mudan tensai genkin desu -yuki
長い廊下の途中、細く開いたドアの隙間から、中の様子を窺う。
そこから見えたものはまず父の背中で、父はベッドの上の姉に優しい言葉をかけていた。何と言っているのかまでは分からなかったが「方法が見つかった」などと言っているのだろう。父からの事務的な連絡で自身もそれを聞いていた少女は、若干の緊張を覚える。姉は不安ではないのか、その顔を見たいと思った。
いつでも多忙な父が優しい顔をするのは、病いがちで寝室を出られぬ姉に対してだけだ。少女はそのことに気づいてから、ここ三年ほど家を空けがちになっていた。別の場所に行けば自分の能力を必要としてくれる人間がいくらでもいる――そのように思ったわけではなかったが、何だか家の中に自分の居場所がないような、そんな気がしたのだ。
少なくとも彼女は今、姉と父だけがいる部屋の中に入っていけないでいる。普通に挨拶の声をあげてドアを叩けばいいと、頭では分かっているのだが気が進まない。こんな風に怖気づいてしまうのは、自分が家を逃げ出してしまったからだと少女は気づいていた。一度生まれた距離は、後ずさればその分だけ開いてしまう。そしていつのまにか歩み寄り方が分からなくなる。まるで世界がゆっくりと分かれていくかのように。
――はたして自分は今でも本当に家族なのだろうか。
少女は長い睫毛を伏せ、ただ床を見つめる。
自問すれども答は出ない。その間に父は姉の肩を労わるように撫で、踵を返した。扉の方へと向かってくる父親を見て、彼女は慌てて柱の影に隠れる。そんなことをする必要などないと、頭の中で理性が囁いたが、盗み見ていたことを知られたくはなかった。幸い父は娘の存在に気づかなかったらしく、足音は規則的に遠ざかっていく。その音が階下に消えると、ようやく少女はほっとしてドアの前に立った。きちんと閉められたドアを叩こうと手を上げる。
――なんと言えばいいのだろう。
姉に会う為に帰って来たのだ。だがいつも、どんな話をすればいいのか分からない。
もっと幼い頃は毎日のように本を読んでもらっていた。その習慣がなくなったのは、数年前姉がひどい熱を出し、声を嗄らしてしまってからだ。
突然の発熱を、自分が無理をさせたせいと思い込んだのは、何が切っ掛けだったのか。今ではもう思い出せない。ただ覚えていることは、掠れた声がもとの澄んだ響きに戻った後も、彼女は絵本を姉のもとに持っていかなかったということだけである。
少女はノックをする為に上げた手をそっと下ろす。
――今更だ、と思った。
何が今更なのかと思いつつ、けれどやはり開いた距離を埋める自信がない。
少女は足音をさせぬよう後ずさった。そのまま立ち去ろうとした時、だが部屋の中から懐かしい声が彼女を呼ぶ。
「シェラ?」
「……っ」
「シェラ、帰ってきてるの? そこにいるんでしょう?」
――どうして、何もかもお見通しなのだろう。
母を知らない少女にとって、姉は不思議の塊だ。その温かさに胸の奥から満たされ、守られている気分になる。
シェラは止めていた息を吐き出すと、扉に手をかけた。ゆっくりとそれを奥へと押し開く。
姉の部屋は、最後に見た時と何ら変わりがない。アイボリーの壁紙は染み一つなく、広いベッドはきちんと整えられていた。大きな窓からは薄紫色の空が見える。
家具や私物の少ない部屋。だが枕元のテーブルには写真立てが二つ置かれている。それが亡くなった母親と、そして父と自分を写したものだとシェラは知っていた。
家族の写真の隣で、姉は穏やかに微笑んでいる。そこだけは変わらぬ双眸に、シェラは思わず声を詰まらせた。喉の奥が熱くなる。視界が少しだけ滲んで、鼻腔がちくりと痛んだ。少女は深く息を吐き出すと、姉に向かって向き直る。
「お姉ちゃん……ただいま」
少しだけ掠れた声に、寝台に座る女は嬉しそうに笑った。
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