人の影 015

禁転載

柱と床だけの昇降機に駆け込んだ二人は、操作パネルに急いで指を伸ばした。
見るとパネル上の行き先は数箇所あり、いずれも地下表示になっている。リルヤはドアの戻った通路を確認した。
「あれ……逃げられたのかな」
先程まで彼らを追って来ていた銀の尾はまだ見えない。
ドアに遮られ、こちらに来ることが出来ないのだろう。安堵しかけた二人は、しかしすぐに頭上からの異音に身を竦ませた。
天井の上から聞こえてくるそれは、重い何かを激しく床に叩きつけてくるかのような音だ。
先程の少女が強引に天井を破ろうとしているのかもしれない。二人は顔を見合わせると、移動可能フロアの中からもっとも下の階を選択した。
照明の点滅がやみ、ゆっくりと昇降機が動き出す。
それまでの床がリルヤの目線と同じ高さになった時、硬い音と共に天井に亀裂が入った。そこから楔のついた細い尾が一本入り込んでくる。
「……っ!」
反射的にリルヤは銃を天井へ向けかける。だが、カナンが慌ててそれを制止した。
「やめろって! 天井に穴あいちまう!」
「あ、そうか」
幸い伸びてきた一本は、二人の居場所を把握してはないようだ。辺りを見回すように天井付近を蠢いている。
次第に遠ざかる天井を見上げ、リルヤは昇降機がもっと速く動いてくれるよう願った。そんな彼女の内心を煽り立てるかのように、視界が滑らかに地下へと沈んでいく。
やがて天井が暗闇の向こうに見えなくなると、二人はどちらからともなく、ほっと息をついた。
「これ、他に出口ないと困るよね……」
「だよな」
もし入り口が来た場所と同じ建物しかないのだとしたら、どの道帰る為にはもう一度銀砂と相対せねばならない。
しかしそこまで考えてリルヤは、上の建物にドアがなかったことを思い出した。
「大丈夫だよ。どっか別の出口があるはずだって」
そうでなければ、この地下自体誰にも使うことが出来ないはずだ。
カナンもそのことを思い出したのか頷く。
「だと思うけどさ、にしてもびびったよな」
「うん。びっくりした。なにあれ」
「わかんね。……ゾイは多分、あいつにやられたんだよな」
翳りを帯びる声に、リルヤは隣の少年を見た。
彼の知り合いであったという屑拾いの死体を、彼女は見ていない。生きている時に会ったこともないのだ。
そのような自分に人の死を悲しむ権利はない気がして、リルヤはただうつむいた。
遠ざかる天井。昇降機の操作パネルに、赤い光が灯る。
そうして二人は、もっとも深いフロアへと辿りついた。

「また通路か」
そうカナンがぼやいた通り、昇降機のついた先は一本道の通路になっていた。
まっすぐ正面へと伸びている道。だがその先はそう長くはなく、白い照明に照らされた行き止まりが少し進んだところに見える。
そしてそこには、四角い画面を中央に嵌めこんだ、大きな端末が設置されていた。
直方体を奥から手前へ斜めに切り取ったのような無骨な形は、極一般的な操作端末と同じだ。
リルヤは拍子抜けした気分で、画面の消えている端末を指さした。
「あれがそうかな」
「かな。動くといいけど」
―――― あまりにも呆気なく見つかりすぎて、本物かどうか自信がない。
そんなことを思いながら通路へと降りたリルヤは、けれどすぐに銀砂のことを思い出して首をぶんぶんと横に振った。
隣のカナンが驚いて彼女を見る。
「どうしたんだよ、リル」
「なんとなく……。よし、行ってみよう!」
「おう」
急がなければ、銀砂が追ってくるかもしれない。二人は自らを奮い立たせて行き止まりの端末へと駆け寄った。
壊れているかもしれないと思っていたが、先についたカナンがパネルに手を触れると、画面が青白く光り出す。
そこに現れた一文を、彼らは食い入るように見つめた。

『あなたは誰ですか』

―――― それは、根源へと触れる問いである気がした。
自分が誰であるのか、リルヤは知らない。
知らないからここまで来たのだ。けれど知ったところで何が変わるのかも分からない。
分からないまま、彼女は己の名を口にした。
「私は……リルヤ=ルルゥ」
目覚めた時に教えられた名前は、今や自身のものとして彼女に馴染みきっている。
仮に本当は別の名であったと言われても、リルヤはこの名を使い続けるだろう。
息を飲んで画面を注視していると、そこに新たな一文が現れた。
『その名の登録はありません。一時的な使用者として登録しますか?』
「え……」
これは、データベースから素性を探ることは出来ないということだろうか。
落胆しかけたリルヤは、だが気を取り直すと頷いた。
「登録してください。そして調べてください。この一年の間に、行方不明になった少女が何人いるのか」
隣でカナンが息を飲むのが分かる。
おそらく、この質問でリルヤの素性が判別する可能性は高い。名前が違っても、いなくなった少女の容姿から特定出来るはずだ。
しかし彼女の思惑とは裏腹に、画面に表示されたものは次のような一文だった。
『シティの住民たちについては、記録対象外です』
「え、でも登録って……」
『生まれた時に登録され、死亡した時に登録の書き換えが行われます。現状の記録はしていません』
「あー、そっか……」
それでは調べる手立てはない。
リルヤが諦め半分で肩を落とすと、カナンは何処かほっとしような表情で苦笑した。
「気を落とすなよ。記憶なくったってリルはリルだろ。それで充分だし、無用心なのだって少しずつ何とかなるって」
「ん……。ありがと、カナン」
「よし、んじゃ別の出口探すか」
「うん」
どの道、このフロアには短い通路と端末以外何もない。
昇降機へと引き返しかけたリルヤは、しかしふと思いついて端末を振り返った。
この建物内の構造図を引き出せないか、手袋を取りながらパネルへと手を伸ばす。
音声入力ではなくパネル操作を選んだのは、単なる気紛れだ。
しかし、彼女の細い指先が触れた途端―――― パネルは跡形もなく消失する。
それだけでなく端末それ自体も、行き止まりの壁ごと音もなく掻き消えた。唖然とする二人の前に、更に奥へと通路が拓ける。
ドアを消した時と同じ現象。リルヤはまじまじと自分の手を見下ろした。カナンがぽつりと呟く。
「何のスイッチ押したんだよ」
「なにも……」
「ってか、さっきのドアもそうだけど、どうなってんのかよく仕組み分かんねえよな」
「私もわかんない」
「ま、なんかドア見えるし行ってみるか……」
カナンの言う通り、新しく現れた通路の先には、先程と同じ扉が見えた。
二人は困惑を抱えながら進み、やはり塔のモチーフが描かれているドアを消失させて、その中へと入る。
ドアの先はがらんとした部屋になっていた。
目に痛いほど真っ白な部屋。家具の類はなく、中央には巨大な硝子球が台座の上に鎮座している。
二人は硝子球の中で光っている青白い円筒を、目を丸くして見つめた。
「なにあれ」
「何かの装置じゃないか? 操作パネルついてるし」
カナンの言う通り、硝子球の前には簡素な操作パネルがついている。
ただしそこには画面はない。何に使う装置なのか、二人はパネルの前に歩み寄った。手を伸ばそうとするリルヤを、少年が制止する。
「オレがやる。リルが触ると消えそうだし」
「え、あれ私のせい?」
「オレが触っても消えなかったよ」
なんだか釈然としないが、カナンの指摘ももっともだ。リルヤは手を出すことを諦め、パネルをじっと覗き込んだ。
しかしよく見るとそのパネルは一部壊れて、下の機械部分がむき出しになっている。
まるで怪我をしているようなそれを、リルヤは気の毒に思った。それと同時に、破損していることで、確かにこの不思議な物体が現実のものであることを実感する。
そうでなければ、まるで夢の中のような部屋だとしか思えなかっただろう。
操作パネルを弄っていたカナンが溜息をついた。
「駄目だ。動かない」
「あれ。壊れてるのかな。私も触ってみていい?」
「いいんじゃない」
言われてリルヤは無造作に手を伸ばした。パネルに触れようとした瞬間、先程端末自体が消えてしまったことを思い出す。
だが、それで消失が起きるならまた新しい道が拓けるはずだ。彼女はそう自身を納得させ、人差し指をそっとパネルに触れさせた。
ひんやりと固い感触が返る。と同時に―――― 部屋の中に知らない女の声が響き渡った。
「そこにいるのは、誰ですか」
「え? 誰?」
二人は慌てて部屋の中を見回したが、他に誰の姿も見えない。ただ声だけははっきりと聞こえた。
驚くリルヤは、何かを感じて硝子球を見上げる。中の太い円筒が、囁くように明滅していた。それはリルヤにある直感を抱かせる。
「ひょっとして……これが話してるの?」
「はい。私の名は《ディルシュ》。ルーディルスタイアの記録装置です」
「記録装置?」
その単語は二人の中で、一つの事実へと結びついた。カナンとリルヤは同時に口を開く。
「もしかしてこれが本物の中央データベース……?」
「そのように呼ばれることもあります」
「うわ」
姿の見えない相手から返事が来るというのは、なかなかに慣れない。
思わず奇声をあげてしまったリルヤは、しかしカナンに「落ち着けって」と言われて我に返った。
改めて青白い円筒を見上げる。おずおずと、しかし改めて本題を切り出した。
「あの、あなたはなんでも知っている? 私、知りたいことがあって来たの」
―――― こちらが本当のデータベースなら、さっきとは違う答が聞けるかもしれない。
そう思って尋ねるリルヤに、ディルシュは穏かな声で返した。
「全てを知っているわけではありません。知らないことの方が多いのです」
「私はリルヤ=ルルゥ。……私のこと知ってる?」
緊張は、繰り返せば慣れてしまうものなのかもしれない。
少なくとも先程よりも気負うことなく、リルヤは自分の名を口にすることが出来た。
ディルシュの円筒がささやかにまたたく。
「リルヤ=ルルゥ―――― データにありません」
「……そっか」
「抹消されたのは、五年前のことです」
「え?」
ディルシュの補足は、理解出来るまで一瞬の間を要した。
その言葉の意味するところは「消されるまでは登録があった」ということだ。
カナンが代わりに聞き返す。
「それって、行方不明とか死亡とかで消されたってこと?」
「いいえ。消息不明については記録されませんが、死亡の際には書き換えが行われます。登録の抹消はありません」
「じゃあなんで……」
消されてしまったのか。リルヤは言葉を失って立ち尽くす。
―――― それではまるで、自分が何物からも切り離されているようではないか。
目覚めた時よりも余程不気味な事実に、少女は軽くよろめきそうになった。
ディルシュの声は、真白い部屋で淡白に響く。
「抹消された理由については分かりかねます」
「誰が消したんだ?」
「不明です」
取り付く島もない返答は、不可解さを増していくだけだ。
カナンは少し首を捻ると更に質問を重ねる。
「じゃあ、誰なら消せる?」
その答は、心の何処かで半ば予期していたものだったかもしれない。
ディルシュは少しの空白を置くと―――― 「《塔》の住人であれば権限があります」と言ったのだった。