禁転載
彼女と初めて出会った時のことはぼんやりとしか覚えていない。
当然と言えば当然だろう。僕はとても小さかったし、彼女にいたっては生まれたばかりだった。
まだ弟がいなかった僕にとって赤ん坊の彼女は「何だかよく分からないもの」でしかない。
だから、彼女を彼女として認識したのはきっと二度目に会った時のことだろう。
すぐ下の弟、イルジェの後ろに隠れて僕を見上げていた彼女。
まさかあの時は、彼女が僕の妃になるとは思ってもみなかった――――
「勝手な回想を口に出してなさらないでください、殿下」
「途中で止めないでくれないか? これからがいいところなのに」
「回想を越えて予言のようになっていましたよ。しかも事実無根の。限りなく可能性が無に等しい」
「そんなことを言うものではないよ、ジウ。未来はまだ何も決まっていないのだから」
セファスの言に本から顔を上げたジウは、心からの呆れ顔になった。
普段ほとんど崩れることのない彼女の無表情が変じるのは、このように呆れている時か怒っている時くらいしかない。
苦笑ではない彼女の笑顔を見たことがある人間など、城にはまずいないのではないかとさえ言われるほどだ。
少年は自身も開いていた本を傍のテーブルに置くと立ち上がる。ファルサス城の奥にあるこの広間には、今は彼ら二人だけしかいなかった。出仕する父親についてファルサスに来ていたジウを呼び寄せたセファスは、置いてあった剣を身に着けると笑顔で少女を振り返る。
「折角のいい天気だ。少し外に行こう」
「行ってらっしゃいませ。私は図書館へ参ります」
「なら訂正だ。少し城を脱出しよう」
ジウからの返事はなかった。代わりに彼女はすっと立ち上がる。冷ややかさを宿し細められた黒い両眼をセファスは嬉しそうに眺めた。
「精霊は使わないでいてあげるよ。差がつきすぎるからね。
―――― ああ、君は使い魔を使ってもいいよ。それくらいは何とか出来るから……」
「メア。殿下を捕縛」
セファスが言い終わるより早く、ジウは自身の使い魔に命を下した。
窓辺にいた緑色の小鳥がそれを受けて拘束用の魔法構成を展開し始める。
同時に微塵の躊躇もなく彼を捕らえようと走り出した少女に、セファスは笑顔で手を振ると広間を飛び出した。
いつからかファルサス城名物となっている「追いかけっこ」。その被害は常に未知数である。
魔法大国と呼ばれ長い歴史を持つファルサスは、それを支える王族たち自身が強者としてあることもまた広く知れ渡っている。
ある者は卓越した剣士として、ある者は強力な魔法士として、ファルサス直系と呼ばれる王族たちはそのほとんどが戦闘巧者であるのだ。
勿論それは血によるものだけではなく、日々のたゆまぬ研鑽と訓練によって徐々に身についていくものなのだが、セファスはどちらかというと「天賦の才」に恵まれた側の人間であった。
優秀な剣士でありながら魔法士。おまけに王家の守護精霊もついているとあっては、個人として死角はないに等しい。
十五歳になった彼を力でねじ伏せられるのは、今のところ王剣の主人である彼の父親のみだと言われていた。
もっともその王剣が将来セファスに受け継がれた時にどうなるのか、数年後を予想したがらない者は城内に多い。
絶対魔法抵抗を持つ剣アカーシア―――― 大陸で一振りしかないと言われる王剣は、魔法士にとってはいわば「屈服」と同義の武器だった。
「もっともあれを持つと僕も魔法を使えなくなっちゃうんだけどね」
浮遊の構成を組んで三階の窓枠を乗り越えた少年は、魔法を制御して芝の上に着地しながらそう嘯いた。振り返ると追ってきたジウが窓に足をかけているのが見える。そのまま使い魔に頼って飛び降りる気なのだろう。少年のような軽装に包まれた体をセファスは爽やかな笑顔で見上げた。
「ジウ、そういう時はスカートを履いているものだよ」
「あれは機能性に乏しいもので」
「残念だな。君ならドレスも似合うのに」
言いながらセファスは防御結界を張るとその場を飛び退く。
遅れてジウの投げた小さな球が結界にあたった。直後それは空中で爆ぜる。
何かの魔法薬らしき緑色の霧。その指先がたちまちあたりに広がり始めるのを見て、セファスは瞠目した。
痺れ薬か睡眠薬か、いずれにせよ体の自由を奪うものだろう。彼は口と鼻を手で覆うと霧から逃れて駆け出そうとする。
しかし彼は、次の瞬間反転しかけた身を屈めると剣を抜いた。視界を遮る霧の中から突き出された短剣を眼前で受ける。
高い金属音。口笛を吹きながら少年は剣を大きく払うと、反動をつけて後ろに跳んだ。霧の中から現れた少女に肩を竦めて見せる。
「段々容赦がなくなってきたね、ジウ。霧は目晦ましか」
「私如きの剣を殿下が食らうはずもありませんから。遠慮なく」
「そういう思い切りのよさが可愛らしいよ」
セファスの右腕を狙う二撃目は、ばね仕掛けの如き鋭さで打ち込まれた。
大の大人でも目の当たりにすれば怯んでしまう速度の突きを、けれど少年は剣の根元で弾く。
もう一歩を下がったセファスは続けて繰り出される少女の攻撃を冷静に捌いていった。晴天の下、軽やかな剣戟の音が響き渡る。
「ジウ、ファルサスに戻ってくるといいよ。この城に住めばいい」
「ありがたいお言葉ですがキスクに家がございますので。ご用事があるのでしたら転移陣で参ります」
「用事はない。いつも君の顔が見たいだけだ」
「では想像されればよろしいのでは? 実物と大差ありませんでしょう」
あの日、弟の影に隠れていた彼女は人形のように愛らしく見えた。
父に「欲しい」と言ったら「好きにしろ。イルジェにだけは断っておけ」と返された。
けれど、その手を引いて乱暴に弟から取り上げようとした時、大人しそうに見えた彼女は真っ直ぐに僕を見つめて怒ったのだ。
『ちゃんとことばで言いなさい』と。
―――― その日から僕は、ずっと彼女を追いかけ続けている。
「腕を上げたね、ジウ」
「ありがとうございます」
少女は一旦短剣を引くと、細い足でセファスの足首を蹴ろうとする。
だが一瞬早く彼は後ろに下がってその攻撃を避けた。殺そうと思えばいつでも殺せる彼女の隙を見ながら、彼は剣を振るわずまた後退する。
「殿下、そろそろ部屋に戻られては如何です? 私疲れました。本の続きも気になります」
「本の方が大事なのかい? 君が追いかけてくれなくなったら僕は死ぬね。つまらなくて」
「そのような理由で死なれては、レーン殿下がお気の毒です」
第二王位継承権を持つセファスの弟は、王太子の彼よりも大分穏やかな教育を受けている。
それは学者であるジウの母親がレーンの教育係をしているということも大きく影響しているのだが、レーンだけが教育を受けていた五年前とは違い、今はエウドラも同じ教育を受けているのだ。セファスはジウの一家がその為ファルサスからキスクへ移り住んでしまったことを非常に残念に思っていた。叶うなら彼女だけでもファルサスに呼び戻したいのだが、その希望は口に出す度、彼女自身に否定されている。
余裕を失わぬセファスは、少女の剣を受ける為だけに下がっていく。
彼女はそれを確認すると攻める方向を変えた。少年の左を狙って飛び込んでくる。
「甘い」
鋭く切り上げる短剣に空を切らせ、彼は右に跳んだ。
ジウの表情を確かめようと視線を巡らせ……けれど不意に、足場を失い「落下」する。
今まで少女を見下ろしていた目線がたちまち低くなり、剥き出しの土が目前となった。態勢を保とうとついた両足が、敷き詰められた落ち葉に突っ込む。
転びかけた少年は何とか姿勢を戻すと、地上に立つ彼女を仰ぎ見た。つまり、庭に掘られた大きな落とし穴の中から。
「引っかかりましたね、殿下」
「……いつ掘ったんだい?」
「殿下に呼び出されてからお伺いするまでの間に。メアに頼んで」
今までの彼女の攻勢は全て、この場に彼を立たせる為の布石だったのだろう。
長い「追いかけっこ」のどこから彼女の思惑通り動いていたのか、記憶を手繰りかけてセファスはそれをやめた。剣をしまうと両手を挙げる。
「降参だ。僕の負けだよ、ジウ」
「では、穴を埋めるのを手伝って下さい。迅速に。跡形もなく」
魔法を使えばまだ逃げられる。けれど、彼はそれをしない。
張り巡らされた策に引っかかってしまう、その時だけ彼女は楽しそうに笑うのだから。
二人の少年少女は急いで穴を元通り埋めてしまうと、元の広間へと戻った。
これくらいで済む日はまだ平和な方である。
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