mudan tensai genkin desu -yuki
アキラは小さな弁当屋を見つけると、二人分の食事を買い込む。店の時計を確認すると、二十時になろうかという時間だった。寮の門限にはまだ一時間ほど猶予がある。
転移ポートに向けて彼が雑踏の中を歩き出した時、ずっと曲を聴いていたシェラが、ぽつりと口を開いた。
「あの、あなたのお友達が言っていたこと、聞いていいですか?」
「どれだよ」
友達と言っても、今日一日で話をした人間は一人ではない。小声で聞き返す彼に、シェラは言いにくそうに続けた。
「あなたのお兄さんのことです」
「ああ……」
ミヤとの会話について言われているのだと理解したアキラは苦笑する。
小さい頃は何度も誰かに訴えたことを、高校生になった今どう説明すれば客観的に伝わるのか。彼は考えながら大きく息をついた。
「俺には兄貴がいたって、朝言ったよな」
「ええ」
「でもさ、なんて言えばいいのかな、兄貴のことはみんな、俺の夢だって言うんだ」
「夢、ですか?」
「そう。実際記録とか見ても、俺に兄弟はいないことになってるし……よく考えてみればありえない」
そのことについて、わかりやすく語ることは難しい。
ただアキラには、ある時までたしかに兄がいたのだ。少なくとも彼はそう信じていた。
「仲いいっていうか、普通の兄弟だったと思う。俺はいつも兄貴のあとをついてまわっててさ、兄貴の方もしぶりながら面倒見てくれてた。――でもある日、兄貴は一人でどっかにでかけてって……それきり帰ってこなかったんだ」
「どこかに?」
「違うところに行く、って言ってた。……俺も実は誘われたけど断った。なんか勝手にどこか行っちゃまずい気がしてさ。で、それきり兄貴は帰ってこなかった」
兄との最後の記憶は、その時した会話だ。二人で手を取って白い空を見上げていた記憶。子供の頃は現実だと確信していたそれも、今は少しずつ輪郭がぼやけていっている気がする。アキラはそれを仕方がないと思いつつ、だがまだ感情を消化しきれていなかった。
「何日待っても帰ってこないから、俺、そのことを初等部の先生に相談したんだよ。そうしたら『お兄さんなんていないでしょう』って言われてさ。めちゃくちゃびっくりした」
「いなかったって……最初からってことですか?」
「そう。夢でも見たんだろうって言われたよ」
当時六歳だったアキラは、それを聞いてひどく呆然とした。
教師が嘘をついているのだと思い、ミヤをはじめとして友達にも兄のことを尋ねて回ったのだ。だが返ってくる答は全て同じだった。
「実際、俺は兄貴の名前も知らなかったんだ。お兄ちゃんって呼んでたしな。その上、公的記録にも残ってないとなると、本当にそれが夢か現実かわからなくなった。もしかしたら兄貴がいない方が夢なのかもって思って、子供ながらにむちゃくちゃ悩んだ」
アーケードを行きかう雑踏の中には、大学生くらいの男もちらほらと見受けられる。
その中にあるいはいなくなった兄がいるのかもしれない。だが、探そうにもアキラは兄の顔さえよく覚えていなかった。ただ「いた」という記憶が焼きついているだけである。
曖昧な過去。いまだ忘れることのできない欠片を思い出せば、そこには苦味も伴われる。
沈黙しかけたアキラに、ガラスを思わせるシェラの声が問うた。
「それで、アキラはやっぱりお兄さんのことは夢だったって思っているのですか?」
「いや……」
――諦めが悪いと、言われるのかもしれない。
だが、そう簡単には割り切れぬほどに、兄の存在はアキラにとってリアルだった。あったはずの記憶が時を追うとともに薄れていこうとも、抱く印象には変わりがない。
「俺はさ、兄貴の記憶ってひょっとして前の記憶じゃないかと思ってるんだ。俺が俺になる前の記憶」
「……前世、ということですか?」
「んー。そう言っちゃうとうさんくさいし、他人に言ったりはしないけどな」
こうしてシェラに話しているのも、彼女が虚都から来た人間で、非常識の塊のような存在であるからだろう。ミヤなどに話せばきっと真剣に心配されてしまう。ただでさえ彼女はこの話になると態度を硬化させるのだ。
アキラは振り返ってシェラを見上げた。
「ま、馬鹿げてるだろうけどさ。もし本当にそうだとしたら、兄貴はきっと今もどこかで元気にしてる。……少なくとも、俺はそう信じてる。そりゃ、会うことはできないけどな」
そして自分がそうであるからこそ、姉のためにやって来たシェラの手助けをしてやりたいと思う。
割り切れないものを抱いて苦笑いをするアキラを、少女は物言いたげな目で見つめた。
「アキラ、それは……」
「うん?」
シェラの瞳はためらうように彼の上を左右する。小さな唇が何かを言おうと開きかけた時、だが前方から男の怒声が聞こえてきた。
「なんだ?」
声はどうやらアーケードの出口の方から響いてくる。
アキラは騒ぎの原因を確かめようと足を速めた。彼より高い位置にいるシェラが、数秒早くそれを見つけて目を細める。
「喧嘩みたいですね」
シャッターの閉まった店の前で、大学生くらいの男女が三人揉みあっている。どうやら酔っ払った男子学生二人が口論をしているらしく、仲裁しようとする女の「やめなよ!」という声が、ドーム状の屋根に響いた。
「うわ、こんな時間から酔って喧嘩かよ」
剣呑な空気に、アキラは人の波の中から様子をうかがう。他に行き交う人々も騒ぎを気にしてはいるものの、関わりあいになりたくないのか立ち止まる者はいない。
ついに二人がお互いの胸倉をつかみあうまでになると、シェラは困惑顔になった。
「警察を呼べばいいのでしょうか」
「めんど……あ、そうだ。これちょっと試してみるか」
「試す?」
白ブタを抱いたシェラは首をかしげたが、アキラはそれには構わず、一触即発の二人へと向き直った。荷物を持っていない方の手を上げる。
「あいつの視界と、俺の視界を入れ替える」
男子学生二人のうち、拳を振り上げた片方を指しての宣告。
スキルの発動により頭の中が熱くなりかけた時を狙って、アキラはその場で一回転した。
右足を軸にしての回転。しかし視界に映ったものは、見知らぬ若い男の赤ら顔である。視界と現実との齟齬に顔をしかめつつ、アキラがもう一度回転すると、近くで女の悲鳴が上がった。その原因を見た彼は、自分の口元を押さえる。遅れて本来の視界が戻って来た。
「アキラ、すごいことしますね」
「これ、俺も気持ち悪いわ……」
チェンジリングのスキルによって、自分のものではない回る視界を見させられた大学生は、殴ろうとした相手の服に思いきり吐いている。その吐き気がうつってしまったアキラは、口を押さえたまま足早にその場を離れた。シェラが両足で宙をかいて追ってくる。
「思いついたからやってみただけだけど、できるもんだな」
「あ、でもたしかにこれなら――」
「うん」
降りそそぐ霧雨の向こう、暗い夜の中には淡い光をまとった白い塔がそびえている。アキラは夜目にも美しい空塔を見上げた。
「これ使って警備を切り抜けられる、か?」
シギルがあるという空塔最上層。
そこはまだ、二人の手の届かない夜の闇に埋もれている。
とぼしい光を落とす街灯の下で、女の白い腕はなまめかしく映えていた。
上から下へと伸びる右腕。肩から先しかないその手の中には、男の喉が握られている。黒く塗られた爪がぎりぎりと皮膚に食い込み、彼の呼吸を圧した。
宙に吊り上げられた男は足をばたつかせてもがく。彼は必死で謎の腕から逃れようとその手をかきむしったが、磨かれた陶器を思わせる指はびくともしない。むしろいっそう爪が喉に突き刺さる。
何もない暗闇からひややかな女の声が降ってきた。
「これもはずれ」
落胆の言葉とともに、加えられる力が増す。
ぐちゃりと肉の潰れる音に、骨の折れる不快な音が続いた。細かく痙攣する男の体は、無造作に路上へと投げ捨てられる。そこには既に数人の動かぬ体が積み重なっていた。
壊れた人形たちの山を連想させるいびつな光景。その上を女の白い腕だけが自由にさまよっている。小さな溜息が、何もない空中からこぼれた。
「タイプBばかりじゃない。適応者なんてほとんどいやしない……。代行者を見つけるのがこんなに面倒だなんて聞いてなかったわ」
――来訪者を「見る」ことができるのは、適応者と呼ばれるごくひと握りの者たちだけだ。その適応者は虚都の基準により「タイプD」と「タイプE」の二つに大別できる。
ルール説明によれば、この二種に「タイプC」を加えた三種類の人間だけが契約可能であるそうなのだが、実際にこちらに下りてみると、いるのはほとんどが「タイプA」か「タイプB」ばかりだった。このようなところから勝負が始まっているとは思ってもみなかった女は、つのっていく苛立ちに歯軋りをする。
その時、近くの角を曲がって一人の若い男が現れた。
「へ……?」
呆然としたつぶやきは、光の中に積み重なる人間を見てのものだろう。数秒の間その場に立ち尽くしていた男は、我に返ったのか一歩後ずさった。その視線が、街灯のすぐそばを捉える。
「あ……れ」
宙に浮いている女。
肩までの金髪以外は夜に溶けこんでいる黒衣の彼女は、見るからに普通ではない。獲物を選定するようにじっと彼を見ているその顔は、鋭利さを感じさせる美貌ではあったが、何よりも上下さかさまだった。
右腕の肩から先がない女。その代わり空中を、切り離された白い腕が飛び回っている。
あまりのことに目をそらせない彼を見て、女はにぃっと笑った。
「私が見えるのね?」
――ついに適応者を見つけた。
女は高らかに笑い声を上げると、逃げ出そうとする男めがけて、高いヒールで街灯を蹴った。
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