おやつの時間

禁転載

広い書庫には文を書き綴る硬質の音だけが響いている。
長く続いたかと思えばぴたりと止まるそれは、本を積み上げた机に一人向かう少年が生み出している音だった。
彼は分厚い一冊を見ながら集中して何かを書き留めていたが、ふとその手を止めると振り返る。
「大陸史書の七十二巻を持ってきてくれ」
「はい、殿下」
彼の命に応えて、年若い少年が分厚い装丁の本を持ってくる。イルジェは頷いてそれを受け取ると索引を見ながら再び書き物を再開した。
本棚と机椅子以外何もない殺風景な部屋に、ペンの走る音が続く。



イルジェはキスクの正統な王太子であり、日々その為の勉学を必要としている。
それは統治者として不可欠な政軍務の分野に留まらず、歴史、地理、魔法、剣術など多岐に渡っていた。
現在十三歳の彼はそれらを順調に修め、かついずれにも優秀な結果を叩き出しつつある。もっともそれはいささか偏重があり、周囲の大人たちを困惑させていたのだが。
「この再来期についての記述……ちょっと穴がないか? タァイーリについてばかり書かれている」
「かの大国の滅亡が再来期の象徴のような事件ですので。仕方ないんじゃないですか?」
「仕方なくないだろ。小国といえどもその動きは重要だ。キスクももとは小国の集まりだしな。
 ちょっと参考書を集めよう。俺が七十二巻を編纂しなおす」
「信用のおける参考書だけで百三十九冊ありますが」
「半年くらいを目処にやればいいだろ」
イルジェの決定に少年は頭を下げると百三十九冊を揃えに本棚に向かう。
この王太子の唐突な思いつきに振り回されるのは、彼にとって別段珍しいことではないのだ。
それくらいイルジェは偏執的な凝り性で……つまりそのせいで彼を王として教育する大人たちはいつも困り果てているのである。



「殿下、おやつにしましょう」
「今いいところだ。あと三時間待て」
「二時間前もそう仰いました。ちょうど焼きあがるところなんで切り上げて下さい。焼きたてが美味しいんですから」
自分の性格を知り尽くした友人の苦言にイルジェはようやく顔をあげた。
見るといつの間に席を外して菓子を焼きに行ってたのか、二歳年下の少年は白い調理服を着込んでいる。
「何焼いたんだ? 四角か? 丸か? 固さはどれくらいだ」
「柔らかくて四角い土台です。飾りつけはご自由に」
「行く」
土台とは、イルジェの嗜好にあわせてこの少年が編み出した巨大菓子である。
と言っても実情は単に元となる柔らかいケーキを焼き、そこに自分の手で好きなものを塗ったり乗せたりしてもらうだけだ。
二人は書庫を出て広間へ向かうと、黙々とおやつの仕上げを始める。
おもむろに黒い「アンコ」を全面に塗りたくり始めたイルジェを横目に、少年は手押しの配膳台から他の材料を次々とテーブルに並べていった。
キスク次期王たる王太子は、匙を片手にふと天井を見上げる。
「食べ物というものは視覚的な要素も大きいとは思わないか?」
「思います。殿下は食べ物を不味そうに見せる天才ですね」
「この辺、ちょっと黄色が欲しい。そこの皿を寄越せ。真っ黄色のやつ」
「これ、味は激辛ですからご注意ください」
渡された皿をイルジェは眉を寄せて見つめた。苦い顔で調理着の少年を見やる。
「何故菓子の材料に激辛物を混ぜるんだ。でも塗る」
凝り性の王太子は菓子の外観についても手を抜かない。
結果として仄かに甘い匂いを漂わせていた卵色の焼き菓子は、見るも無残な呪いの産物へと成り果てつつあった。
等間隔で縁に黄色の球を落としていくイルジェを、土台製作者の少年は温かい目で見守る。
「そう言えばエウドラはちゃんと城にいるか?」
「おられますよ。おやつが出来たと連絡しておきました。殿下が塗ってらっしゃることは伏せて」
「ジウがファルサスに行ってるから今日は授業が休みかと思った」
「姉は父についていきましたから。授業は今日も絶好調です。絶好調でしごかれてらっしゃいました」
「ヴィーは容赦ないな」
母親の名を出されて少年は肩を竦めた。
学者一家の末子として幼い頃から広く教育されている彼は、今はもっぱらキスクでイルジェと行動を共にしているのだ。
姉とは違った意味で「何を考えているのか分からない」とよく言われる彼は、イルジェから「赤」と言われてどぎつい程に鮮やかな紅粉の皿を手渡した。のん気な声で「それも激辛です」と付け加える。
「激辛ばかりか? どういう選び方をしてるんだ」
「色で選んでます。色鮮やかさを最優先です」
「いい選択だ。間違ってない」
「シスイ! 来たわよ」
音を立てて広間の扉が開かれる。その向こうに紅いドレス姿の妹を認めてイルジェは眉を寄せた。紅粉皿を持ったまま注意する。
「何だ、その扉の開け方は。そもそもお前は自分で扉を開けなくていいんだ」
「ひ……っ、イ、イルジェ」
エウドラは可憐な顔を瞬間で引き攣らせた。
それは兄に注意されたからではなく、明らかに呪いの菓子を見たせいだろう。非難の目が土台製作者の少年に向けられる。
「シスイ! 何でイルジェに仕上げをさせたのよ!」
「面白いからです」
「味を優先しなさい! 味を!」
「騒ぐな、エウドラ。はしたないぞ。第一、見た目さえよければ最初の関門は越えられると思わないか? 物事はえてしてそうだ」
「その見た目も酷いの!」
「安心しろ。味はお前の予想を越えているから」
「つまり激辛です」
「…………さいあく」
少女の非難に、二人の少年は白々と顔を見合わせた。
「何が悪いか分からない」とでも言いたいような彼らは、片方は本気で思っていて、もう片方は「面白いから」やっている。
非常にたちの悪い取り合わせに、エウドラは「もういいわ!」と捨て台詞を吐くとドレスの裾を翻して駆け出していった。
広間に静寂が戻ると、シスイは配膳台の下から一枚の皿を取り出す。
そこに乗せられているのは白を基調として綺麗に仕上げられた小さなケーキだ。
妹の好きな果物を選んで彩られているおやつをイルジェは微笑して見やる。
「別に用意していたのか」
「当然です。姫、泣いちゃいますからね」
「持ってってやれ。俺は自分で食べる」



幼い頃には「水の上が歩けるようになるまで特訓する」と言い出し、一ヶ月間毎日城の池に落ち続けたイルジェ。
突飛な思いつきと、どうしようもない凝り性と、それを実現可能にしてしまう能力を兼ね備えた彼は、今日も何かを追求している。
その後をついていく少年は、過ぎるほど彼を支え火に油を注いでいるだけだ。
それぞれの兄姉とはまた違った騒動を引き起こす二人は、表面上は常識的に自分たちの為すべきことをこなしていく。
―――― ただその程度が「ほどほど」だったことは一度もないのだが。



シスイが配膳台を押していなくなると、イルジェは自らナイフを使って自作のケーキを切り分けた。
巧みに激辛の赤や黄色を避けて薄いケーキ片を皿に積んでいく彼は、それが充分な高さになると手をつけ始める。
見た目の美しさはそれだけで長所だが、とりあえず味には無関係だ。
彼は大好きな「アンコ」塗りケーキを黙々と食すと、女官を呼んで残りは臣下たちに分け与えるよう命じたのだった。いつものことだが非常に迷惑である。