人の影 017

禁転載

カナンの傷は、内臓にまで達する深いものだった。
おそらく最初の攻撃時に受けたものだろう。避け切れなかった楔が、一本は下腹を貫通し、もう一本は脇腹を抉っていた。
応急処置を施すヒズの隣で、リルヤは必死に友人へと声をかける。
「カナン! しっかりして!」
「そのまま呼んでろ。今は意識が落ちると不味い」
手際よく手当てをしている青年は、冷静な声でそう指示するが、状況がよくないのはその表情から明らかだ。
ヒズは小さく舌打ちして顔を上げると「血と臓器が要るな……」と呟いた。
「血と臓器? どこで手に入るの?」
「生体部品を扱う店なら売ってる。が、このエリアで手に入るものは大抵粗悪品だな。間に合わせにはなるだろうが……」
「他のエリアなら買えるの?」
「買える金があればな」
手を止めぬままそう返す男の眉間には、深い皺が寄っている。
おそらくは簡単に買えるような値のものではないのだ。それは同じく生体部品が必要なサフィが、十年以上かけて費用を貯め続けていることからも分かる。リルヤは現実を認識して、声もなく喘いだ。

―――― 自分のせいだ。
過去のことなど、分からないなら分からないままでよかったのだ。
ただそれで周囲の人間に迷惑をかけたくないから、記憶を取り戻せたらいいと思っていた。
けれど得られた結果は皮肉なものだ。カナンは酷い怪我を負ってしまっている。
リルヤは時間が戻ればいいと願って―――― だが現実逃避しかけた自分を奮い立たせた。
「ヒズ、できること他にある?」
「街に連絡して迎えを呼んでくれ。ドームの地下に運びたい」
そう言いながら青年が投げてよこしたのは、小型の通信機だ。
リルヤは彼に使い方を聞きながら、四苦八苦して運搬車の救援を頼んだ。
ちょうど手当てを終えたらしいヒズが、カナンを抱き上げて立ち上がる。
「とりあえず外に出るぞ」
「うん……」
迷わず昇降機へと向かう彼の後を、リルヤは小走りについていく。
「……ヒズ、ごめんなさい」
「話は帰ってからだ」
いつもと変わらぬ男の声音。少女はぽつりと呟いた。
「カナン、ごめん」
意識のない少年は答えない。リルヤは乾いた唇を、黙ってきつく噛みしめた。






ドームの地下に運び込まれた少年は、ヒズの手によって手術を受けた。
傷ついた臓器は新しいものと取り替えられ、全ての傷は縫われたが、エリア10内で購入した臓器はやはり、長持ちしないものらしい。
特に成長期であるカナンの体には合わないのだと、見舞いに来た屑拾いたちが囁きあっているのを聞いて、リルヤは後悔せずにはいられなかった。
データベースを探しに行ってから数日、輸血用のベッドの枕元に立った彼女は、眠っている彼の表情をじっと見つめる。
もともと健康的とは言いがたかった少年の顔だちは、この数日ですっかりやつれてしまっていた。
「ごめんね、カナン……」
事件から今まで、謝罪の言葉を何度口にしたか分からない。意識せずとも自然に洩れてしまうそれは、リルヤに重く沈殿する痛みを与えた。
黒い棺で目が覚めてから、これ程の後悔をしたことはなかったのだ。
世の中には取り返しのつかないことがあると、知っていながらも分かってはいなかったのだろう。
例えば建物を囲う壁が壊されているのを見た時にでも、帰る選択をすることは出来た。
それをせずに立ち入ってしまったのは、やはり無用心だったとしか言いようがない。
リルヤは今更吐き出すことの出来ない感情を、ただ嚥下する。
喉を落ちていく熱い息に、黙って耐える―――― その時、うなだれる彼女の手に、そっと温かいものが触れた。
「あ……」
見るとカナンがいつの間にか薄く目を開けている。弱弱しくかかる指を、リルヤは包み込むようにして握った。
「カナン」
「気にすんなよ、リル」
掠れ気味の声には、彼女を励まそうとする意思が窺えた。リルヤはきつく唇を噛む。
「でも」
「オレがドジ踏んだだけだって」
優しい言葉は、かけられればかけられるだけ辛くなる。
彼女に出来ることは、かぶりを振ることとカナンの手を握り続けることだけだ。
まもなく少年が再び眠りに落ちると、リルヤはそっと指を解く。
そして彼女は足音をさせず、前だけを見て地上への階段を上っていった。



がらくたの前の定位置に座っている青年は、少女の気配に気づいたのだろう。顔を上げずに聞いてきた。
「輸血が終わったのか?」
「ううん。まだかかりそう」
「そうか」
エリア10のショップから入手している血液は、質の悪さゆえにすぐに下血してしまう。
その為、数日間に渡って輸血し続けているのだが、この繰り返しもカナンの体に消耗を強いることとなっていた。
今日までずっと友人に付き添い、その状態の変化を見てきたリルヤは、がらくた山の前に立ってヒズと向き合う。
「話があるの」
「言ってみろ」
―――― ずっと考えていたのだ。その度に、同じ結論に達してきた。
それはヒズも予想のついている答かもしれない。リルヤ=ルルゥは青い目を真っ直ぐに男へと向ける。
「私、別のエリアに行ってくる」
「臓器を買いに行ってくるのか」
「うん。正確には前借りして買う。で、その分働いてくる」
一度、見舞いに来たセロには相談したのだ。その時の彼の答は「構わないよ」という穏かなもので、リルヤの働き先も斡旋してくれるらしい。
最初はそれを、人買いであるセロの息子を通じてのものかとも思ったのだが、どうやらそうではないらしい。
もっともリルヤは、そうだったとしても構わないと思っていたのだが。
「セロさんの知り合いのお店で、三年。それだけ働けば返せるって」
「三年で済むってことは、エリア7だな」
「そうなんだ」
「一年でいい。あとは俺が払う」
「え……」
その答は予想していなかったものだ。リルヤは唖然として男を見返した。
「でもこれは……」
「釘を刺しておかなかった俺にも責任はある。お前はディルシュに辿りつく可能性があるかもしれないと、疑っていたんだからな」
青年の声音に自嘲的な響きはない。
だがそれは、彼の発言の真実味を損ないはしなかった。白衣の鑑定屋は深い息をつく。
「リルヤ、自分の過去を知ろうとする気持ちは分かる。だが《塔》には近づくな」
「どうして? ヒズ、なにか知ってるの?」
「お前のことについては知らない。ただ、そういう人種が稀にいることは知っている」
「そういう人種って?」
「《塔》の技術を引き継いだ実験体のことだ」
―――― 実験体、と。
同じ単語を、前にも聞いた。ヒズと初めて会った時のこと。
あの時はリルヤも、何とも思わなかったのだ。物知らずな彼女は、それが一般的な単語なのだろうと思っていた。
けれど事実は、そうではなかったというのか。
すぐには何も言えぬ少女に、男は軽くかぶりを振る。
「今のお前には関係のない話だ。俺も大して多くを知っているわけじゃない」
「なら、なにを知ってるの?」
「《塔》から逃げ出した実験体は、皆それまでの記憶を消されているということくらいだ。
 だから誰も何も知らない。分からない。中には逃走したということさえ忘れている者もいる」
ヒズの手の中から、発条が一つこぼれ落ちる。
からからと音を立てて床を転がっていくそれを、リルヤの視線は無意識のうちに追った。小さな発条は、地下への階段の手前で倒れる。
「じゃあ私も……だから記憶がないのかな」
「俺はそう思っている。だからリルヤ、自分の過去を無理に追うな。知ろうと思って知れるものじゃない」
「ヒズ、でも私は――」

『旅の幸いを祈り、いつか会える日を心待ちにしている』

あの伝言は、何を意図してのものなのだろう。
旅とは、いつか会える日とは何なのか。
本当に自分が《塔》から逃げ出した実験体であるのなら、誰が伝言を言付けたのか。
ぐるぐると脳裏を回り始める疑問を、しかしリルヤは我に返ると振り切った。
―――― 今はそのようなことを考えている場合ではない。重要であるのは、カナンのことだ。
ぶんぶんとかぶりを振って、少女は顔を上げる。
「わかった。気をつけとく」
「いつ発つんだ?」
「明後日の予定。急な話でごめんなさい」
「別に構わない」
淡白な青年は、このような時でも淡白だ。
しかしそれは、情がないというわけではないだろう。二年分の肩代わりは、世間知らずなリルヤにも相当な金額であると分かる。
少女は保護者であった男を、自分でもよく分からない感情のまま見つめた。遠くから微かにせせらぎの音が聞こえる。
「ヒズ」
「なんだ?」
「一年経ったら戻ってきていい? 借りた二年分、ちゃんとエリア10で働くから」
ほんの数ヶ月の暮らしだったとはいえ、この緑のドームこそが彼女にとっての家だ。
そして目の前の青年と友人たちとが、かけがえのないリルヤの家族だ。離れねばならない今だからこそ、そう思う。
子供を脱しかけた真摯に、ヒズは前髪の下から一瞬彼女を窺ったように思えた。低い声が少しだけ翳りを帯びる。
「返す必要はない。その気があったとしても、ここで働くなら十年はかかる」
「十年でも一生でも。それが許されるなら」
期間の長さは苦にするようなものではない。リルヤは泣き出しそうな思いで微笑った。
「私、ここに帰ってきたい」
―――― たとえそれが、旅の放棄を意味するのだとしても。



さらさらと水が流れる。
葉々のこすれあう気配。土と緑の香りが静寂と共にドームを満たす。
灰色の世界の中で、焦がれる程に澄んでいた場所を、リルヤは目を細めて仰いだ。
そんな彼女を見ていたヒズは、我に返ったように口元を曲げると、視線を手元に戻す。
「……好きにしろ。ここがお前の家だ」
あっさりとした青年の言葉に、リルヤは今度こそ淡く微笑んだ。






屑拾いの為に歩いていた時には、広大に思えたエリア10の廃墟も、運搬車で移動してしまえばあっという間だ。
エリア境界の検問をセロに連れられて越えたリルヤは、荷台から振り返って灰色の景色を眺める。
砂の降り積もる道と、崩れた建物群。その中にもうあのドームは見えない。途端強くなる喪失感に、少女はきつく目を閉じた。
前の座席にいるセロの、柔らかな声が聞こえる。
「一年なんてあっという間だ」
「うん……。頑張る」
次に戻ってくる時には、もっと大人になれていたらいい。リルヤはそう願って新たなエリアへと顔を上げる。
明るくなっていく紫の空。砂埃に人の影が差す。
そうして茶色の髪に絡む砂は、湿った風に少しずつ吹かれ、乾いて崩れた路面へと落ちていった。


【Act.1 -City:Area10- End】