人の影 016

禁転載

《塔》―――― それはルーディルスタイアの中央に建っているという支配層の居城のことだろう。
誰が住んでいるのか、具体的なことは皆が知らない。塔自体見たことのないリルヤは、本当にそんな人間たちが存在するのかとさえ思っていた。
だが、リルヤの登録を抹消出来るのが塔の住人だけなら、確かに誰かしらはいるということになる。
それもおそらくは、彼女と関わりのある人間が。
リルヤは既視感に似た焦燥に、額を押さえた。
「え、それって、どういうこと……?」
「リルって、元はタワーの住人だったのか?」
「や、さすがにそれは」
ないはずだと思いたい。自分は、そんな得体の知れない種別の人間ではないはずだ。
だが……「タワー」という単語自体に何か引っかかるものを感じるのもまた事実だ。
それは目覚めた時からそうだった。リルヤは少年に聞き返す。
「私って、タワーの住人だったと思う?」
「どうだろう。それか、エリア7の人間かも。だったらタワーと交流があってもおかしくないだろ?」
12のエリアの中でももっとも富と権力が集中しているというエリアは、リルヤにとってあまりよい印象がない。
彼女は眉を寄せて、覚えのない自分の過去へと思いを馳せた。
「タワーか、エリア7か……?」
「《塔》に新たな住人は生まれません。欠員が出たという記録もありません。―――― ただ一人を除いて」
ディルシュの補足した内容は、二人の間に不明瞭なさざなみを生んだ。
『その一人がリルヤではないか』とは、彼らのどちらもが思ったことだろう。
しかしその疑念を口にするより先に、ディルシュが続けた。
「彼女が除名されたのは、遥か過去のことです」
「あれ、じゃあリルじゃないってこと?」
「シティが生まれるよりも前の話です」
「どんだけ昔の話だそれ……リル生まれてないだろ」
シティの成立についてリルヤは詳しいことを知らないが、カナンがそう言うからにはそうなのだろう。
ますます分からなくなったリルヤは、けれどふと手首に熱を感じて気を取り直した。
赤い鳥が変じた腕輪が、そこには見える。
―――― そう言えば、これが何なのか聞いてみたい。
リルヤは思ったままに口を開きかけたが、カナンの前で不思議な鳥の存在を明らかにしていいものか躊躇われた。
迷っているうちに、彼女はもう一つ気になっていたことを思い出す。
「あ、そうだ。歌ってみていい?」
「何急に」
「最初から覚えている歌があるの。なにか手がかりになるかと思って」
「え。そんなのあったのか。んじゃ、歌ってみれば」
友人の後押しを受けてリルヤは頷いた。深く息を吸い込むと、白い殻から始まる歌を紡ぐ。
水撒きの時などによく鼻歌で歌っている旋律は、カナンも聞き覚えがあったのだろう。「ああ、それか」と呟くのが聞こえた。
ディルシュは何も言わない。
歌い終わると、リルヤは青い円筒に尋ねる。
「今の歌、知ってる?」
はたしてこのデータベースは歌まで記録しているのだろうか。
いざ歌ってしまってからリルヤはそんなことを考えたが、女の声は否定を返さなかった。
人であったのなら、嘆息が聞こえたかもしれない間が訪れる。
「―――― 伝言を、預かっています。リルヤ=ルルゥ」
「え?」
目を丸くする少女の返事をディルシュは待たなかった。円筒の中程に、ぽっと白い光が灯る。
「……『ようこそ、リルヤ=ルルゥ。旅の幸いを祈り、いつか会える日を心待ちにしている』」
淡々と部屋に響く言葉。
白い空間に反響する声はその時、男のもののようにも、女のもののようにも聞こえた。
過去から未来へと貫くそれは、リルヤの中で何度も繰り返される。



「伝言って……私に? 誰が?」
驚きよりは静かな感情を乗り越えて、リルヤは尋ねる。
―――― それを言付けたのは、ひょっとして最初の部屋に彼女の名を書き残した人間ではないのか。
自分を知る相手の名が、分かるかもしれない。
リルヤは期待と不安に高鳴りそうな胸を、作業着の上から押さえた。ディルシュの無機質な声が返る。
「伝言は、間違いなくあなたに。ただ誰からのものか、私は伝える権限を与えられていません」
「それ、口止めされてるってこと?」
「私は人間ではありませんので、そのような言い方には当てはまりません」
「でも同じことだよな」
カナンの発言には、リルヤも同意見だ。何だかからかわれているような、遊ばれているような印象に困惑してしまう。
そんな彼女の不満げな顔が見えた訳ではないだろうが、ディルシュは穏かな声で言った。
「ですが、あなたはいずれその相手が誰かを知るでしょう」
「……いずれって、いつ?」
「リルヤ=ルルゥ。ここでお会いするのも終わりです。―――― またいつかどこかで」
問いかけに答えないままの挨拶は唐突で、けれどそれ以上に唐突な変化が、ディルシュには現れた。
硝子球の中の円筒に灯っていた光が消える。それに驚く間もなく、円筒それ自体がさらさらと灰色の砂となって崩れ出した。
みるみるうちに硝子球の底に溜まっていく砂へ、リルヤは我に返ると手を伸ばす。
「ま、待って!」
しかし、円筒の崩壊は止まらない。
硝子に両手をついた彼女の前で、ついにそれは完全に砂の小山と成り果てた。
事態についていけず茫然とするリルヤの背後で、カナンが深い息をつく。
情報の断片を惜しむ溜息―――― それはしかしすぐに、息を飲む気配へと変わった。
「おい……リル」
「え?」
「やばい」
何が不味いのか。振り返らずとも、分かる気がした。
それでもリルヤは、振り返って確かめる。
「あ……」
昇降機へと繋がる真っ直ぐな通路。その中程に立つ銀色の少女は、虚ろな両眼を二人へと向けている。
彼女の背後には閉まったままのドアがある。どうやって突破してきたのか、二人と銀砂を遮るものは、もはや何もなかった。
白い部屋に別の出口はない。リルヤは「焦るな」と自身に言い聞かせて銃を抜いた。
万が一の可能性にかけて、口を開く。
「あの、私たち、もう帰ります」
ここへ来た者を排除するというなら、これで見逃してはもらえないだろうか。
銃口を下に向けたまま握る少女に、銀砂はただ右手を上げた。その手でリルヤを指し示す。
「行け」
無数の銀の尾が、それを合図に二人へと襲い掛かった。

リルヤは大きく左へと跳ぶ。
すれすれを通り過ぎる尾の大群が、ディルシュの操作パネルを呆気なく砕いた。風圧と共に細かい破片が押し寄せる。
少女は目を細めて、それらが目に入るのを遮った。
―――― 地上の部屋で遭遇した時とは違い、この白い部屋にそう逃げる場所はない。
だが通路から直線状にある場所にいては、狙い撃ちをされるのが落ちだ。
そう咄嗟に考えて部屋の隅へと避けたのだが、カナンも同じことを考えたようで、反対側の壁にぶつかっているのが見えた。
友人の無事を確かめたリルヤは、銃口を尾の集まっている部分へと向ける。
「この……っ!」
白い光条が、数十本の尾を一度に切断した。
しかしそれは、全体の数からすればあまりにも僅かだ。
側面からの攻撃に、残る尾が一斉にリルヤの方へと向く。
彼女は向けられた楔にぎょっとしたが、体は素早く動いていた。尾を避けて更に右へと飛びながら、痺れる手で銃を撃つ。
銀砂の姿は死角になって見えない。それは相手からも同じであるようで、尾は直線的にリルヤのいた場所に突き刺さると、白い床を抉った。
石の砕ける重い音。リルヤは床の上を転がる。無理な体勢で銃を撃ったせいで、うまく着地することが出来なかったのだ。
打ち付けた肩の痛みに苦痛を飲み込みながら、彼女は何とか立ち上がった。銃の狙いを定めようとして、しかし軽く硬直しかける。
―――― 視線の先、いつの間にか部屋の入り口に、銀砂が立っていた。
「あ……」
これは、死んだかもしれない。
そう予感しながら、リルヤは銃を持つ腕を上げる。
銀の少女に照準を合わせ―――― だがその腕を飲み込むように、銀の尾が波となって盛り上がった。
静止したように感じる時間。脳裏に今まで出会った人たちの顔が浮かぶ。
何の感情も沸いてこない。ただリルヤは黙って、己の死を待った。



音はしなかったと、思う。
だから何が起きたのか、すぐには理解出来なかった。
彼女を貫こうとしていた銀の尾が全て、力を失って床の上に落ちる。
その向こうに、ぽつりと立っている銀砂が見えた。―――― ただしその胸には、大きな穴が開いている。
「え……?」
見間違いかと目を疑う。けれど次の瞬間、銀砂の細い体は掻き消えるように消失した。
ディルシュとは違い砂も残らない。無数の尾も全てなくなり、すっきりした白い部屋をリルヤは見回した。
「あれ……なんで」
「間に合ったか?」
聞こえてきたのは、よく知る青年の声だ。近づいてくる足音に、リルヤは立ち尽くす。
―――― まさか彼が、こんなところに来てくれるはずがない。
ここに来ると言って出てきた訳ではないのだ。ましてや彼がドームを出たところなど見たことがない。
期待をするな、と自身に言い聞かせて、だがリルヤは部屋の入り口から目を逸らすことが出来なかった。
まもなく銀砂の立っていた場所に、一人の男が現れる。
いつもの白衣は着ていない。黒いシャツ姿の青年は、銃を片手に部屋へと入ってくると、顔を顰めてリルヤを見た。
その表情を目にした彼女は、溢れ出す安堵によろめく。これでカナンも安心しただろうと友人を振り返って――――
そこで、異常に気づいた。
「……カナン?」
反対側の壁に寄りかかって立っている少年。しかしその顔色は蒼白で、目線は虚ろだ。
リルヤはその時になって初めて、カナンが右脇腹を押さえていることに気づいた。灰色の作業着が、その部分だけ黒く染まっている。
頭で理解するよりも先に事態を察した彼女は、少年のもとへと駆け寄った。
「カナン!」
「揺するな、リルヤ。見せてみろ」
ヒズの声が届いたのか、カナンは壁に寄りかかったままずるずると床へ崩れ落ちる。
その体をヒズが受け止めて横たえるのを、リルヤは現実感を抱けぬままに見下ろしていた。
頭の奥でディルシュの声が鳴り響く。
『―――― 旅の幸いを祈り、いつか会える日を心待ちにしている』
それが何を意味するのか、今は少しも理解したくなかった。