止まりながら警棒を振り下ろす。腕はけれど、とたんにぱっと手を離して退いた。思わず舌打ちしそうになったアキラは、視界の隅に光るものをとらえてぎょっとする。抱きついたままのシェラをはがして前へ投げた。
 長い三つ編の先端すれすれを、落下する刃物がつらぬいていく。すぐ近くからマティルドのくすくすと笑う声が聞こえた。アキラは警棒を構えながら叫ぶ。
「シェラ! ミヤを頼む!」
 彼女の背後を守って、アキラは警棒を構える。マティルドの姿は見えない。頭の奥が緊張で痛んだ。宙を漂っていた手が警棒の届く少し先で静止する。シェラの震える声が聞こえた。
「ア、 アキラ……これ、ミヤさんじゃない……」
「え?」
 思わず振り返ったアキラの目に、顔のないマネキンがうつる。
 シェラのペンライトによって照らされたそれは、ミヤの制服を着せられただけのただの人形だった。マティルドの声が楽しげに謳う。
「本物はこっちよ」
 床の終わるぎりぎりのところに積み上げられた資材。その上へと下りてきた女は、資材を覆うブルーシートに手をかけた。シートはまるで空気をはらんだかのようにふわりと浮き上がる。女はそれを無造作にビルの外へと投げ捨てた。
 青白くぼんやりとした光が、鉄骨の山を照らし出す。下着姿のミヤは仰向けにその上へと寝かされていた。さかさに浮くマティルドは、右手を伸ばしてミヤの髪を手にとる。左手には大振りの肉斬り包丁が握られていた。
 厚刃が鈍くきらめくのを見て、アキラはぞっと戦慄する。
「離せよ!」
「この人形がそんなに大切?」
「あたりまえだろ!」
 ミヤとは十年もの間、一緒に育ってきたのだ。当然のように用事を頼まれたり、つきまとってくることをうっとうしく思うこともあるが、そんなことは全部ささいなことだ。
 アキラは床を蹴ってマティルドへと向かう。シェラがその腕に飛びついた。
 走ってくる二人を見て、女は嫣然と口もとをほころばせる。
「それはあなたにとっても同じかしら? お姫様」
「当然でしょう!」
「なら助けたら?」
 マティルドは、おもむろに右手をミヤの体の下へ差し入れた。細い体はそれだけで重さが軽減したかのようにたわんで持ち上げられる。
 生温い風。資材の山をのぼりながら、アキラは大きく手を伸ばした。
「ミヤ!」
 マティルドは鼻で笑う。
 あとわずか届かない距離。
 そしてミヤの体は、ビルの外へと投げ捨てられた。