ごっこ遊び

禁転載

多くの出来事は子供たちの何気ない一言によって引き起こされる。
そして、それは問題の多い長兄のみならず、三男のレーンもまた主体になり得るものだった。
訓練場で剣の稽古を終えた帰り、部屋へと戻る兄に追いついた少年は、数日前からずっと考えていた「お願い」を口にする。
「兄上、エウドラに会いに行っていい?」
廊下を行きながら軽く汗を拭っていたセファスは弟の言葉に振り返った。少しも考えることをせずかぶりを振る。
「駄目だよ。何を言っているんだい。軽々しく他国の城に行かないように」
「ばれないようにするから。すぐ戻ってくる」
別々の国で暮らしている彼らは、おおよそ二、三ヶ月に一度は他の兄妹と顔を合わせることが出来る。
だがまだ幼いレーンにとって三ヶ月はあまりにも長いのだ。ここのところ面白いことがないということも手伝って彼は兄に食い下がった。
「精霊に頼んで転移するから。大丈夫だよ」

ファルサスにおいて「精霊」と呼ばれる存在は、王家の人間を守護する上位魔族のことである。
古くは神と呼ばれたほど力のあるそれらは、代々ファルサス王家に契約を以って繋がれ、直系の魔力によって使役されるのだ。
その為セファスもレーンも物心ついた時から自分の精霊を持ってはいるが、ファルサスの人間ではないイルジェやエウドラには精霊がいない。
同じ両親から生まれたにもかかわらず不公平だとエウドラはかつて不満を洩らしたが、これはまさに彼らが違う国の王族なのだと意識させる境界線の一つであろう。

セファスは弟に体ごと向き直ると両肩を竦める。
「何を言っているんだい、手段の問題じゃないだろう」
「だって」
「だってじゃないね。僕だっていつでもジウに会いたいけれど我慢している。
 我慢しすぎてついキスクを滅ぼしたくなるほどだ。でもそれをしては皆に怒られるからね。レーンも我慢しなさい」
「…………」
ファルサスとキスクは共に大国と呼ばれているが、その軍事力はファルサスの方が明らかに上だ。
十数年前、彼らの両親がまだほとんど面識がなかった頃、攻め込んできたファルサスにキスクの軍がまったく歯が立たなかったという事実は皆の記憶に今でも色濃く残っている。そのような両国の次代を担う王太子たちは、疑いようもなく周囲から平和な治世を求められているのだが、「会いたい人間にすぐ会えないから」で隣国併合でもされたらたまらない。レーンは反面教師によって分かりすぎるくらい自分の軽率を自覚すると、深く項垂れてしまった。
「分かった。勉強する……」
「とは言え、僕もそれほど冷血なわけではない。レーンの心がけ次第では許可をあげなくもないよ」
「本当!?」
「うん」
心がけが何なのかまでは分からないが、妹を思う気持ちなら負けない自信がある。
レーンは目を輝かせて四歳年上の兄の言葉を待った。父王によく似ていると言われるセファスは、端正な顔立ちに胡散臭い笑顔を浮かべる。
「簡単なことだ、レーン。心がけとはね―――― 単にお前がどれだけエウドラのことを理解しているか、ということなのだよ」
本日の騒動は、ここより始まる。



手触りのよい上質の生地は、澄んだ空色に染められていた。
それら薄布を何枚も重ね作られたドレスは、腰の部分から花のように膨らんで床上に広がっている。
要所要所に使われた同色のレース。花を模した飾りは、上品さの中に一片の愛らしさを加えていた。
どこからどう見ても高貴な姫君のものだと分かる衣裳。丹精込められた一着に身を包んだ子供をセファスは感心の目で眺める。
「これは実に……………………まったく似合わないな」
「当たり前だろ!」
青筋を立てて噛み付いたのは、空色のドレスを着せられたレーンである。
鏡の中の自分にしばし呆然としていた少年は、我に返ると大声を上げた。女装の屈辱に全身がぷるぷると震える。
「何で僕がこんな格好してるの!? 似合うわけないだろ! 気持ち悪い!」
「ああ。実に気持ち悪い。お前ももうちょっと母上に似ればよかったのにな」
「ドレスは似合わなくていい!」
壁際では着替えを手伝った女官たちがうつむいて沈黙しているが、おそらく内心では笑いを堪えているのだろう。
どちらかと言えば母親似の外見をしているイルジェと違って、レーンは年こそ下であるものの男性的な容姿の少年なのだ。
剣の稽古で鍛えられた体と相まって、ドレス姿が非常に見苦しい。女官の手を待たずに彼はそれを脱ごうと服に手をかけ、だがすぐ兄に止められた。
稽古着から王族の室内着に着替えたセファスは穏やかな笑顔で弟を宥める。
「待ちなさい。まだこれからだよ」
「……何が」
「簡単なことだ。お前はこれから『もし自分がエウドラであればどうするか』を試される。
 その結果、エウドラそのものだと分かればその心構えを評価して、キスクへ行く許可をやろう。分かったね?」
「何だそれ! 分かったけど意味が分からない!」
「分かったけど分からないとはなんだい。それこそ意味の分からない発言をしないように。
 僕だってジウがいなくてつまらないんだ。はりきって暇つぶしにつきあいなさい」
「本音が聞こえたぞ、兄上!」
「いいかい、エウドラ?」
「はーい!!」
腹は立つが、既にドレスは着てしまっている。
レーンは内心「エウドラに会う為」と繰り返して覚悟を決めた。第一彼女のことについては兄にも負ける気はないのだ。
妹もどきの反応を受け、セファスは満足そうに頷く。
「ではまず初歩からだエウドラ。今日のおやつは木苺のケーキとチョコレート、どちらがいい?」
「チョコレート!」
「返事が乱暴だよ。それではイルジェに怒られるね」
「チョコレート……が、いいわ」
非常に精神力を消耗する問答。それはまだ始まったばかりである。



キスクに住むジウは、日々の大半をキスク宮廷での勉学にあてている。
王族が身に着ける学問とは種別が異なるが、将来学者を希望する彼女は現在、様々な分野に手を伸ばしてはそれらの知識を蓄積しているのだ。
ただ、数ある分野の中でも魔法に関してはやはり、魔法大国の通称で呼ばれるファルサスが諸国から抜きん出ている。
その為彼女はしばしば出仕する父について、また必要な研究書がある時などは単独でファルサスを訪れていた。
その日も本を探してファルサスを訪れたジウは、どうやって来訪を知ったのか、セファスに呼び出されて私的な広間へと向かう。
けれどそこにいたのは問題の王太子だけではなかった。彼女はドレス姿の少年に目を丸くする。
「レーン殿下、宗旨変えでしょうか」
「何のこと? 私、エウドラよ」
「…………」
何があったか分からない。―――― いや、レーンの後ろで声を殺して笑い転げているセファスを見れば、大体分かるような気がした。
おそらくたちの悪い遊びに巻き込まれてしまったのであろう。弟王子をジウは感情のない目で見やる。
綺麗な顔をしているのだが少女にはまったく見えないレーンは、既に半分以上「行ってしまった」両眼で彼女を見返した。
「ジウ、私キスクに帰りたいの」
「だそうだ、ジウ。君が本当にこれをエウドラと思うのなら、連れ帰っておあげ」
「なるほど。事情は分かりました」
どちらに味方すべきか。そのようなことをジウは考えない。強いて言えば彼女が仰ぐはキスク女王だ。
主君の困った息子たちを順に見やってジウは頷く。
「そういえば、殿下。厩舎にいい駿馬が入ったそうですよ。城の噂ではここ数年見ないほど美しい馬だとか。遠乗りにでも行きましょうか」
「本当か!? 行く!」
「姫は乗馬がお嫌いです」
「………………ジウ、酷い」
馬が大好きなレーンはしゃがみこんで項垂れた。
ここまで頑張ってなりきって、最後の最後で失敗してしまったのだ。弟の敗北に、セファスが背後で手を叩く。
「見事だね、ジウ。さすが僕のジウだ」
「私は殿下のものではございません」
「さて、レーン、遊びは終わりだ」
「兄上も酷い!」
悔しさ百倍の非難にセファスは白々しい笑顔を見せた。「嫌なら騙す側に回りなさい」と締めくくる。
本当に兄の暇つぶしにしかならなかった数時間。虚しさを抱えてレーンがしゃがんだままでいると、ジウが彼の目前に跪いた。
手袋をしていない少女の手が彼に差し伸べられる。
「先程の駿馬はキアーフ侯から私的に女王陛下へと贈られたものです。
 今はキスクの厩舎におりますが、陛下はレーン殿下がお気に召すなら譲られてもよいと仰っています。今から試されますか?」
「いいの!? 行く!」
「ジウ!」
「陛下のご意思です」
幼馴染の裏切りを非難するセファスも、母親を出されては黙らざるを得ない。
あっさりとした逆転に王太子は歯噛みして唸った。その隙にレーンは意気揚々と部屋を出て行く。
「またな! 兄上!」
「……ジウ。次は覚えておいで」
「存じません」

こうしてレーンは久しぶりにエウドラに会い、遠乗りを楽しみ、最後に駿馬を貰って上機嫌で帰って来た。
もっともその頃には何故か「レーン殿下は女装が好き」という噂が城内に広まっていたのであるが。犯人は言うまでもない。