禁転載
エウドラは勉強が好きではない。
ジウの母親を教育係として彼女に与えられる勉学は非常に多分野に及んでいるが、そのうちの約半数は嫌いな科目だ。
だがそう主張したからと言って手加減してくれるような相手でもない上、下手をしたら「何が嫌なのか」を彼女と話し合う羽目になってしまう。
一度そうして丸一日やりあった挙句、嫌いだったはずの数論を「面白いかも」と思わされた経験上、エウドラは与えられる教育自体に関して文句は言わないよう注意していた。結果、ただ黙って毎日の授業を耐え忍んでいる。
その日彼女は、みっちり六時間に渡る授業からようやく解放され、よれよれと廊下を歩いていた。
定期的に繰り返される溜息。心なしか長い栗色の髪も艶をなくしており、青い瞳が疲労も色濃く磨かれた床の上を辿っている。
本来の予定であればあと一時間は早く解放されるはずだったのだが、今日の彼女は迂闊にも歴史の時間に「こんな昔のこと役に立たない」と言ってしまったのだ。それが原因で授業が延長されたとなっては、まったく口は災いの元としか言いようがなかった。
「はぁ……疲れた……」
勿論王太子であるイルジェなどはもっと厳しい勉強をこなしているとは知っているが、それとこれとは別である。
第一彼はエウドラとは違って勉強が好きらしいのだ。ならば彼女の気持ちなど到底理解されないだろう。
―――― せめて気持ちは理解されなくてもいいから、楽しいことがしたい。
そんなことを思ってしまうのは彼女が子供だからで、そして思った通りの行動を取るところが、兄をしてエウドラを「我侭」と言わしめている最大の原因だ。彼女は欲求のまま自室に帰ることを放棄すると廊下の窓枠によじのぼった。そのままそこに座って通りかかる「犠牲者」を待つ。
これが、女官や文官などが捕まるならいつものことだ。彼らは小さな王女に恐縮しつつも残る半日を彼女の遊びにつきあわされる。
だがその時通りかかったのは彼女より二歳上の少年で―――― シスイは紺色の瞳に得体の知れない微笑を浮かべて「姫、退屈そうですね」と笑った。
エウドラは兄の友人である幼馴染を見て眉を顰める。
「退屈っていったら退屈だけれど。そうではないのよ、うさばらしがしたいの」
「そのような言葉遣いをされると殿下に怒られますよ」
「黙りなさい。小言を増やさないで」
「姫の場合は小言が積み重なって融合しそうな勢いですよね。小言の塔とか作れそうな」
「だ、ま、れ」
まったく口の減らない相手である。
彼の姉はどちらかというと堅物だが、彼自身は大分くだけた性格をしており色々と融通が利くのだ。
けれどそれはその分御しづらいということでもあり、少なくとも正しいことをしていれば予想通りの反応が返ってくるジウと違って、シスイはまったく次の言葉が読めない、捉えどころのない少年だった。
エウドラは窓枠に座ったまま顎をそらす。
「何か面白いことはないの?」
「遠乗りにでもお連れしましょうか」
「わざと言ってるの? 私、馬に乗るの嫌いなのよ」
「姫高いところ怖いんですもんね」
「嫌い、って言ってるでしょ!」
むきになって訂正してみたが、シスイは胡散臭げな笑顔のままだ。
その余裕っぷりをどう崩してやろうかと考えた彼女は、ふといいことを思いつくと指を弾いた。その指で少年を指す。
「ならあなた、馬になりなさい」
「残念ながら人間です」
「比喩的表現よ! いいから私を背負いなさい!」
「うっわー……」
我侭なお姫様のとんでもない命令に、シスイはようやく何とも言えない表情になった。
だが、さすがに逆らう気はないらしく、窓辺に座る彼女に背を向ける。その背に飛びついてエウドラは命じた。
「よし! では出発しなさい!」
「どこへー」
こうして迷走決定の二人の旅は始まった。ただしキスク城内限定。
「あなたってつまらない毎日を送っているのね」
エウドラがぽつりと感想を洩らした場所は、シスイの背中の上。そして城の図書室においてである。
咄嗟に目的地が思いつかなかったため「いつもしているようになさい」と命じたのだが、言われた少年はそのまま図書室に向かうと、そこで本を選んでは要点に目を通す、ということを始めてしまったのだ。
エウドラも最初こそ黙ってそれに付き合っていたが、いつまでも終わらなそうとあっては我慢出来ない。五冊目をシスイが手に取った時、後ろから黒い髪を思い切り引っ張ってやった。「ぐえ」と言う呟きの後、少年は彼女を背負ったまま器用に肩を竦める。
「殿下が興味を持たれそうなことを先回りして調べておくんですよ。参考書を求められてから調べたんじゃ遅いですから」
「イルジェが凝り性なのはあなたが無駄に手伝っているからではなくて?」
「えー?」
何しろ一を求められたら十を用意するような少年なのだ。
イルジェがあの性格なのは彼自身のせいだが、その好奇心に応え続けているのはシスイである。
いつも兄と一緒になって変な試みに取り組んでいる幼馴染の頭を、エウドラはぺしぺしと叩いた。
「ともかく! 本はもう駄目。飽きたわ。次行きなさい次」
「今日のこの日のことは姫の伝記に残そうと思います」
「焚書するわよ」
少年と、その背にしがみついている王女。異様な二人組に、けれどすれ違う者たちは何も言わない。
シスイは諦めたのか本を棚に戻すと図書室を出た。次は城の裏庭に向かう。
建物が入り組んで迷路のようになっているキスク城。その裏庭には小さな菜園がいくつも置かれている。
低い柵で区切られているそれらの菜園は、あるものは厨房のために、あるものは魔法実験のために使われており、それぞれの担当者が城に許可を取って植物を栽培しているのだ。シスイは一番隅にある菜園に向かうと、近くの井戸から水を汲み始める。
「ねぇ、シスイ」
「はい、姫」
「あれはあなたが育てているの?」
「ええ。大分大きくなりましたね」
一辺が子供二人の広げた両手分ほどの小さな畑。柵で囲われた真ん中には緑の草がこんもりと生えていた。
正確にはそれは草ではなく蔓であるらしい。細い蔓がくるくると集まって、まるで巨大な緑の糸球のように見えている。
時折もぞもぞと蠢く蔓球は既に小熊ほどの大きさになっており、シスイはおもむろにそれに向かって水を撒き始めた。
見るからに怪しい物体が水を受けていきいきする様に、エウドラは若干蒼ざめる。
「あれ、何?」
「よく分かりません」
「分からないの!?」
「薬草の種を買ったら、変なのが混じってたんですよね。どんどん大きくなるんで気味が悪くて城に移したんですが……」
「そんなもの城に持ち込まないでよ!」
「とりあえず何処まで大きくなるか頑張ってみます」
「燃やしなさい! 今すぐ!」
「何か呪われそうで嫌じゃないですか」
シスイは水桶を置くと代わりに傍から小石を手に取った。手首をしならせてそれを緑の球へと投げつける。
が、石は命中する寸前で幾本もの蔓に絡み取られた。そのままシュルシュルと音を立てて蔓の中へと持ち運ばれていく。
あまりと言えばあまりな光景。真っ青になるエウドラへ、少年は爽やか過ぎる声で笑った。
「ほら、呪われそう」
「…………処分しなさいってええええ!」
どうにもこの「馬」に乗っていても、気分が晴れるどころか知りたくないことばかり知ってしまう気がする。
あれから数箇所を巡り、何だか城そのものが怖くなってきたところでエウドラは小さな厨房へとたどり着いた。
お菓子を作る少年の無駄のない手際を見ながら盛大な溜息をつく。
「あなたって、変なものばかり見ているのね」
「そりゃ僕の見てるものが姫と同じだったら大変です。適材適所ですよ」
「あなたを適所に配すると城が魔境になりそうなのだけれど」
「気のせいですよ。気のせい。今度緑の蔓、株分けしてさしあげましょうか」
「絶対要らないわよ!」
王族には王族の、そして彼らに仕える者たちにはそれぞれの目線があるのだ。
いい加減少年にしがみついているのも疲れたエウドラは厨房の床におりた。途端低くなる視界に安堵を覚える。
「イチゴをたっぷり乗せてよね。ソースも。加減しては駄目よ」
「仰せのままに、姫」
最初からケーキだけ作らせればよかった。そうは思ったものの少しだけ楽しかったことは事実である。
結局自室に戻っておやつを食べたエウドラはその後真っ先に魔法士を呼ぶと―――― 菜園の蔓植物を焼却処分させたのだった。当然育て主には断っていない。
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