禁転載
朝、誰に起こされずとも大体希望した時間に起きることが出来る。
それは特技とも言えないジウの性質の一つだった。彼女は寝ぼけ眼をこすりながら身支度を整え、朝食のテーブルへと向かう。
居間には既に父と弟が起きており、それぞれジウを見て「おはよう」と挨拶してきた。
彼女は自分も挨拶を返すと母親を手伝う為、厨房へ向かう。
キスク城都にあるジウの家は、四人で暮らすには充分すぎる程広いと彼女は思っているのだが、顔見知りの女官などに言わせると「もっと贅沢も出来るのに」ということらしい。もっとも書庫が三部屋もある家は蔵書の点では充分贅沢であるし、それ以外に関して浪費を好む人間はこの家にはいない。
ファルサス、キスク両国において「学者一家」とみなされるジウの家族は、程度の差こそあれ全員本と勉学を好んでいるのだ。
父などは本が読めて研究が出来れば何処の国にいても構わない、という性格であるし、その父に連れ添う母は二つの国に渡って教育係を務めることを何の苦にも思っていない。そして彼らに育てられたジウもまた、日々の関心はもっぱら自分の勉強事に向いていた。
ジウは厨房の母親から朝食の皿を受け取ると、それをテーブルに並べ始める。
窓辺で本を開きメモを取っている父親と、その隣で小さな鉢に水をやっていた弟が、それに呼応し自分のものを片付けだした。
ジウはシスイの持つ鉢を見やって眉を寄せる。そこには細い蔓が球状にからみあった緑の植物がちんまりと乗っていた。
初めて見る植物に彼女は鉢をまじまじと覗き込む。
「何それ」
「分かんない。頑張れば結構大きくなるんだけど、昨日大きな方を姫に燃やされてさ。株分けしといてよかった」
「気味が悪かったからじゃない?」
水を浴びてうねうねと蠢く緑球はお世辞にも可愛らしいとは言えない代物だ。
これをあの怖がりのエウドラが見たならまず間違いなく焼かれるだろう。ジウは日のあたる場所に移動された鉢からさりげなく視線を逸らした。
やがて母親が使い魔の少女と共に大皿を持ってやってくると、彼らは朝食の席につく。
三十代半ば、十三歳と十一歳の子供を持ちながら、いまだ何処か少女のような顔立ちの女は黒茶の瞳で家族全員を見回した。
「今日の予定は?」
「ファルサスに出仕。研究会があるから少し遅くなる」
「僕はキスク宮廷。殿下のところにいる。母さんは今日レーン殿下の授業だっけ」
「うん。だから姫はお休み。―――― ジウは?」
スープカップを片手にぼんやりしていた少女は、母親の声に目をしばたたかせる。
今の予定をまとめると、つまり両親は共にファルサス、弟はキスクということだろう。
本当なら彼女もファルサスに行って、気になる本の続きに目を通したいところだが、あの国に行くとまずセファスに捕まってしまう。
今日は勉強がしたいジウは結論を出すと、黙々と朝食を取る父親に頭を下げた。
「私、今日はキスク。あとお父さん、ファルサスの図書室から多段構成理論の三巻借りてきてください」
「分かった」
こうして全員の予定は決した。
ジウとシスイはファルサスに向かう両親を見送ると、手分けして皿洗いをし勉強道具を携えキスクの城に向かった。
いつもと何ら変わらない平穏な日の始まりである。
「それでここか……。結局ジウはどうしたいんだ?」
キスク城内の図書室。広い机越しに向かい合い座っている二人は、それぞれが自分の手元に集中している。
未だ大陸史書の再編纂に精力を注いでいるキスク王太子は、同い年の幼馴染から話を聞くと、やる気のない声を投げかけた。ジウは本の頁を捲りながら嘯く。
「どうしたいとは? 勉強がしたくてここに来ているのですが」
「セファスのことだよ。いつまでもファルサスを避けていくわけにはいかないだろ」
「そうでしょうか。私はキスクの人間ですし、他国に行けずとも問題はありません。
むしろセファス殿下の方こそ、いつまで私に絡まれるのかをお聞きしたいですね」
元々ジウの一家はファルサスに住んでいたが、その時はまだ「僕のジウ」などとは言われてなかった気がする。
レーンの成長と共に母の受け持つ授業日数が減り、代わりにエウドラが新たな生徒になったからこそジウたちはキスクに移住したのだが、セファスの執着は国を離れてからより顕著になった。最近は十三歳の彼女相手に結婚などと言い出す始末で、実に面倒くさい。
ジウは自分の気が散りかけていることに気付くと本から顔を上げた。思い切り溜息をつくと、イルジェが書き物の手を止めぬまま苦笑する。
「俺たちは容易く真意を見せないよう教育されている。
が、それを差し引いてもセファスが何を考えているかなんて分からないだろ。
俺にとってお前は家族だが、セファスにとっては違う。正面から問い質したっていつも通りの答しか返って来ないだろうな」
「別に勉強を邪魔しないでいてくだされば、それでよいのですが」
「そんなのは知らない」
後は個人の問題と言外に言いながらイルジェは本の頁を手繰った。
しかしジウがもう一つ溜息をつくと―――― 彼はようやく顔を上げ「本当に困ったら何とかしてやる」と真意の分からぬ笑顔を見せたのだった。
王太子の真意はともかく、キスク城での勉強はつつがなく進んだ。
順調すぎて不安になるほどだと言ってもいいだろう。その不安は実際的中するのだが。
「姉さん」
落ち着き払った声。何も塗られていないケーキの土台と共にやってきたシスイは、それを入り口近くのテーブルに置くとジウを呼んだ。
お茶を淹れてくれとでもいうのだろうか。それにしても主君より早く姉を呼ぶとは珍しい。
彼女はイルジェに頭を下げると、本を置いてシスイの傍に歩み寄った。弟の小声に耳を澄ませる。
「姉さん、姫呼んできて。おやつだからって」
「いいけど。何処におられるか分かる?」
「さっき見た時は西側から魔法使って城壁越えようとなさってた。声かけたら逃げられそうだったから気付かない振りしたけど」
「…………行って来る」
授業が休みということは、つまりエウドラは暇を持て余しているということだ。
ジウは机を振り返ると緑の小鳥を手招きした。使い魔が肩に止まると、イルジェに気付かれないよう図書室を出て行く。
音をさせず扉を閉めた後おもむろに全力で走り出した彼女は、十五分後、高い木の上に王女を見つけて嘆息した。
魔法で城壁を越えようとしたものの、そのままドレスの裾を枝に引っ掛けてしまったのだろう。
下りるに下りれないらしいエウドラは子猫のように半べそをかいて木の幹にしがみついている。
そのあまりと言えばあまりな光景に頭痛を覚えながら、ジウは頭上の王女に声をかけた。
「姫、何をなさっているのです」
「き、木登りよ!」
「なら早くいらしてください。弟がケーキを焼いていましたから」
「待って、ジウ! 下りられないの!」
「……少々お待ちください」
ジウはポケットから皮の手袋を取り出すとそれを両手に嵌める。
そのまま高く伸びる木のあちこちを掴み、しなやかな四肢を器用に使って幹をよじ登っていった。
日頃から護身用の訓練をしているジウはこれくらいの運動なら苦でもない。
彼女はまもなくエウドラのすぐ隣にまで到達すると、引っかかってしまったドレスを外してやった。多少の呆れ顔で注意する。
「これに懲りられましたら、二度と城を抜け出そうとなさいませんよう」
「……だってつまらないんだもの」
エウドラは口を尖らせたが後悔はしているらしい。ジウは王女を抱きこむと、使い魔に衝撃緩和を命じて地面に飛び降りた。
意気消沈している少女を先導しながら、ふと思いついて苦笑する。
「では今度のお休みには私が姫を何処かにお連れ致しましょう」
「本当に!? ねぇ、ファルサスでも? いいの?」
「陛下の許可が取れましたら」
途端嬉しそうになるエウドラにジウは頷いてみせた。
まったく手に余る「家族」である。だがこれはこれで楽しいのだ。少々の面倒も割り切れてしまうくらいには。
ジウは大きく息を吸い込むと澄んだ空を仰ぐ。
そうして彼女は幼い姫の手を取ると、広い城を兄弟たちの待つ部屋へと帰ったのだった。
勿論既にケーキは呪いの産物と成り果てていた。
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