曲空虚空 15

mudan tensai genkin desu -yuki

 生誕祭準備の騒がしさは、廊下にまで溢れている。
 シェラと別れたアキラは、途中両腕いっぱいに荷物を持った生徒や、エプロン姿の女子生徒とすれちがった。前から歩いてくる三人の話が耳に入る。
「……でさ、第三住宅エリアで今日の朝、十人くらい人が倒れてるのが見つかったらしいんだよ」
「え、どういうこと? 事故とか怪我とか?」
「いやー、原因は不明らしい。しかも全員手遅れだったってさ。ガス漏れか何かじゃないかって聞いた」
「オレはみんな首絞められてたって聞いたけど」
「ええ? それ本当?」
「それがさ、近所に住んでるやつが、昨日の夜、窓から『手だけの幽霊』を見たって」
 眉唾と思える会話に気を引かれ、アキラはつい聞き耳を立ててしまった。だがすぐに意識をもとの問題へと引き戻す。呼び出された昇降口に直接向かうのではなく、どこか上からまず確認しようと、途中の階段をのぼった。
 アキラの教室は二階にあるが、三階は全てが特別教室だ。特に美術室は昇降口の真上にあるため、ベランダに出れば下の様子をうかがうことができる。
 彼は美術室に入ると、中の部員たちに断ってベランダに出た。展示の準備をしていたらしい一年生が、きょとんとした目で彼を見送る。
 錆びついたピンク色の鉄柵。足下のコンクリートは風雨にさらされひびわれている。人一人が通るのにやっとの狭いベランダを、アキラは地上を確認しながら歩いていった。昇降口の真上に来たところで、上半身を乗り出して下を覗きこむ。
「どいつがそうなんだ……?」
 行き交う人間はみな、学校の生徒ばかりだ。おかしな格好の人間も混ざっているが、それは生誕祭の衣裳かなにかだろう。
 ――しばらく探してはみたが、客人らしき人物などどこにも見当たらない。
 これは死角である校舎の中にいるのだろうか。あきらめて身を引きかけたアキラは、しかしその時、私服の若い男が昇降口から出てくるのを見つけた。周囲の高校生たちより二、三歳だけ年上に見える男は、おどおどと辺りを見回している。三階からもその表情が引きつって青ざめているのがわかった。男は怪我をしているのか、右腕をかばうように服の上から押さえている。
 見るからに不審な人間だが、その周りにプレイヤーらしき姿は見えない。アキラは念のため男の顔をよく見ようと目をこらした。
「もうちょっと上向け、上」
 黒いジャケットにジーンズ姿の男は、前髪が長いせいか顔がよくわからない。
 せめて額が見えれば、代行者かどうか確定できるのだ。アキラは念のため自分の額を押さえると、塗装の剥げた柵に寄りかかり目を細めた。問題の男へ意識を集中する。

 ちょうどその時、購買のある隣校舎から昇降口へ、見覚えのある少女が走ってきた。
「って、あれ。もう帰ってきたのか」
 両手に白いビニール袋を持ったミヤは、小走りに校舎へと向かってくる。
 彼女が怪しい男の前を通り過ぎようとする時、アキラは我知らず緊張に息をつめた。
 何かされるのではないかという、わずかな不安。――しかしミヤは、何事もなく男の前を行過ぎる。
「なんだ……」
 ほっと肩を下ろしたアキラは、その瞬間たしかに気を抜いた。息をつく彼の顔に影がさす。
 空の色が変わったのだろうかと、目だけで上を見たアキラは、思わずその場で腰を抜かしそうになった。叫び声をあげかけて、なんとかそれを飲み込む。
 人の手。
 何もない空中に浮いているそれは、間違いなく人間の腕だ。大きさや太さからいって大人の男の右手であろう。それはまるでおぼつかずに、ふらふらと左右にさまよっていた。
 白昼夢としか思えない不気味な姿。しかし漂っていた腕は何かに気づいたのか、少しずつアキラへと近づいてくる。その動きを視界の隅でみとめつつ、彼は思考をフル回転させた。
 ――これは、おそらくスキルだ。
 どういうものであるかはわからないが、その可能性は限りなく高い。ならば今すべきことは、この手が見えていないかのようにふるまうことだ。アキラは強張りそうになる表情をさりげなく変え、気分転換に出てきた人間のようによそおう。深呼吸をし、落ち着いた足取りでドアへと戻った。
 揺れていた手が空中で静止する。
 うまく切り抜けた──そう思った時、頭のすぐうしろで女のなまめかしい声が囁いた。
「見つけた」
「……っ!」
 開けたドアの向こうへとっさに転がり込む。
 もんどりうって戻ってきたアキラを、数人いた美術部員が唖然として見やった。
 けれどすぐに、女子生徒の一人がアキラの背後を見て悲鳴を上げる。
「う、腕が!」
「え?」
 両手を床について起き上がるアキラが見たものは、恐怖の表情で後ずさる部員たちだ。
「まさか、見えてるのか?」
「そうね」
 声は開け放したままのドアの前から聞こえた。
 そこに浮いている黒スーツの女は、片手に男の腕をつかんだまま、さかさまの笑みを浮かべている。肩までの高さに切り揃えられた金髪。青い目の整った容姿は、しかしどこか残忍な匂いが感じられ、好意的な印象を持つことはできなかった。
 女はからかうような目をアキラに流す。
「だから見えているものを見えないふりするなんて、代行者しかいないわよね?」
「……クソ」
 スキルにどのようなものがあるのか、知らなかったことを後悔してもしかたない。まさか普通の人間に見えるものがあるとは思わなかったのだ。
 アキラは遅ればせながら、ここに来るまでに聞いた噂話のことを思い出した。
「ひょっとして、手だけの幽霊ってお前のことか」
「木偶どもにはそんな風に見えるらしいわね」
 女はあからさまな嘲笑を見せて、アキラの頭越しに美術部員たちを眺める。彼らは、ある者は困惑を、ある者は恐怖をあらわにして、宙に浮かぶ腕を見つめていた。
 細められた女の目は、嗜虐者の愉悦を湛えて教室の中を舐めまわす。しかし女はふっと表情を変え、優しげな微笑になると、アキラに問うた。
「シェラ・ハーディは?」
「見りゃわかんだろうよ」
 シェラは今ごろ二階の廊下で待っているはずだ。アキラは彼女と合流するのがいいのか、それとも庇った方がいいのか迷った。空中をさまよう腕を警戒して、二、三歩距離を取る。

 異様な空気に包まれる美術室。最初の悲鳴も、生誕祭準備の喧騒にまぎれてしまったのか、誰も様子を見に来ない。悲鳴をあげた女子本人は、アキラが目に見えぬ何かと会話しはじめたせいで、逃げる機を失ってしまったようだ。廊下へと出る戸に手をかけながら固まっている。
 黒衣の女は軽く首を傾けた。花弁に似て立てられた大きな襟に、肩までの金髪が触れる。
「なら呼んできなさい。彼女に話があるわ」
「話?」
 警戒を隠さないアキラに女はにっこりと微笑みかける。
 華のある美人がそうして笑うさまは、先ほどの嘲笑を見ていなければ友好的なものに思えたかもしれない。だがアキラは、廊下で聞いたばかりの話を忘れてはいなかった。
「あのさ、昨日の夜、人の首を絞めた?」
 その問いに、女は薄い微笑を見せたままだ。
 仮面を思わせる表情。アキラは確信を強める。
「シェラを呼んでどうする?」
「少し話し合いをしたいと思っているだけよ」
「前にもスガってやつが来たけど、あんたも同じか?」
「私はスガほど愚かではないつもりだけど?」
 ――敵だ。
 アキラは七割の直感でそう断じる。残りの三割は、この女とスガに繋がりがあることがわかったためだ。女はおそらくスガのやったことを知っていて、それを否定していない。ただやり方が稚拙であったと言っているのだ。
 アキラは背後で凍りついている美術部員に向けて、追い払うように手を振る。
「ちょっと悪いけど外出ててくれ。他の人間には黙っててほしい。……あー、単に生誕祭の劇がらみだから」
「劇? その浮いてる腕が?」
「そう。ちょっとした仕掛けなんだけど、なんかおかしくなっちまったみたいで。ばれると怒られるんだ。すぐなんとかするから」
 自分でも苦しい言い訳だと思ったが、部員たちも異様な雰囲気に、「関わりたくない」と思ったらしい。彼らは一度顔を見合わせると、不審げにアキラを振り返りながらも廊下へと出て行く。
 ドアの閉まる音がして教室に静寂が戻ると、アキラはひとまず安心した。
 これで騒ぎにでもなってシェラが様子を見にきては困る。少なくともアキラは、一人でいるうちに女の出方をもう少し確認しておきたかった。
 二人きりになった美術室内で、意識を女へと戻したアキラは、いつのまにか浮いている腕がないことに気づく。さりげなく左右を見回す彼に、女はくすくすと笑った。
「何を探しているの?」
「シェラになんの話だよ」
 質問に質問で返してくる無礼を女はとがめない。彼女はただ楽しそうに、彼の敵意を受け止めた。
「簡単な話よ。今回のゲーム、彼女に下りてもらおうと思っているだけ」
「はぁ? なんでそんなことする必要があるんだよ。シギルを取れたって話し合いに参加できるってだけだろ。シェラの意見に反対ってならその時すればいい。ってか、こんなところ来てないで自分のシギル取りいけよ」
 アキラは女までの距離を測る。上履きの底が木の床をこすり軽い音を立てた。強張りそうになる右手を、一度開いて握る。
 スガの時には火をつけたうえ、おもいきり相手を殴ったが、さすがに女相手でそこまではやりにくい。まず無理な話だろうが、アキラは彼女が嫌味を聞き入れて、自分の振り分け都市に帰ってくれないだろうかと期待した。
 しかし女は淡い期待に反して、唇の片端をいびつに上げる。
「彼女だけは特別。テーブルにつく権利さえ与えたくないわ」
「私情で参加したから?」
「違う。知らないの? ――彼女はこのゲームを提唱したハーディ博士の娘なのよ」